榎本の庄へ行ってみようと思い立ったのは、四月も終わりの、連休直前のことだった。もうすぐ国光の命日がやってくる。幸い五月の三日から五日まで、部活は休みだ。海神の祠へ行って、せめて花でも手向けたかった。



朝早く、ベージュのコットンパンツと生成のシャツに小さなリュックをひっかけ、不二は家を出た。一人で出かけるということに家族はひどく心配したが、もう大丈夫だから、電話を入れるから、となんとか説得した。


電車を乗り継ぎ、不二は小さな駅に降り立った。潮騒が聞こえる。

ただいま…

ホームに立って不二は小さく呟く。吹きすぎる風が海の香りを運んできた。





小さな町の駅は閑散としていた。改札を出ると小さなロータリーになっており、並べられたプランターにはペチュニアが濃いピンクや白の花を咲かせていた。
不二は祠へ続く海沿いの道を眺める。アスファルトの道の先には、初夏の海が晴れ渡った空を映してキラキラと光っていた。

ごぉっと電車の音が響いた。上り電車が駅に着いたらしい。ぱらぱらと数人、改札口から出てくる。ぼんやりと不二はそれを眺めた。

「不二。」

突然、名前を呼ばれて不二は飛び上がった。それは愛しい男の声だった。だが、その男は八百年も昔にこの地で死んでいる。呆然と不二は声の方を見つめた。人影が近寄ってくる。濃緑色の直垂に身を包み、髪をざんばらに降ろしたままの国光、そうだ、客のない時には折烏帽子を面倒くさがって髪を後に一つくくりにするだけで、秀次がそれをいつもたしなめるのに聞き流すばっかりで…

「不二、やっぱり不二か。」
「……手塚…」

濃緑色のシャツとジーンズ姿の手塚国光だった。

「どうしたんだ、こんなところで。」

半ばぼぅっとしたまま、不二は答えた。

「別に…ちょっと来てみただけ…」

それから、残像をはらうように、不二は軽く頭を振った。国光はもういない。それは嫌と言うほど思い知っているはずなのに、何故ここで、国光と過ごした場所で手塚に会うのか。手塚の顔を見るたびに、国光の死を突きつけられる。深い淵に落ち込んでいくような喪失感に襲われる。それなのに、よりによって何故。

「君こそ…どうしてここに…?」

ぽろりと口をついて出る。

「オレの母方の祖母がこの近くなんだ。」

手塚の答えはあっさりしたものだった。

「言っていなかったか。小さな頃から遊びに来ていたから、案外この辺りには詳しいぞ。」
「…そうなんだ…」

早く一人になりたい、気の抜けた返事をしながら不二の頭にはそれしかなかった。一人になって祠へ行きたい、祠から館への道筋もなんとなくわかるはずだ。せめて館のあった辺りに立って皆の冥福を祈りたい。

「不二はなにか用事でもあるのか?」

突然聞かれて面食らう。答えようがなくもごもごと言った。

「え…別に…」
「そうか、だったら一緒に来ないか。今から歴史資料館に行こうと思っていたところだ。」
「え、あの…」

手塚は不二の様子には頓着せず、勝手に話を進める。

「小さい所だがなかなか面白いぞ。あぁ、バスが来た。あれだ。」
「あの、手塚、だから…」

あたふたする不二を引っ張って、手塚は目の前に止まったバスに乗り込む。ほとんど乗客のいないバスの、前方の座席に腰をおろしながら不二は諦めたようにため息をついた。

「君って案外強引…」
「なんだ?」
「…別に。」

不二は手塚に気づかれないようまたため息を漏らした。妙に強引なところとか、ヘタに国光と似ないで欲しい。やりきれなくなる。
車体を軋ませながらバスが発車した。横では手塚が資料館の説明をはじめる。適当な相づちを打ちながら不二はバスのフロントガラスの向こうを眺めた。砂浜沿いに松林が見える。不二の耳にはいつしか館の松風の響きが蘇っていた。


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がんばれ、手塚、榎本国光に負けるなよ〜っ。時を越えた恋愛対決?次回で最終回。