不二が教室に入ったのは朝の学活が終わる頃だった。教員達には春休みの事情が説明されていたうえ、不二は元々優秀で信頼篤い生徒だったので、少し体調が悪かったという理由だけで後はあれこれ詮索されなかった。
示された自分の席につく。ふと、強い視線を感じ顔をあげ、ハッとした。斜め前に手塚がいる。手塚は何か言いたげな顔でじっと不二を見つめていた。

手塚…

不二は思わず目をそらした。

手塚と一緒のクラス…

不自然だと自覚はしている。だが、どうしようもなかった。

まだだめだ…

国光と同じ顔、同じ声の手塚。しかし、不二の愛した榎本国光ではないのだ。榎本国光はもういない。どこにもいない。死んでしまったのだ、八百年も昔に。
いつか、手塚とも平静に話せる日がくるだろう。だが今はだめだった。恋人と同じ姿形をしているのに、全くの別人だ。手塚を見るたびに自刃した国光の姿が目に浮かぶ。あまりに辛すぎた。震えそうになる手をぎゅっと握りしめる。
窓側の席で菊丸が小さく手を振っていた。菊丸の姿に不二は内心ほっとする。菊丸が一緒のクラスなのは助かる。気安い友の存在が心底ありがたかった。




朝の学活が終わると、早速菊丸が寄ってきた。

「不二ぃ、大丈夫きゃ〜?」
「エージ。」

不二はなんとか笑みを作る。菊丸はちょこんと不二の机に腰掛け、顔を覗き込んでくる。

「このオレが一緒のクラスだかんねっ。菊丸エージにすべてお任せだよん。」

おどけて菊丸はどんと胸を叩いてみせる。不二を元気づけようと一生懸命なのだ。さりげない優しさが不二の胸に沁みる。

「うん、おまかせするよ。」

菊丸の言葉を受け取って答えると、菊丸は大きな目を嬉しそうにくるくるさせた。

「手塚も一緒だしさ、隣のクラスには乾とタカさんもいるし、呼べば大石だってとんでくるって。」

大石のやつ、一人離れて10組なんだよ〜ん、と菊丸は悪戯っぽく笑う。

「ね、手塚っ。病み上がりの手塚君もど〜んと菊丸様を頼ってくれちゃっていいよん。」
「何を言っているんだ、まったく。」

呆れたように手塚が腕を組んで立っていた。ハッと顔を上げた不二は手塚の黒い瞳にぶつかり咄嗟に目を伏せてしまう。それでもなんとか今朝のことを謝らなければともごもご口を開いた。

「あの…手塚、さっきは…」

ぽん、と頭に手が置かれた。

「気にするな。」

ぽんぽんと二、三度かるく叩かれる。

「大丈夫だ、不二。」

俯いたまま不二は目を見開いた。国光の声で国光と同じ事を言う手塚、違うとわかっていても、今だけはその響きに頼ろうと思った。あの世から、手塚の口を借りて国光が励ましてくれたのだと、そう思いたかった。滲みそうになる涙をぐっと堪え、不二は小さく礼を呟く。

「ありがと…」

国光の魂に、死んでしまった大切な人達に届くといいと思いながら。

「大丈夫だから…ありがと、国光…」
僕、がんばるからさ…

愛しい姿が目に浮かぶ。
ちゃんと生きるから、君の分まで。
心の中で語りかける。

下を向いたままの不二は、この時、菊丸がぽかんと口をあけて手塚と不二を交互に眺め、手塚が赤くなったまま体を硬直させていたことを知らなかった。








ゆっくりと時は流れる。満開の桜はやがて桜若葉となり、柔らかい風の吹く季節となった。

朝起きると、不二は携帯にむかって小さくおはようを言う。携帯が手元に戻ってきた日以来、電源を切ったままだ。この携帯を使う気はおきなかった。これは形見だった。携帯には国光が、忠興が、秀次がいる。不二は使わないこの携帯を肌身から離さなかった。

手塚とまともに口をきくのはまだ辛すぎた。クラスでも部活でも、手塚が不二を気にしているのはわかっていたが、顔を見れば同じ顔をした恋人のことを思いだしてしまう。そんなとき、菊丸が同じクラスだというのは本当に助かった。彼の横にいて微笑んでいればそれでなんとかなる。それでも、ふと体から心が離れたようにぼんやりすることが多くなった。



部活では越前リョーマがやたらと不二をコートに引っ張り出したがった。

「んっとに、先輩達にまかせてられないっすよ。」

まだその表情に幼さを残していながら、背の伸びた越前はもう不二を追い越し桃城と並んでいる。リョーマはなにかと不二にかまいたがった。

「先輩とのラリーはオレがやるんス。」

桃先輩達はデリカシーないっスからね、と相変わらずの生意気口を叩いては桃城と海堂にド突かれていた。

皆が不二を気遣っている。優しさが身にしみる。だから不二は微笑んだ。学校へきちんと通い、部活に励み、友達や後輩と笑いあう。そしてひっそりと涙を流した。



一人になると、不二は館での日々をたどった。同じ四月を過ごしながら、過ぎていった四月を思い返す。

初めて弓の稽古をさせてもらった日、馬に乗った日、風呂だと喜んでお寺に行ったのはいいが、真っ暗な蒸し風呂でとんでもない目にあったこと、義秀が甘いお菓子をくれたこと、テニスボールのような模様の不二の食器も、館と一緒に燃えただろうか。

たった一月の間に、本当に色々なことがあった。そしていつも、最後に愛しい想い人の直垂姿が蘇る。

国光…

満月に照らされた国光、桜の花吹雪の中にたつ国光、颯爽と弓を射る国光、国光、国光、国光…

不二は携帯に頬をすり寄せる。

「…涙って枯れないもんだね、国光…」

たとえ枯れることがあったとしても、心が血を流し続けることには変わりない。がんばって、精一杯生ききって、そうしたらまた、国光に会えるだろうか。あの世でもなんでもいい。また国光に会わせてください…

「会わせてください…」

心が千切れそうだ。

がんばって生きると決めたんだから、だから国光、いつか命の終わるとき、僕に会いにきて。今度こそ一緒にいて…

「もう一度、国光に会わせてください…」

日々の営みを終え、一人ベッドに横たわって涙するときだけが、不二にとって唯一、力を抜ける時間となっていた。


☆☆☆☆☆☆☆
うぅ、うううっ、辛いね、辛いよね不二君っ。いったい誰なのっ、アンタをこんなに苦しめたのはっ。(お前が言うな)ふごっ(また肩に何かが…)