抜け殻。
今の自分を表すとしたら、抜け殻だとしか言い様がない。それでも不二は生きなければならないと己を叱咤した。
御渡り様として過ごした一ヶ月は不二の心の底に「生」の意識を植え付けた。人が物を食べ、衣服を着て、雨風のあたらないところで眠る、今まで当たり前すぎて考えもしなかったことが、実はひどく大事なのだと身にしみて実感していた。
鎌倉人達は、生をつなぐという基本的なことを手にするために、とにかく働いていた。大人も子供も、男も女も、日夜労働することでようやく生きる糧を得ていた。国光や榎本一党のように、支配する側の人間ですら、ぼんやりと過ごせるほど甘い世の中ではなかった。衣食住とは、漫然と受け止めていいものではなかったのだ。
ちゃんと生きなきゃ…
桜若葉の中、出陣していった人達の姿を今でも鮮明に思い出せる。がちゃがちゃと具足の触れあう音、陽光をはじく武具、おぅおぅという掛け声、それらを見送りながら不二は絶対に忘れまいと誓ったのだ。不二が覚えていることが、死地へ向かった人々へのはなむけなのだと、そして今、それが供養なのだと不二にはわかっていた。
ちゃんと生きるから…
戦火の中で身を犠牲にして不二を生かそうとしてくれた人達がいる。国忠が、祐則が、榎本の郎党達が、たとえ八百年過去の人々で、不二が存在しようとしまいと結局戦で命を散らす運命だったとしても、あの時、彼らは不二を助けようと必死だったのだ。彼らに貰った命だ。どんな悲しみに胸が塞がれようと不二には生きる義務がある。
でもさ…もうちょっと待ってよ…
不二は四月初旬の空を見上げる。八分咲きのソメイヨシノが青空に枝を伸ばしていた。今日から新学期だ。
ちゃんと生きるから、もう少し待って。
まだ心がついていかないんだ、そう小さく呟く。この現代でも、家族や友人達が自分の身を案じてくれている。
わかっているから、甘ったれて潰れたりなんかしないから、しっかりするから、だからもう少し…
ぼんやりと不二は青学高等部へ続く桜並木を歩いていた。頬を撫でる風はまだひんやりとしていたが、浮き立つ春の気は辺りに満ちている。ソメイヨシノの桜並木の下は登校する生徒で溢れていた。明るい声が響いている。戻ってきた不二の日常だ。
不二はふっと苦笑した。鎌倉時代に飛ばされたとき、何度この桜並木を夢にみたことか。戻りたいとねがったことか。今、その願い通りに不二は桜並木の下を通学している。
華やいだソメイヨシノを眺めながら、不二は館の桜を思い出した。あれはなんという名前の桜だったのか。白や淡いピンクの花が花びらを散らしていた。満開の桜の庭で国光が不二を馬に乗せて、向かった先の山道もまた山桜が満開だった。ちらちらと花びらが国光の直垂の上に舞い散って、そうだ、国光が手を引いてくれたのだった。温かくて大きな国光の手、自分達は手を繋いで桜の山道を登った。時折振り向く国光が目を細めて言う。
疲れぬか、不二。
「不二。」
びくっ、と不二は震えた。国光の声。
「くにみ…」
不二は振り向いた。国光の声がした。桜の下に直垂姿の国光が…
「不二、もう体は大丈夫なのか。」
「……手塚…」
黒い学生服の手塚国光がいた。手塚はまっすぐ不二の側にくると、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたんだ。目が赤いぞ。」
不二はその場を動けない。体を強ばらせたまま手塚を見つめた。
「退院するとき、お前は眠っていたし、春休みも体調がよくないと聞いて心配したぞ。無理をするな。」
国光と同じ顔で、同じ声で手塚がしゃべる。
「今日から部活だが、きついようだったら休んだ方がいい。」
国光と…
「あ…」
「不二?」
真っ青になった不二に驚いた手塚は、手を伸ばした。
「大丈夫か、不二?」
手塚の指が頬に触れた瞬間、はじかれたように不二は駆けだした。
「不二っ。」
背中で手塚の声が聞こえる。周りにいた生徒達が驚いたように不二を見た。不二は駆けた。誰にも会いたくない、見られたくない。
気づいた時には、高等部のテニス部部室の裏に座り込んでいた。ここなら誰もいない、まだ誰も来ない。不二は顔を覆った。
まだ時間がある。落ち着いて、それから正面玄関に行ってクラス割を見て、教室に行って、それから…
「国光…」
それから友達とおしゃべりして、学活を受けて。
「国光…くにみつ…」
今日は午前だけだから、部活に行って挨拶して、それから手塚に今朝はごめんね、って、何でもないんだって…
「くにみつっ…」
涙は枯れないのか、枯れてくれないのか。
「う…うっ…うぅ…」
唇を噛みしめ、不二は嗚咽を殺した。遠くに予鈴を聞きながら、それでも不二は動くことができない。風が涙の流れる頬をひんやりと撫でていった。
☆☆☆☆☆☆☆
うぉぉっ、不二君を苛めたおしているような気がっ。愛ゆえだ、愛っ…ぐぉぉぉっ(肩にズンと何かが乗った)