警察の質問が何度かあった。しかし、不二は何も覚えていない、と答えるだけで、あとは黙り込んでいた。それで、一応記憶障害、ということになっている。
行方不明になっていた間の記憶障害をのぞけば、他に不審な事柄も見つからないとあって、この事件は結局それで終わりになった。だが、それでもしばらく両親は警察と病院の往復で忙しくしていた。不二自身は体に別状なしということで、二日後には退院を許される。手塚はその前日、退院した。病室に顔をだしたそうだが、丁度不二は眠っていて、顔をあわせることはなかった。





「周助、寒くない?」

四月初めの風はまだ冷たかった。父親が病院の正面に車をまわしてくる間、不二はぼんやりと外に佇んだ。

今日は四月二日…

桜はまだ蕾で、咲いている木は見あたらない。

もう若葉だったのに…

館に吹く風は肌に心地よく、初夏の緑が眩しかった。それなのに、ここはどうだ。桜もれんぎょうも花すらなく、緑は淡い。

「アニキ、時差ぼけ、まだなおんねぇの?」

ようやく落ち着いた不二が、四月一日だと日付を教えられて呆然としたのを、裕太はまだ心配しているのだ。不二はわずかに微笑んだ。

「もう大丈夫だよ、裕太。心配いらない。」

そう、もうなにも心配ない。ほんの二日ほど時間がとんで、またもとの生活が戻ってくる。父親の車が正面玄関に停車した。家族が病院のスタッフに挨拶している。不二は車に乗り込んだ。海沿いの道を東京に向かう。波が早春の陽をはじいてきらめいている。車窓を流れる明るい海を不二はただ見つめていた。










自宅に戻っていつもの生活がはじまった。父親は春休み一杯は家にいるという。忙しいだろうからもう大丈夫だよ、と言えば、こんなときくらいさぼらせろ、と笑い返された。家族の気遣いが素直に嬉しい。だが、不二は部屋に引きこもってぼんやりすることが多かった。

夢だったんだろうか…

不二は一人、部屋に籠もったままとりとめもなく考え続ける。一ヶ月過ぎていたはずが、目覚めてみれば二日、行方不明になっていただけだという。
だが、夢にしてはあまりにも現実味のある生活だった。忠興や秀次、郎党達、そして朝比奈義秀、皆、声も顔もはっきりと思い出せる。そして何より自分は激しい恋をしたのだ。家族も現代での生活も全てなげうって側にいたいと願うほど、人を愛した。

榎本国光…

愛おしいと焦がれる気持ちも、目の前で自刃する姿に胸の裂かれる痛みも、夢というにはあまりにも生々しい。そして体が覚えている。国光の唇の感触、触れられる喜び、国光を己の体の中に迎え入れた時の痛みと快楽…


幻覚でもみたのだろうか。自分は覚えていないだけで、あの二日間に何かに巻き込まれていたのかもしれない。そこで薬でも使われて幻覚をみせられでもしたのだろうか。
支離滅裂な考えだが、鎌倉時代で一ヶ月暮らしたというよりは信憑性がある。手塚に恋するあまり、しかし道ならぬ恋だという罪悪感から、榎本国光という本でちらりと見た名前の幻影を自分でつくりだしたのだろうか。

『おれは手塚ではない。』

耳に国光の声が蘇る。だが、それは手塚と全く同じ声なのだ。自分は長い夢を見ていただけなのだろうか…




ジャージのポケットには何も入っていなかった。日付とメモを記した「教育委員会監修、郷土の歴史と文化」の本か携帯があれば、まだ何かわかったかもしれないのにと不二は残念に思う。柔らかいベッドに身をなげだし、不二はあの固い夜具の感触に思いを馳せる。

夢だというのか…




「アニキ、いいか〜。」

部屋のドアを裕太がノックした。不安定な不二を家族はあまり干渉しすぎることなく見守ってくれていた。いつもなら傍若無人な弟も遠慮がちだ。

「なぁ、入るぜ。」

ドアが開いて裕太が顔を出した。不二は起きあがり、弟へほほえみかける。一瞬、照れたように赤くなった裕太は、わざとぶっきらぼうに何かを不二に突きだした。

「なぁ、これ、アニキの携帯だろ。」

ハッと不二は弟の手元を見る。確かに自分の携帯だ。だが、あの携帯は、不二が投げ捨てたのではなかったか。この世界に帰りたくなくて…
そこまで考えて、不二は自嘲した。たった今、鎌倉時代での生活は夢だったのではないか、と考えていたのに。

不二は裕太から携帯を受け取った。怪訝な顔をしていたのだろう、裕太が言った。

「菊丸さんや大石さんが届けてくれてさ。なんか、海神の祠とかいってたけど、その近くのでっかい木の下に落ちてたんだってよ。」
「…え?」

不二が顔を上げた。

「でもさ、変なこと言ってたぜ、菊丸さん達。」

裕太が首を捻った。

「その海神の祠の近くって、手がかりないかみんなが探した場所なんだってさ。テニス部の皆もだし、警察も現場検証ってやつ?それやってたらしいんだけど、その時はアニキの携帯、落ちてなかったって。」

不二は目を見開いたまま裕太を見つめた。

「…これ…見つけたの…いつ…?」
「アニキが見つかった次の日だって。病院に見舞いにきてくれてたんだけどさ、東京に帰る前、もう一度祠に行ってみたら、携帯が落ちてたって言ってたけど。」

不二はひゅっと息を飲んだ。思わず携帯を握りしめる。裕太はしきりに首を捻っていた。

「変な話だよな。こんなの落ちてたらすぐ見つかるって。アニキがいなくなって、真っ先に携帯探したり連絡したりしてたんだぜ。だいたい、フツー繋がるよな、待ち受けのまんま、近くに落ちてんだからさ。」

圏内じゃん、とそこまで言って、裕太は不二の様子に気がついた。不二は真っ青になって僅かに震えている。裕太は慌てて言いつくろった。不安にさせたいわけではなかったのだ。

「まっまぁさ、案外無能なんじゃねぇの?あそこの警察。田舎だもんなぁ、携帯見落としたんだよ、きっと。田舎警察だしさっ。」

地元民が聞いたら袋だたきにされそうな暴言を吐きつつ、裕太は退散した。いつも飄々としている兄に甘えていただけに、不安定になっている兄を安心させられるような度量は裕太にない。

晩ご飯のおかず、分けてやっかな。

不二の好物を思い浮かべながら、そのくらいしか出来ない己を裕太は情けねぇ、と小さく罵った。


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謎はすべて解けた、犯人はこの中にいるっ、名探偵コ…あてっわててっ(袋だたき)