「だめだっ。」
不二は携帯を力一杯投げ捨てた。祠の傍らに生えた若木の、親指ほどの幹に当たって携帯は下に落ちた。だが、不二の体を取り巻く白い粒子はますます光りを強めていく。
「嫌だっ。」
不二は国光の側へ駆け寄った。そのまま不二は国光の胸に飛び込む。すっと体が国光を通り過ぎた。
「え…」
草の上に膝をついた不二は、慌てて体を起こすともう一度国光に触れようと手を伸ばした。
さわれない。
目の前に国光の顔があるのに、不二の手はそれを通り抜けてしまう。
何度も何度も不二は手を伸ばした。だが、同じだった。国光に触れられない。
草の上に膝はつけるのに、大地の感触はまだ膝にあるのに、何故国光にはさわれないのだ。
「国光、国光っ。」
くしゃりと顔を歪め、不二は国光の名前を呼んだ。国光が目を細めた。血に濡れた皮のゆがけのまま、国光は不二の頬に指を伸ばす。だが、その指は不二の頬を通り抜け宙をかいた。それでもしばらく不二の頬の辺りを彷徨っていたが、そのうちぱたりと力を無くして下に落ちる。国光の口元に諦めたような笑みが浮かんだ。
「もはや…触れることもかなわぬか…」
「嫌だっ、嫌だよ国光っ。」
不二は泣きじゃくった。自分は国光と一緒に生きるのだ、それがかなわぬ時には共に死ぬのだ、そう決めたのに、何故今頃になって元の世界に引き寄せられていくのか。
「国光と一緒にいるっ。」
今ここで国光と死んでもいい、そう叫ぶ不二に国光の表情が和らいだ。
「おれと共に?」
「国光と一緒に死ぬっ。」
国光は微かに首を振った。そして懐から小刀を取り出す。不二の口から悲鳴が上がった。
「やめてっ。」
それは不二が現代から持ってきた小刀だった。榎本の最後の当主が、榎本国光が自刃したと伝えられる忌まわしい小刀。不二は必死で小刀を取り上げようとした。が、虚しく手は宙をかくばかりだ。国光は笑みを浮かべたまま言った。
「戻るがいい、おぬしの世界へ。」
すらりと小刀の鞘をはらう。刀身がきらっと銀色の光を放った。
「やめて国光っ。」
不二は半狂乱だった。言い伝え通りに、あの小刀で国光が命を絶つ。歴史は変わらない。ならば何故、不二はこの場にいるのか。為す術もなく、しかし、身を切り裂く悲しみは現実のものだ。何故、なんのために不二はここに来た。この悲嘆は、絶望はいったい何なのだ。
「嫌だ、やめて、国光ーっ。」
胸を掻きむしらんばかりに不二は叫んだ。国光がまた首を振る。
「おぬしの姿のあるうちに死なせてくれ。おれの…」
それから国光は優しく微笑んだ。
「すまぬ、おれの我が儘だ。」
「嫌だっ。」
不二は激しくかぶりを振った。
「そんな我が儘聞いてやらないっ。約束したじゃないかっ。」
ぼろぼろと流れる涙が大地に落ちる。
「死なないって、一緒にいるって約束したじゃないっ。」
国光は何も言わない。優しく微笑んだままだ。
「死んだらだめだ…国光…」
泣きながら不二は国光に手を伸ばした。触れないとわかっていても、それでも国光を抱きしめようとした。その時突然、不二の体を取り巻く白い粒子が渦を巻きはじめた。
連れて行かれるっ。
不二は戦いた。
国光と離されてしまうっ。
不二は必死で抗った。
「嫌だっ、君と一緒にいるっ。」
光を振り払おうと身を捩る。だが白い輝きはますます強くなり、不二の体を包みこみはじめた。
「不二。」
力強い声が不二を呼んだ。ハッと不二は動きを止める。
不二の目の前に、黒髪をはらいどっかりと大地に腰を据えた国光がいた。濃い緑の草原に垂れこめる暗灰色の雲、血塗れた赤糸縅の国光だけが鮮烈だ。国光は不二に向かってきっぱりと言った。
「八百年たとうと、千年過ぎようとおれの魂はおぬしを求め、そして見つけだす。」
国光は泥と血に汚れていたが、黒々とした瞳はまだ光を失っていない。凛とした響きが不二の耳を打った。
「これからどんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ。」
ざぁっと草の葉を揺らして、一陣の風が草原を吹きすぎていった。国光の黒髪が鎧の上に散る。
風が国光を連れて行く、連れて行ってしまう。
不二は恐怖した。だが声が出せない。体を強ばらせたまま、ただ、国光の黒い瞳を見つめるだけだ。国光が小刀の柄を両手で握り、刃を首に当てた。銀の刃に映る朱は鎧の色なのか、それとも国光の血の朱か。
「忘れるな、不二。」
静かな声だ。国光の、まっすぐに不二を見つめる黒曜石の瞳にはいまだ黒い炎が揺らめいている。
「しばし、さらば。」
国光がぐっと口元を引き結んだ。左肘が上がったと同時に柄を握った拳に力が込められる。刃が首筋に食い込んでいく。ガッと目を見開き、渾身の力で国光が柄を握った両手を引き下ろした。
「あっ。」
不二の世界から音が、色彩が消えた。灰色の世界でそこだけ鮮やかな朱が弧を描く。
あれはなんだ、あの朱はなに…
不二は手を伸ばす。
傾いでいく体は、灰色の草を濡らす朱は…
「いやだ、くにみつーっ。」
不二の悲鳴と白い光りが炸裂するのが同時だった。真っ白な輝きに目が眩み、意識が遠のく。薄れていく意識の中で、国光の声が聞こえたような気がした。
どんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ。忘れるな、不二…
そのまま不二の意識は途切れた。
「アニキが見つかったっ?」
不二裕太は椅子をはねとばして立ち上がった。
「ぶっ無事なのかよっ。」
「特に外傷はないそうです。ただ、意識がないため、病院で検査を。」
不二家の人々は待機していた宿から知らせにきた警官のパトカーに同乗にして病院へ向かった。
「手塚の目が覚めたそうだぞ。」
青学高等部テニス部副部長、大石秀一郎が、自主的に居残っていたテニス部員達のもとにかけこんだ。合宿所近くに大手の病院が移転してきていたため、手塚はそこへ入院しているのだ。部員達が病院へ駆けつけた丁度その時、不二裕太、由美子、そして不二の両親が病院へ到着した。
「不二が見つかったぁ?」
そのまま、不二の家族とテニス部一同は不二の病室に直行する。
三月三十一日の午前十時、不二周助失踪二日後のことだった。
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………え〜っと、えっと、えっと、殺しちゃった…わははっ、わわっいてっいててっ、石、投げないで〜〜っ。