具足の鳴る音や掛け声が遠ざかり、やがて聞こえるのは波の音だけになった。不二はいまだ足場の上で、誰もいなくなった庭を見つめている。空は昨日と同じに晴れ渡り、ゆったりと雲が流れていた。海風も優しく頬を撫でていく。だが、もうここには誰もいない。国光も忠興も秀次も…
「御渡り様。」
不二はのろのろと声のする方へ振り向いた。秀次について不二の世話をしている若い郎党が一人、立っている。
「祐則…だったね…」
昨日、花筏を届けてくれた郎党達の一人だ。まだ元服していないことをからかわれていた。
「はっ、」
若者と呼ぶにはまだ幼いこの郎党は、名前を呼ばれて嬉しそうにした。
「殿より、御渡り様の御側を離れぬよう言いつかってござります。」
死なせるにはあまりに若すぎて国光も不憫に思ったのだろうか。だが、彼とそう年の離れていない若者達は、具足をつけて死地へ赴いた。彼らは死ぬ。昨日は一緒に花筏の枝を切っていた彼らが、明日明後日には命を失う。
でも、祐則は死なずにすむかもしれない…
折烏帽子をまだ許されていない祐則は、総髪を一つに括っている。
「祐則…」
不二は最後に残った気力を振り絞るように微笑んだ。
「部屋に白湯を持ってきてくれるかな。少し、疲れたから…」
「はっ、まずは御渡り様、お部屋へ。」
祐則の手を借り、足場から不二は降りた。自分で感じる以上に気をはっていたのか、体が上手く動かない。
しっかりしろ、不二周助。
今頃国光は鎌倉への道を駆けているのだ。待つ身の自分が弱ってどうする。不二は己を叱咤し、館の中へ戻った。
☆☆☆☆☆
白湯を運んだ後、祐則は下がっていった。おそらくは控えの間で、不二が呼べばすぐに駆けつけられるようにしているだろう。不二はすることもなく、ぼんやりと外を見ていた。館はしん、と静かだった。時折、犬の鳴き声と下人や下女の働く声が聞こえるくらいだ。
いつもなら…
不二は耳を澄ましてみる。
いつもならもっと賑やかなのに…
案外と館の中は様々な音に満ちていたのだと気づく。馬の咳や蹄の音、見回りの郎党の声、武芸の稽古に励む人々の声、ちょこちょこと忠興が顔を出し、よく気のつく秀次が世話を焼きにくる。そして国光…
不二は国光がこの部屋で仕事をするときに座っていた場所を眺めた。不二の畳のすぐ近く、東側の板戸の横に国光は座り、書簡に目を通したり書き付けを書いたりしていた。不二がじっと見つめると、必ず気づいて顔を上げる。そして優しい笑みを浮かべるのだ。
不二はかぶりを振った。いつも国光がそこへ座っていたわけではない。なのに、何故その場所がぽっかりと空虚に見える。床に射し込む陽の光すらどこか現実味がない。
「くにみつ…」
小さく名前を呼んでみた。返事があるはずもない。不二は脇息に顔を伏せた。
国光、国光、答えてよ、国光、
しんと静かな館の中、誰の足音も気配もしない。息が詰まる。国光、君がいないと息が出来ない。
いつもみたいに大丈夫だと言ってよ国光…
「御渡り様。」
人の声に不二はびくりと顔を上げた。見ると廊下に祐則が平伏している。
「お休みの所、申し訳ござりませぬ。大殿が御渡り様へお目通り願いたいと申しておりますれば。」
「大殿さんが…?」
国忠はあまり容態が芳しくなく、ずっと部屋で伏せったままだ。不二は慌てて立ち上がった。
「待って、僕が部屋へ行く。大殿さんは病気なんだから。」
「はっ。」
一礼して先に立つ祐則に続きながら、不二はほっと息をつく。誰かと一緒にいないと、どうにかなりそうだった。
☆☆☆☆☆
国忠の部屋の前には、年老いた郎党が控えていた。不二の姿を認めると、どこかほっと安心したような顔をして平伏する。
そういえば、館の守りに二十人くらい残していくって言ってたっけ。
よくよく見渡すと、あちこちに警護の郎党の姿があり、馬も何頭か残っていた。よほど気弱になっていたのかと、不二は自嘲する。
しっかりしろ、不二周助。
もう一度自分に気合いを入れると、不二は国忠の部屋へ入った。
「大殿さん。」
「御渡り様。」
伏せっていた国忠はなんとか起きあがろうとする。祐則が体を支えた。
「だめだよ、大殿さん、寝ていなきゃ。」
不二は傍らに膝をついて、国忠が起きようとするのを止めた。
「恐れ入りまする。」
再び横になった国忠の手を不二は握った。
「大殿さんの務めは、病を治すことだよ。無理したらだめだ。」
国忠はにっこりと頷いた。それから横に控える祐則に言った。
「これ、御渡り様に菓子と白湯じゃ。」
祐則が部屋を出ると、国忠はまた不二にほほえみかけた。
「このところ、年のせいですか、気が弱くなり申した。若い者共が出払うと、爺は寂しゅうござりますよ。」
「うん…」
☆☆☆☆☆☆☆
おいおい、不二君、虐めてばっかだよ。わはは、不二君、ガンバ。ふぎゃっ(国光の峰打ち)