1213年、5月2日、館の人々にとって、それは突然の知らせだった。
和田義盛からの早馬が、急を告げる。倒幕の謀議が漏れ、和田一党だけで立ち上がったのだ。
館の中が騒然となった。慌ただしく戦支度が行われる。庄内に知らせが走り、榎本一党が続々と館に集まってきていた。


不二は国光の部屋にいた。黙々と国光は鎧を身につけている。黒地錦の鎧直垂に赤糸縅の大鎧は華やかでいて威厳があり、当主国光の武者姿を引き立てていた。平時ならば見愡れるその姿を、今、不二は焦燥を持って眺めるしかない。

もうだめなのだろうか。

押しつぶされそうな恐怖が襲ってくる。不二は必死でそれを追いやった。

そんなことない、絶対にそんなことは。

諦めたら全てが終わりだ。この一月、八百年後の世界から不二がやってきたことが多少なりとも影響していたではないか。本家の干渉を退け、国光がすんなりと当主になった。婚姻もなくなった。榎本の結束だとて強くなっているはずだ。ならば今回の出来事も変わるかもしれない、変えなければならない。

せめて国光だけでも…

「不二。」

突然声をかけられて、不二はびくっとした。淡々と具足を身につけている国光だ。

「不二、白竜には乗れるな。」
「…え…なに…?」
「おれが戻らぬときには白竜に乗れ。」

一瞬、不二は国光が何を言っているのかわからなかった。国光は不二の方は見もせず、具足をつけている。

「口綱をはずせば、白竜はおぬしを乗せたまま小和賀の庄へ走る。そのために雅兼殿が置いていった馬だ。」
「なっ…」

がん、と頭を横殴りにされるような衝撃が走った。この男は今何と言った。自分が戻らない時は馬に乗れだと。

「途中、悪路もある。ただ白竜の首にしがみついていろ。ならば落ちることもない。」
「くにみ…」
「雅兼殿は信用のできる御仁だ。不二を大事にしてくれよう。」
「国光…」
「おれが戻らぬときは、の話だ。」
「国光っ。」

鋭い声に国光がはじめて不二を見た。わなわなと不二は怒りに震えている。

「君、自分が何を言っているのかわかってるのっ。」

不二は押し殺した声で、しかし激しい口調で言った。

「死なぬ、なんて大きな事いって、結局自信がなくなったわけっ?」

ハッと国光は何かに気づいたような表情になる。不二は拳を握りしめて国光を睨み据えた。

「その程度の覚悟なら、最初から出陣なんかするなよ。死なないっていうんなら、ちゃんと死なずに戻ってこい。僕が一人でおめおめ生き延びるとでも思ったのか、嘗めんなっ、榎本国光っ。」

びっ、と指を突きつけた先では、国光がぽかんとした顔をしていた。国光はしばらく目をぱちくりさせていたが、それから突然笑い出した。片手で額をおさえ笑い声を上げ、可笑しくて堪らないといった様子だ。今度は不二の方が驚きに目を見開く。

「まいった。」

国光がやっと不二を見た。ふっきれたような表情になっている。

「すまぬ。おれにも迷いがあったようだ。」

国光は手を伸ばして不二を抱き寄せた。

「誓おう。おれは死なぬ。必ずおぬしのところへ帰ってくる。」
「国光…」

不二は固い鎧の上から国光を抱きかえす。

「国光、僕は待っているよ。僕を死なせたくなかったら必ず生きて戻ってきて。」

不二は顔をあげ、国光の頬を両手で包んだ。

「八百年後の世界の僕が君と恋におちたんだ。きっと変わるよ、何かをきっと変えられる。」

不二を見つめ返してくる黒曜石の瞳には、もう揺らぎはなかった。国光は不二の体を離すと、部屋の外へ声を上げた。

「たれかある。」
「はっ、御前に。」

直ぐに秀次が駆けつけてきた。秀次もすでに鎧を身につけている。萌黄縅の大鎧は那須の与一にあやかっているのだろうか。

「秀次。白竜を放せ。」
「は?」

秀次がきょとんと動きを止めた。不二もびっくり顔で国光を凝視する。国光は微かに口元を上げ、不二に頷いた。

「殿、今なんと…」
「何度も言わせるな。白竜を放せと言っている。」

秀次が今度はあわあわと焦りはじめた。

「なっ何と言われまする、殿。あれは小和賀様が御渡り様に献上なされた馬、それを勝手に…」
「つべこべ抜かすな、与三郎。」

一喝されて秀次は口をつぐんだ。だが、まだ何か心配顔に言いたげだ。国光はふと表情を和らげた。

「案ぜずともよい。あの馬は、一人で小和賀へ走るよう躾られておる。無事に小和賀の庄へたどり着くであろう。」
「はっはぁ…」

まだ釈然としない様子で、それでも秀次は言いつけを守るべく退出しようとした。

「秀次。」

不二は秀次に声をかける。

「ははっ。」

振り向いた秀次に、不二は微笑んだ。

「立派な武者ぶりだよ、秀次。」

ぱぁっと秀次の顔が輝いた。

「もったいなきお言葉でござります。」

嬉しそうににこにこしながら、秀次は退出していった。その後ろ姿に不二は胸を塞がれる。

「不二。」

後ろから国光が肩を抱いた。素手ではなく皮のゆがけごしであるのが残念だと不二は思った。

「不二、御渡り様として皆に声をかけてやってくれ。神の加護があれば皆強くなる。」
「そのつもりだよ。」

不二は顔だけ振り向き、きっぱりと言った。だから今日も不二は青学のジャージを着ている。これは神の衣装なのだ。国光は力強く頷いた。

「不二、口吸いを。」

不二は噛みつくように口づける。互いの唇を貪った。館の中や庭からは、大勢の人の声や武具の音が響いてくる。ようやく唇を離した二人は、じっと見つめ合った。これは今生の別れではない。必ず自分達は一緒に生きる。言葉にはしない誓いを互いに認め、二人は皆の待つ庭へと向かった。


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ぶちゅっとな、ぶちゅっと…ぐぁっ(闇討ち)