為す術もなく時は流れる。穏やかな日常の顔をして、最後の一日が過ぎていく。

不二は焦れていた。口が裂けても国光以外の人間にこの話はできない。和田の蜂起と榎本の滅亡、そんな話をしたら、館中がパニックになってしまう。もしかしたら、それが引き金になって最悪の事態を招くかもしれない。

「気だての良い馬でござります。走りっぷりもなかなかで、流石は小和賀と申すところですかな。」

上機嫌で忠興は白竜の口綱をとっていた。砂浜で不二は小和賀雅兼の贈った白馬に乗っている。一走りしてきた忠興が、昼食を取り終えたばかりの不二を、稽古に誘ったのだ。かぽかぽと波打ち際に馬を進めながら、不二は馬の轡をとる忠興を見つめた。武骨な忠興こそが典型的な板東武者の姿かもしれない、ふとそう思った不二は、ぽそりと口を開いた。

「ねぇ、忠興。」
「なんでござりまするかぁ。」

海風に忠興の声が流れる。打ち寄せる波が日の光りをはじいていた。

「もし、忠興の大事な人や忠興の命がかかっているとして、卑怯者って呼ばれて助かるのと、名誉を守って死ぬのとどっちを取る?」
「あぁ〜?いかがなされました、御渡り様。」

忠興が黒々とした目を瞬かせて不二を見上げた。不二は曖昧に笑う。

「あ、ちょっと、雅兼さんがそういうこと言ってたから。自分は名前を捨ててもいいって。」
「そうでござりますなぁ。」

忠興は少し考える仕草をすると、はっきりと言った。

「それがし、名前のほうを捨てるやもしれませぬなぁ。」

不二はぱっと顔を明るくした。

「それじゃ…」
「したが、殿や雅兼殿のように、一族の当主となるとそうもいきますまいなぁ。雅兼殿が言われたのも、そうあれたらよいという願いでござりましょう。」

不二は忠興の言葉に呆然とした。何故、忠興は名を捨てられるというのに、当主だとだめなのか。顔を強ばらせる不二には気づかず、忠興は呑気にしゃべり続けた。

「当主が卑怯者のそしりを受けるということは、一族郎党がすべて、卑怯者の汚名を着ることになりまする。そういうところは、遅かれ早かれ潰されるものでござりましょうよ。ならば、当主は名を守らねばなりますまい。卑怯者とそしられては生きる場所がござりませぬが、あっぱれ、さすがは板東武者よと讃えられれば、生き残った者達の活路が開けまする。」

当主とは難儀なものでござりますなぁ、という忠興の言葉を不二は身の凍る思いで聞いた。

当主だから?だから国光は、死ぬとわかっている和田の蜂起に駆けつけるのか。榎本の名誉を守るために、残った者達を生かすために。

「全滅したらなんにもならないじゃないか…」

不二は小さく独り言ちた。

「全滅するんだよ…国光…」
「あぁ?何ぞ仰せられましたかぁ。」

無邪気に見上げてくる忠興に、不二は微笑みを返した。

「ううん、なんでもない。」

海風にあおられて髪が乱れ散る。白竜がぶるりと鼻を鳴らした。

「御渡り様、もそっと早足にしてみましょうな。」

忠興は馬をかえすと、小走りになった。白竜が忠興にあわせて足を速める。不二は海風を全身に受け止めた。濃い緑色の松林の上には、初夏の空が広がっている。潮の香り、波の音、真っ青な空、馬の背に揺られ、不二はこの瞬間の永遠を願った。






☆☆☆☆☆







いつものように日が暮れ、夕餉や湯浴みをすませる。いつもと変わらぬ穏やかな夜だ。
白い寝間着に着替えた不二は、横になる気になれず、真綿入りの夜着の上に座っていた。かたり、と音がして、やはり白い寝間着に着替えた国光が入ってきた。今夜は国光も湯を使ったのだ。
国光は黙ったまま不二の側に座ると、後ろから抱きしめてきた。不二はされるがまま、国光の腕に体をあずける。何も言わなかった。いや、言えなかった。胸は切り裂かれるように痛み、ぐるぐると色んなことが渦巻いている。だが、もう言葉にすることが出来ない。丸みを帯びた半月が青白い光りを板の間に投げかけていた。そろりと夜風が床を這ってくる。ふるり、と不二は震えた。国光の腕に力が込められる。ぽつっと耳元で呟かれた。

「おぬしを死なせたりはせぬ。」

大丈夫だ、不二…

首筋に顔を埋めて国光が囁く。いつもの言葉、いつもなら不二を安心させてくれる国光の言葉。泣きそうになるのを必死で堪え、不二は国光の腕に手を重ねた。めそめそして終わりたくない。不二はまだ諦めていないのだ。

「好きだよ、国光…」

きゅっと重ねた手を握る。

「君だけが好き…」
「不二…」

ゆっくりと国光が不二を横たえる。それからきつく抱きしめてきた。

「…おれはおぬしのものだ…」

部屋に射し込む月明かりが抱きしめ合う二人の影を青白く浮かび上がらせる。しずかに夜は更けていった。


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裏は、ないっ(きっぱり)。
あいたっ(石が飛んできた)