小和賀雅兼が榎本の館の門をくぐったのは、翌日、五月一日の早朝だった。

金茶色の直垂を身につけた雅兼は、見事な葦毛にまたがり、郎党に白馬を牽かせている。白馬の背には、たくさんの菖蒲が乗せられていた。切ったばかりらしく、紫色の花や細い葉にはまだ朝露が光っている。榎本の郎党達が飛び出した。秀次が慌てて出迎える。

「こっこれは小和賀様、とっ突然のお越し…」
「おぉ、那須の。」

小和賀雅兼は快活に笑った。

「榎本殿が嫁取りを断ったとか。本家が大騒ぎでな、雅兼が子細を伺って参ろうと名乗り上げた次第。」
「そっそれは…」

顔色を無くした秀次に、雅兼はまた可笑しそうに肩を揺らす。

「というのは表向き、いや、御渡り様のご尊顔を再び拝したく思うてあれこれ訪問の理由を探しておったところに、渡りに船であった。それ。」

馬上から供回りの郎党に合図をする。白馬の上の菖蒲を郎党達が手際よく降ろしてまとめた。

「節句も近い。御渡り様のお部屋に飾っていただきたいと参ったのよ。」

ひらりと馬を降りた雅兼は、秀次に向かって涼やかな声で案内を請うた。

「御渡り様へ拝謁願い申し上げ候。」
「しっしばしお待ちを。こっこっこちらへお通り下されませ。」

秀次は郎党の一人に言いつけ、国光に知らせに走らせると、雅兼を客間へ通した。菖蒲の花は榎本の郎党達が受け取って不二の部屋へ運ぶ。茶を運んで間もないうちに、案内は来た。




不二の正面、南側の廊下にまず雅兼は平伏した。

「こんにちは。小和賀の殿様。」

柔らかく不二は声をかける。その声に雅兼はまた頭を低くした。

「顔を上げて部屋へ入って。」

ははっ、と答えた雅兼は膝でいざり入ってから顔をあげた。真ん前で不二が静かに微笑んでいる。不二の座る畳の周りには、雅兼が運ばせた菖蒲の花が大きな壺にいくつも活けられ飾られていた。紫色と緑色の中で青学の白いジャージを着た不二の姿は際だっている。雅兼は一瞬、その姿に目を奪われた。ほぅっと感歎のため息をもらす。

「まことに御渡り様のお美しゅうてあらせられまする。紫の花々に囲まれた御姿はさぞやと思うて菖蒲を切らせて参りましたが、御渡り様の御前では今を盛りの花どもも霞みまするよ。」
「……切らせたとは榎本の庄に咲いていた菖蒲だろうが。」

ぼそりと呟かれた声に横をみれば、廊下に近い下座に当主国光が座っていた。むっつりと口がへの字に曲がっている。だが、雅兼は国光の表情を気にするふうでもなく、さらりと笑った。

「これは榎本殿。丁度よい。本家よりの用件をすませてしまおうか。」
「…何用で。」
「婚儀のこと、考え直していただきたい。」
「それはできぬ。」
「承った。」

あっさりと雅兼は頷き、それから不二へ向き直った。

「雅兼の用向きはこれで済み申した。」

そう言って涼しげな目元を細める。不二は呆気にとられて雅兼を見ていた。

「小和賀の殿様、何しに来たの?」
「もちろん、御渡り様のご尊顔を拝したく馳せ参じてござります。」

にっこりとこの美丈夫は破願した。不二の顔が僅かに歪んだ。それは、悲しみを堪えているようにも、何かに耐えているようにも見え、雅兼はふと眉根を寄せた。

「御渡り様、なにかお悩み事でも?」

ハッと不二が目を見開く。一瞬、うす茶色の瞳が揺れたが、すぐにその目は伏せられた。

「…別に何も…」

だが、声音に潜む沈んだ響きは隠せない。雅兼がちらりと目を走らせた先では、国光がやはり難しい顔をしていた。雅兼は少し考え込む仕草をすると、ぱさりと直垂の袖を翻し居住まいを正す。背筋をしゃんと伸ばして真剣な面もちになった。

「今朝方、それがしが榎本の庄に馬を進めておりましたところ。」

ひどく真面目な声に不二は顔を上げた。国光もきょとんと雅兼を見つめている。雅兼はますます大真面目に語り始めた。

「いずこからか声が聞こえて参ります。それが小さな小さな声でござりまして。」

まわりに控える郎党達までじっと雅兼の話に耳を傾けはじめた。

「まさかね、まさかね、と確かにそれがしを呼ぶのでござります。それがしも不思議に思い、声のする方へ馬を進めましたならば…」

誰かがごくりと喉を鳴らした。ふっと雅兼が声を顰める。

「山道の先の突如開けた場所にいきあたり、辺り一面菖蒲の花畑、その菖蒲の花々が、まさかねー、まさかねー、御渡り様のところに連れてゆけー、と。」
「そは榎本の菖蒲畑だっ。」

どん、と国光が床を叩いて唸った。

「おぉ、どうりで、丹精込められた見事な花であるはずだ。馬に積めるだけ積もうと切りましたからな、朝から一仕事でござりました。」
「小和賀殿、人の畑のものを切ってこられたという御自覚は…」
「榎本殿の代わりに働いたからとて、全ては御渡り様の御為、礼には及びませぬぞ。」

雅兼は涼しい顔だ。茶を運んできた秀次がぶくくっ、と笑いを漏らし、国光に睨まれて慌てて口元を引き締めた。不二もくすっと笑う。だがその表情はすぐに曇った。雅兼はその顔をじっと見つめながら、穏やかに言った。

「もうすぐ端午の節句でござりますな。この雅兼、祝いの品々を御渡り様にお届けいたしましょう。」

花だけではござりませぬ、様々に珍しきものを見繕いますゆえ、と雅兼は斜め後ろに座る国光に目を向ける。

「けして榎本の庄を動かれませぬよう。国光殿、榎本の方々も、雅兼献上の品々が届くまではここでお待ち下されよ。狩り、遠乗りも控えてくだされ。戦の調練などもってのほか、御渡り様をお迎えしての初節句であるからには、身を潔斎して館から動いてはなりますまい。」

はっと不二が身を固くした。国光の眼光が鋭くなる。


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ま〜たこんなところで切る〜。小和賀の殿様、お久しぶりです。三十代半ばのナイスミドル、雅兼、ラブレター送ったりとちょっかいかけてきてたこと、覚えられているんだろうか…