不二の手から本が滑り落ちた。指先に感覚がない。頭の中は真っ白だった。うまく息ができない。自刃、の二文字だけがぐるぐると回る。

「国光が自刃…」

乱れる息の合間に絞り出した声が、他人の声のように響く。嘘だ、信じられない、国光が、榎本国光が自刃するというのか。しかも不二が持ってきた小刀で。

「…嘘だ…」

国光は強いのに。弓も太刀も強くて、そうだ、義秀も言っていたではないか。戦があっても心配いらないと。手柄をたてこそすれ、死ぬことはないと。

「嘘だ…国光が死ぬなんて嘘だ…」

つい二日前、自分は国光の夢を聞いたばかりだ。榎本を強くすると、大きな戦がないから、船を使って榎本を豊かにすると、そう国光は言っていた。目を輝かせて、力強い光りを湛えて、国光は希望に満ちあふれていたではないか。

「そんなわけ…ないじゃないか…」

明るい朝の日差しが射し込んできている。穏やかな館の朝だ。冷たい床にぺたりと座り込んだまま不二は動くことが出来なかった。




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「不二。」

のろのろと不二は顔を上げた。どのくらい座り込んでいたのか感覚がない。目の前に心配そうな顔の国光がいた。国光は座り込んだ不二の前に膝をついた。

「おぬしが来るなと言ったが…すまぬ、気になった。」
「国光…」

ぼんやりと不二は国光の名を呼んだ。不二の目の前にいるのは榎本国光だ。確かな存在として国光は今、ここにいる。不二は手を国光に伸ばした。指先が頬に触れる。

温かい…

温かい人の肌だ。生きた人間の体温だ。それが失われるというのか。国光だけではない、忠興も秀次も、ここにいる皆がすべて死ぬというのか。

「あぁ…国光…」

不二の手が力を無くしてぱたりと落ちる。国光がその手を掴んだ。

「不二?」

不二はうつむき、掴まれた手ごと国光の手を胸に抱き込んだ。

この手が…この手で己の命を断つというのか。

「国光…国光…」

両手で国光の手を包み頬を押し当てる。

力強い手だ。温かく大きな手だ。不二を抱きしめ、快楽を与えてくれる手だ。それなのに、国光は死んでしまうのか。

でも、もし国光が和田義盛の蜂起に駆けつけなければ…

ふっとひらめいた考えに不二は目を見開いた。榎本が何をしようと、和田は滅びる。ならば、歴史の流れが変わらないのならば、榎本が生き延びる道をとってもいいはずだ。もし、そのために不二がここにきたのだとすれば…勢いよく不二は顔を上げた。

「国光っ。」

不二は国光の腕にしがみついた。国光が驚いて不二を支える。

「国光、国光っ、和田義盛の戦に行ったらだめだ。」

国光が驚きの表情になる。だが、そんなことにはかまわず、不二は必死で国光の腕を揺さぶった。

「和田義盛の計画は断って。三浦と仲良くして、結婚してもいいから、だからっ。」
「なにゆえ不二がお爺様の計画を知っている。」

国光の目が険しくなった。

「誰から聞いた。他にもお爺様のことを知っている者がいるのか。」
「違う、国光っ。」
「どこまで知ったのだ。いつから…」
「だから違うってば。」

国光はぐいっと不二の肩を掴んで正面から見据えた。

「正直に言え、不二。」

厳しい声音で問いつめる。

「不二、誰から聞いたんだ。」
「僕は未来の人間なんだよっ。」

とうとう不二は怒鳴った。どうしてこう、すんなり話が通じない。

「八百年先では歴史の勉強だってするんだ。本に書いてある。和田義盛は滅びるんだよっ。」

じっと国光は不二の目を見つめた。睨むように不二も見返す。しばらくじっと不二を見つめていた国光の視線が、ふっと床に落ちている本にいく。不二がはっと息を飲んだ。掴んでいた不二の肩を離し、国光は本を手にとった。

「あっ。」

止めようと不二は手を伸ばそうとするが、上手く体が動かない。国光は開いてあったページに目を落とした。『榎本家の滅亡』の部分だ。国光は黙って文字を追っている。しばらくして国光は静かに目を上げた。

「おれには読めぬ文字も多いが…」

ぎくりと不二の体が強ばる。国光は抑揚のない声で言った。

「おれは死ぬのだな。」
「国光っ。」

不二は悲鳴のように叫んだ。

「だから、だからっ…」
「ここに建保元年とある。」

和田義盛のところへ行ったらだめなんだっ、と叫ぶ不二を遮り、国光は本を指さした。

「不二の時代の暦はわからぬ。だが今は建保元年、卯月だ。」

絶望に不二の眼前が真っ暗になった。日にちならわかる。ここへ来てから毎日、本の裏に日付と簡単な日記をつけていたのだ。今日は不二の暦で4月30日、和田義盛の蜂起は1213年5月2日、つまり2日後だ。5月3日には榎本一党が鎌倉へ駆けつけることになっている。

「二日後だよっ、二日後には三浦が裏切って和田義盛が蜂起するんだ。」

不二は床を叩いた。

「何度も言わせないでっ。行けばみんな死ぬんだ。わかってるの?榎本が滅びるんだよっ。」

国光は黙っていた。床に腰を下ろしたまま一点を見つめている。不二は焦れた。いらいらとジャージの裾を握りしめる。国光は動かない。ただ、部屋の空気だけがピンと張りつめていた。静かな朝、さえずる鳥の声だけが聞こえてくる。時折、海風がそろりと部屋へ入ってきた。ばさばさっ、と翼の音がする。数羽の小鳥が庭木の枝から飛び立ったのだ。その時、国光がふと身じろいだ。ハッとする不二と目をあわせる。

「和田義盛はおれの祖父だ。」
「そっそんなのっ。」

今更何をわかりきったことを、と不二は苛ついた。

「そんなの知ってるよっ。」

それよりも今はもっと大事なことがある。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。だが、国光は慌てる風もなく淡々としている。ざわめく嫌な予感を振り払うように不二は声を荒げた。

「そんなわかりきったこと、どうだっていい。だからっ…」
「義秀伯父もいる。」
「だからわかってるってばっ。」
「おれは裏切れぬ。」
「国光っ。」

不二は思わず国光に詰め寄った。

「何いってるのっ、死んじゃうんだよ、みんな死ぬんだよっ。」
「それでもおれは裏切れぬ。」
「バカっ、何に拘ってるのさっ。」

不二は国光の胸を叩いた。国光は黙って不二の拳を受け止めている。

「死んだら全部おしまいじゃないかっ。なんでわかんないんだよっ。」
「弓矢の家に生まれたからには死しても守らねばならぬことがある。」
「じゃあ、忠興や秀次やみんなが死んでもいいっていうんだねっ。」

不二は叫んだ。こうなったら皆に打ち明けて国光を止めてもらう。だが、国光は不二の拳を両手で包むと静かに言った。

「皆、誇り高き板東武者どもだ。名を汚すよりは死を選ぶ。たとえ当主のおれが行かぬと言っても。」
「なんだよそれっ。」

不二は激昂した。

「そんなの、僕の時代じゃくそくらえだっ。」
「ここは不二の時代ではない。」
「じゃあ僕はどうなるんだよっ。」

はじめて国光の瞳が揺れた。

「僕も死ねってことでしょうっ。」

卑怯なことを言っている、心の隅で自覚していた。ここにいるのは不二が自分で決めた結果だ。それを引き合いに出すのは筋違いだ。だが、止まらなかった。

「武士の誇りがなんだって言うんだ。そんなもののために僕は死にたくないよっ。」
「それは…」

国光が動揺しているのがわかる。不二もなりふりかまっていられなかった。国光の胸にすがったまま必死で訴える。

「君が死ねば僕も生きてられない。国光っ。」

国光の手が不二の肩にかかった。辛そうに顔が歪んでいる。

「不二…」

絞り出すような声音だった。

「おれは板東武者なのだ…」
「それが何っ。」
「板東武者の誇りを捨てて生きることはできぬ。」

今度こそ、本当の絶望だった。がっくりと不二の体から力が抜ける。涙が溢れてきた。みんな死ぬ。国光も忠興も秀次も、そして自分も。

「不二…」

国光が不二を抱き寄せようとする。反射的にその手をはじいた。

「出てけっ。」

ぼろぼろと涙を零しながら不二は叫んだ。

「出てけよっ、顔なんか見たくないっ。出てけーっ。」

一瞬、国光の体が震えた。何か言いたげに口を開いたが、言葉は出ない。ふっと辛そうに顔をそらした。
「……人払いをしておく…」

それだけ言うと、国光は立ち上がった。部屋を出ていくとき、ふと足を止める。が、そのまま歩み去った。

「う…」

国光の背中が見えなくなると、力が抜けた。がくりと床に両手をつく。ぽたぽたと涙が板の上にしみを作った。

「う…うぅっ…」

二日後にはすべてが終わる。なにもかも…

「うぁぁぁぁぁ…」

はらわたを裂かれるような激情に不二は慟哭した。哀しみ、怒り、恐怖、全てが綯い交ぜになって不二を押しつぶす。

「あぁぁぁぁっ。」

不二は床をかきむしって泣く。

「あぁぁっ、うぁぁっぁぁっ。」

不二は泣いた。辺りかまわず声を上げて泣いた。泣く以外何も出来ない自分が惨めだった。

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うぁぁっぁぁっ、石投げないで〜〜(逃走)