「されど殿の婚儀に関することゆえ、直ちに返事を持ち戻りたいと使いの者が控えておりますれば。」
かたり、と薬湯の椀が不二の手から滑り落ちた。椀の底に残っていた薬湯が畳にこぼれシミを作る。
「あ…ごめん…」
急いで拭こうとする不二の手を国光が止めた。秀次が布でさっと拭き取る。
「ごめん、手が滑っちゃって…」
指先が震える。国光がきゅっと握ってきた。
「すごく…苦かったから…」
畳についたシミを見つめながら不二は呟くように言った。
国光の婚儀…
忘れていたわけではない。だが、いずれやってくる現実として真剣に考えたことがあっただろうか。国光と肌を合わせた今、婚儀がなるという事実は想像以上に重い衝撃を不二に与えた。
この館に国光の妻が住む…
国光が愛しているのは不二一人だ。そんなことはもうわかりすぎるほどわかっている。だが、子を成すため、国光は妻を抱く。そのことを国光はためらわないだろう。この時代の人間なら普通のことだ。愛情はなくとも務めとして妻を抱き、子を成す。だが、不二にそれが耐えられるのか。
さっと全身の血が下がった。
夕べ、不二を抱いた同じ腕が女を抱き、不二を喘がせた熱棒が女を貫くのだ。そして、その女が国光の子を抱いて自分に挨拶にくる。守り神である不二の祝福を受けるために。
吐き気がした。さして広くもないこの館で、妻を抱く国光の気配を感じながら不二は夜を過ごさねばならない。なまじ体を重ねただけに、生々しい現実としてそれは不二にのしかかってきた。同時に、不二は自分の甘さにつくづく嫌気がさす。はじめからわかっていたことだ。国光の婚儀も、この時代で生きるということがどういうことかということも。
覚悟、足りないな、僕は…
自嘲を漏らし、不二が畳についた薬湯のシミから目をそらしたその時、突然ぽすん、と国光の胸に抱き込まれた。
「なっ。」
驚いて顔を上げると、国光の横顔があった。厳しい目で正面を見据えている。それから徐に口を開いた。
「義秀伯父、忠興叔父、この婚儀はないものとしたい。」
一瞬、場が固まった。全員、言葉もなく国光を見つめる。淡々と国光は続けた。
「妻は娶らぬ。神仏に仕える者として身を潔斎し、今後おれは女に触れぬ。」
「なっ…」
ぽかんと国光を見ていた中で、いちはやく我に帰ったのは忠興だった。
「何を言わるるぞっ。」
口角泡をとばす勢いで忠興は吠えた。
「すでに仕度の整いて、後は嫁御の到着するを待つばかりというに、いっかな急なっ。」
「急ではない。御渡り様が榎本に渡らせ給うたときより考えていたことだ。」
国光は不二の両肩に手を置き己の正面に据えた。不二は驚きで目を見開いたままなすがままになっている。国光は静かに言った。
「そもそも、海神様の御使い様を館にお迎え申し上げたからには、身を慎みお仕え申し上げることこそ榎本の当主としての務めと存ずる。幸いおれはいまだ妻帯せぬ身、いや、なればこそ神仏のご降臨あそばされたのかもしれぬ。勿論、当主たる責務を果たすことに変わりはないが、体裁が悪ければ出家して法体となってもよい。」
「とっ殿っ…」
穏やかだがきっぱりとした国光の口調に忠興は言葉がでない。矛先を秀次に向けた。
「こっこりゃ与三郎っ、おぬしも何か言わぬかっ。」
「あっいや…しかし、殿の言われることも道理かと…」
言葉途中で忠興がものすごい顔をしたので秀次は首を竦めた。忠興は気を取り直したようにえほん、と咳払いをすると居住まいを正し国光に向く。
「殿、三浦の息のかかった嫁が嫌ならばそれでもよい。この婚儀、わしとて気乗りはしておらなんだわ。したが、跡取りは必要じゃ。女を抱かねば子は出来ぬぞ。」
あけすけな物言いに国光が顔を顰めたが何も言わない。忠興は床をばしばし叩いて畳みかけた。
「殿が子をなさねば榎本は絶える。妻を娶らぬというのなら、外で女に子を…」
「跡取りの子は叔父貴が作ってくれ。」
「なっなっなんじゃとぉぉっ。」
今度こそ忠興は言葉を失った。あんぐりと口を開けたままく目をひん剥いている。国光は不二から離れ下座に回ると、やおら居住まいを正して手をついた。
「叔父上、今のおれがあるのは叔父上のおかげだ。父上が倒れられてから未熟なおれが当主のかわりをやってこられたのは叔父上が支えて下されたからだ。」
感謝している、と頭を下げられ、忠興はあたふた手を振り回して狼狽えた。
「とっ殿っ、頭をあげてくだされよ。わしなんぞに何を言われる…」
「叔父貴っ。」
国光の肩が震えた。
「おれは叔父貴の家族を死なせてしまった。」
忠興がはっと息を飲む。義秀と秀次もぎくりと体を強ばらせた。思わぬ話に不二はひたすら皆を凝視するばかりだ。
「忠範兄、忠嗣兄ばかりか、叔母上や光子まで死なせてしまった。おれがいたらぬばかりに…」
国光の声に苦渋が滲む。
「おれは叔父貴にずっとすまぬと思うていた。おれがもう少し賢ければ、しっかりしておれば、むざむざ殺されるようなことにはならなかった。」
「それはっ、殿、それは違うぞっ。」
吠えるように忠興は国光の言葉を遮った。見開かれた目が潤んでいる。
「殿がご自身を責めることはないっ。」
だが、国光は首を振る。
「父上がご健勝ならば、あんなことにはならなかった。おれの未熟さが呼んだことだ。」
「すまぬなど言うなぁ、国光。」
ぼろり、と大粒の涙が忠興の目からこぼれ落ちた。
「忠範も忠嗣も武芸の家に生まれたのじゃあ。主家を守って死ぬることに何の後悔のあらんや。みっ光子とて…」
ぐいっと忠興は目を拭った。
「光子とて板東武者の娘じゃ、覚悟くらいあったわっ。」
「光子はまだ十三だった…」
「ならば殿とて十三だったではないかっ。」
どん、と忠興は拳を床に打ちつけた。
「それに殿は仇を討ってくだされたではないか、あの野伏せりども、皆殺しにしてくだされたではないか。感謝しておるのはわしのほうじゃやいっ。」
忠興はごしごしと袖口で目を擦った。義秀が吐き捨てる。
「ただの野伏せりではなかった。国忠殿の病につけこみ、いずれが送り込んできた輩であったか。随分と榎本の庄で人を殺してくれたわ。」
その時の事を思い出したのだろう、秀次が悔しそうに唇を噛んだ。不二はただじっとしているしかない。国光が顔をあげ、ぐずっ、と鼻をすする忠興にいざりよった。
「だのに叔父貴はいつもおれのことを優先して、叔父貴自身のことは後回しになさる。」
「わしはやりたいようにやっておるだけじゃ。国光がどうこう気を回すことはないわい。」
涙を拭いて拗ねたように口を曲げる忠興に国光が優しい笑みを浮かべた。
「叔父貴、おれはな、もう一度叔父貴が家族を持ってくれるといいと思っている。」
国光の意外な言葉に忠興は目を瞬かせた。国光は静かに微笑んでいる。
「幸せになってもらいたいのだ。これからもずっと叔父貴には面倒をかけるが、おれも少しはましになった。叔父貴ばかりに苦労はさせぬ。」
「わっわしはっ、」
忠興が身を震わせた。
「わしは…」
「幸せになってくれい、叔父貴。」
また忠興の黒々とした目から大粒の涙が零れ落ちた。
「わしには国光がおるっ、御渡り様もおられるっ、わしは十分幸せじゃぞぉっ。」
忠興は堪えきれずおいおいと男泣きに泣きだした。その背を義秀がばしんばしんと叩く。
「あいわかった。わかったぞ、国光。忠興殿の嫁はこの義秀が世話いたそう。」
「お願い申し上げまする、伯父上。」
国光が義秀に一礼した。
「万事まかせられよ。女を見る目は親父殿に負けておらぬ。よいおなごを世話しようぞ。」
かか、と義秀が豪快に笑い、もう一度忠興の背を叩く。
「泣くな、忠興、めでたいことになったではないか。」
それから義秀は悪戯っぽく声をひそめる。
「そこでだ、忠興殿。」
口元をにやりと上げて忠興の脇を突いた。
「乳が大きい女がいいか、尻の大きい女が好みか。」
「あぁっ?」
忠興が素っ頓狂な声をあげた。にまにまと義秀は含み笑いをする。
「それとも、うんと若いおなごにいたそうか。」
「あぁぁ〜っ?」
涙に濡れた強面が途端にゆであがった。その顔に全員が吹き出す。あまりの急展開にぽかんとしていた不二も思わず笑い出した。
「そりゃあ羨ましゅうござりますな。叔父殿、たんと子をこさえられませよ。」
ここぞとばかりに秀次がからかいの言葉をなげる。国光も笑った。
「叔父貴、子孫繁栄の面倒までかけるが、宜しく頼む。」
「こりゃあ、励まねばなるまいな、忠興殿。」
「ええいっ、やかましいわっ。」
義秀にまでからかわれて、忠興は真っ赤な顔のまま唸り声をあげた。それから、むっと表情を改める。
「とっ殿こそよきおなごを娶りて幸せになられねば…」
国光が穏やかに笑った。そして真っ直ぐに不二を見つめる。
「御渡り様にお仕え申し上げることこそがおれの幸せだ。」
今度は不二が赤くなる番だった。義秀が楽しげに頷く。
「さても重畳重畳。」
心地よい海風が庭から入り込み、部屋の中を吹きすぎていく。国光が不二の側に来て座った。秀次もにこにこしながら若い郎党と給仕を始める。女の好みを聞き出そうとする義秀と赤くなって狼狽える忠興が賑やかだ。不二は横に座る国光を見た。国光が笑いかけてくる。不二も笑った。穏やかで幸福な朝だった。
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忠興殿の辛い過去発覚。息子の名前はいきあたりばったりで、「ただのり、ただつぐ」でおます。しばらくの間、ラブラブは続く…ところで、忠興叔父はおっぱい派でしょうか、デカ尻派でしょうか、それとも、清楚な貧乳派…ぐぁっ(殴り飛ばされた)