日が西に傾く頃、肉の焼けるいい匂いが庭に満ちた。和田と榎本の郎党達全員、焚き火の周りに陣取り、下人下女達も肉のおこぼれに与るべく集まっていた。義秀が今夜は無礼講で騒ぐと宣言したとおり、皆に酒が振る舞われている。
天幕を張った座の中央には赤地錦の直衣姿で不二が座っていた。その隣には国光が座し、義秀と忠興がその横に陣取った。昼過ぎから飲み始めた義秀と忠興はすっかり出来上がっている。不二の横ではなく国光の隣なのが不満で義秀はぶぅぶぅ文句をたれていた。だが、国光は不二の隣を譲る気はなく、義秀の文句にかえって体をぴったり不二に寄せ、抱き込む始末だ。不二といえば、こういう騒ぎは毎度のことなので気にもとめない。不二の関心はもっぱら焼き上がりつつある猪に向けられていた。目の前には様々な食材で膳もしつらえてあるのだが、猪が楽しみなので食べるのを我慢している。国光等三人はひたすら酒を呷っていた。
焚き火には大量の熾きができて、周囲を赤く照らしている。寒い季節ならまだしも、四月の下旬では汗ばむほどの熱気だった。熾き火と西日で猪が赤く染まっている。時折、肉から落ちる油がじゅっと音をたてて火の中に落ちた。香ばしい香りが広がる。
「ささ、御渡り様も一献、いかがでござりますかな。」
義秀が身を乗り出して、不二に酒を勧めてきた。
「伯父上、不二は酒が苦手だ。」
国光が不二の代わりに杯を受け取り飲み干すと、義秀に返杯する。
「むむぅ、国光、ぬしゃさっきから御渡り様を独り占めしおって。」
注がれた酒をぐっと空けて義秀が唸った。忠興もその横から顔を突き出す。
「わしなぞ、朝から使いにたって働いたというに、ろくに御渡り様と話もさせてもらえんっ。」
「忠興はいつも僕と話してるじゃない。」
不二がくすくす笑った。
「それに、明日こそ弓の的を遠くに置いて稽古させてくれるんでしょう?」
「おぉ、おぉ、そうでござります。明日は楽しみにしてくだされよ。」
忠興の機嫌が一挙に上向く。そこへ義秀が鼻息も荒く吠えた。
「なんと、なればこの義秀めも加わらずばなるまいよ。」
「そこもとには関わりあるまいに。」
「ふん、忠興の肝の小さいわ。」
互いに酒を注ぎ交わしつつまた言い合いをはじめる。不二はにこにこそれを眺めた。
「ほんとに仲がいいね、二人とも。」
「まったくだ。」
国光も微笑む。夕焼けに照らされて国光の顔は穏やかだった。そのうちに猪が焼け、秀次が指揮をとって下人達が肉を切り分けはじめた。秀次は大忙しだ。昼過ぎから郎党達や下人達の采配をひとりでとって立ち働いている。その秀次が、不二や国光達の前に切り分けた肉と竹皮で包んだ飯を運んできた。火の側で作業をしていたせいか、秀次は額に汗をかいていた。
「ありがとう、秀次。もう君もここで食べたら?大変だったでしょう?」
不二のねぎらいに秀次は嬉しそうな顔をした。
「ありがたきお言葉。なんの、それがし、こうして立ち働くことが楽しゅうござります。」
「獣料理の采配は家中随一だからな、与三郎は。」
国光にも誉められ、秀次は照れくさそうにまた笑う。ほかほかと湯気をあげる竹の皮包みを秀次は不二の前で開いた。ほっこりと良い香りがした。猪の肉汁がたっぷりと染みこんだ飯だ。
「美味でござりますよ、御渡り様。」
そういいつつ秀次は、竹の皮ごと陶皿にのせ、不二に差し出す。不二は飯をほぐして一口たべた。
「…ほんと、おいしい…」
不二は目を見張った。本当に美味しかった。野菜やおおびるが猪の臭みを上手い具合に消している。竹のいい香りもする。いつもならば噛みにくい玄米も、猪の肉汁と油のおかげでかえって食べやすい。腹も減っていた。不二は一心に食べ始めた。
「汁をご用意いたしまする。」
一礼すると秀次は下がった。結局、あっという間に不二は竹の皮に包まれた飯をぺろりと食べてしまった。国光が肉と塩の皿を引き寄せてくれた。肉は不二が食べやすいように、かなり小さく切り分けられている。箸で肉を摘むと塩をつけて口に入れた。
……固いっ。
流石に野生の獣肉は歯ごたえがある。柔らかい牛肉や豚肉に慣れた不二は、目を白黒させた。この世界での食事が歯ごたえ満点なのだとわかっていても、実際に口にすると改めて驚くことが多い。だが、これからはそういう生活が日常となるのだ。不二は口の中の肉を噛みしめた。じゅっと汁が溢れる。
美味しい…
噛めば噛むほど、肉の味がじわりと口の中に広がる。これもまた美味かった。
「おいしいよ、これも。」
そう言って不二は肉も飯もおかわりをした。口が脂っこくなるとゆでた野菜をつまみ、また肉を食べる。義秀と忠興がその様を上機嫌で見ていた。
「たんと召し上がられませよ、御渡り様。まだまだ肉も飯もたくさんござりますぞ。」
義秀も肉を口に放り込みつつ瓢をかかげてみせた。忠興も酔いで赤くなった顔をさすりながらにこにこしている。いつのまにか陽は落ち、西の空は真っ赤に染まっていた。熾き火に薪が足され、赤々と燃え上がる。あちこちに松明も焚かれた。パチパチと火がはぜている。不二の腹はだいぶくちくなってきたが、美味いので肉に箸を伸ばしていた。
「不二。」
国光が酒を杯に注いだ。神様専用なのか、朱塗りに金銀蒔絵を施した見事な杯だ。それを不二に差し出した。
「少し飲んでみるか?悪酔いすることもなかろう。」
義秀と忠興も目を輝かせた。
「そりゃあ、試してみられませよ。酒で口をすすぐと、また肉が美味に思えまする。」
「おぉ、そうじゃそうじゃ、たまには義秀殿もまともなことを言われる。」
「たまにがよけいじゃ、口の減らぬ御仁よ。」
二人とも、不二と一緒に酒を酌み交わせるのが嬉しいらしい。
「…う〜ん、そうだね。」
ここまで期待されると断るのが申し訳なくなってくる。それに好奇心もあった。前回、悪酔いしたときは空き腹だったが、今回はたっぷり食べてもいる。
「じゃあ、試してみようかな。」
受け取った杯には白く濁った酒が揺れている。ぺろり、と舐めて、それからくっと一飲みにする。喉の奥がかぁっと熱かった。だが、脂っこい猪肉を食べた後のせいか、ひどく美味しく感じる。
「よきかな、よきかな。」
義秀が白い素焼きの徳利をかかげた。不二の杯をまた満たす。不二はまたくいっと杯をあけた。それから、肉を食べる。義秀が言ったとおり、酒の後の獣肉はまた旨かった。
「今度はそれがしが。」
いそいそと忠興も酌をしに手前にいざりよる。忠興の注いだ酒も不二は空けた。なんだか気分が良かった。薄闇が辺りを包み始めた。西の空の縁はいまだ朱にそまっていたが、中天は暗い藍色に変わっている。焚き火がはぜた。海から吹く風がほてった頬に心地よい。交互に酒と肉を口に運びながら、不二は焚き火の炎を見つめた。赤々と火に照らされ、郎党達が騒いでいる。不思議な高揚感を不二は感じた。
これからはここにいる人々とともにあるのだ。
今更ながら実感がわく。この人達と同じ物を食し、同じ物を着る。同じ時代を生きる。柔らかい肉も冷蔵庫もないけれど、榎本の人々と一緒にいられるのならば、それでいいと不二は思う。不二はちら、と国光を伺い見た。相変わらず不二を抱き込むように座して酒を飲んでいる。焚き火の炎が国光の横顔をより精悍に浮かび上がらせていた。不二はじっと見つめる。
あぁ、この男が好きだ…
ふいに熱いものが胸にこみ上げた。
好きだ…
炎が揺れ、国光の横顔の影も揺れた。ぽすん、と不二は国光の胸にもたれる。
「不二?」
国光が上からのぞき込んできた。
「酔ったのか?不二。」
黒曜石の瞳、愛しい眼差し…
「ううん…」
直垂の固い布地の感触と、その奥から伝わってくる温もりに不二は酩酊した。
「ううん、酔ってないよ…」
国光の胸にもたれたまま、不二は飲み騒ぐ人々を眺めた。国光の右手が前に回り、不二の体を抱く。
「酔ったのだな…」
こめかみに唇を寄せ、国光は囁いた。吐息が耳に熱い。ずくり、と不二の体の奥に疼きが生まれた。国光の大きな手が、さするように不二の体を這う。疼きは熱にたやすく変わった。ふっ、と小さく不二は息を漏らす。体が熱い。国光の触れるところから、全身に甘い痺れが走る。
「…くにみつ…」
吐息混じりに不二は国光を呼んだ。国光の目がすっと細められる。
「義秀伯父、忠興叔父。」
国光は不二を見つめたまま、隣に座る二人に言った。
「御渡り様は酔われたそうだ。部屋へお連れするが、伯父上方はゆっくり楽しまれてくだされい。」
そして国光は不二を抱えるように座を立った。その様子を義秀は真面目な表情でじっと眺めていたが、にっと破願する。退出に文句をつけようとする忠興を手で制して、大声で呼ばわった。
「そうじゃなぁ、御渡り様、ゆっくり休んで下されい。今宵は無礼講ゆえ、しばらくは郎党、下人どもまで館の外で騒ぎまする。用向きはこの榎本当主をこき使われるがよろしゅうござりましょう。」
それから、飲み騒いでいる郎党、下人達に言い放った。
「榎本に蓄えてある酒をすべて出せ。飲み尽くそうぞ。何、案ずるな。飲んだ酒の倍、この義秀が届けさせよう。遠慮はいらぬぞ。たんと飲め。」
おおーっ、と歓声が焚き火の周りから起こった。早速下人達が何人か蔵へ走る。
「おおいに楽しむべし、のぅ、忠興殿。」
あ〜、う〜、と唸る忠興の背を豪快にはたくと、また並々と酒を注いで飲み干した。
「楽しむべし。」
焚き火が音をたててはぜた。すでに国光と不二は館に入って姿がない。とっぷりと暮れた空に、一番星が瞬いていた。
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あいたたた…やっとここまでこぎつけたよ…ちょっとは国光もいい思いしなきゃねぇ、がんばれ、国光っ(何を)