闇の奥に見えるのは白い光だ。
あの光だ。あの光に向かって歩けば帰ることができる。
不二の心臓が早鐘を打ち始めた。
とうとう帰れるんだ。元の世界に、皆のいる世界に。
どくどくとこめかみが脈打った。膝が震えている。不二はよろけそうになりながら、穴に向かって一歩踏み出した。
どっと、どこからか笑い声があがる。不二はぎくりと足を止めた。警護当番に当たった郎党達だろう、賑やかな笑い声がしばらく続く。しばらく不二はその笑い声を聞いていた。賑やかに笑う郎党達、その声に混じって忠興の声が聞こえた。
『使いなど、儂はごめんじゃあ。』
「た…だおき…」
不二は思わず声に聞き入る。忠興は大声で何か文句を並べ立てているようだ。
『御渡り様と約束しておるんじゃあっ。』
「……あ…」
鋭い痛みが不二の胸を貫いた。
「忠興……」
『明日は弓の御的を遠くに据え申し上げると約束したんじゃ。使いになぞ行っておられるかぁっ。』
そうだ、今日の昼、弓の稽古の後、忠興と約束したんだった。弓の腕が上達してきたから、明日はもっと強い弓を使ってみようと。
くしゃりと相好を崩した忠興の笑顔が浮かんだ。
『明日はもそっと遠くに的を設えまするゆえ、強い弓をつこうてみましょうなぁ。』
忠興の無邪気な言いようが蘇る。
突然自分がいなくなったら…
あの純朴な男は一生懸命探すだろう、そして、不二がもうどこにもいないと知ったら。
大泣きする、忠興は…
黒々とした大きな目からぽろぽろ涙をこぼす姿を不二は思いだした。国光と気まずくなった満月の夜、勘違いした忠興は海に帰らないでくれと男泣きに泣いたのだ。
あんなに強いのに、すごく強い武者なのに…
忠興が泣くだろうと思っただけで、不二はその場から動けなくなった。胸が締め付けられる。
『おぉ、御渡り様。』
不二の姿を見つけると、嬉しそうにそう笑う忠興、二度とその笑顔を見ることはなくなる。これから不二は未来へ帰るのだ。
もう二度と…
全身が震えた。もう二度と会えないのだ。不二が元の世界に帰ってしまったら、永遠に会えない。今更ながら、不二はその事実に衝撃を受けた。
大好きな忠興、だが、帰ってしまったらもう二度とその声は聞けない、笑顔も見られない。安否を問うことも、何もできない。
「…手紙…書いたりとかも…出来ないんだ…」
自分に言い聞かせるように不二は声を絞り出した。
「…ありがとうも…言えない…」
今更だ。時空を越えるのだ。全ての繋がりは永遠に断たれる。
「…さよなら…言わなきゃ…」
さよならするんだ。元の世界に、家族の所へ帰るのだから。
「さよならって…」
胸の奥から熱い固まりがせり上がってくる。不二は口元を両手で押さえた。
「忠興にさよならって…」
もとより、引き返す時間はない。
「さよなら…言えない…」
不二の耳に忠興の声が聞こえてくる。館の奥でまだ怒鳴っている。
『じゃから、明日の約束をいたしたのじゃ。』
明日はない。永遠に明日は来ない。不二が約束を果たすことはない。
「ただおき…」
ごめん、忠興…
「…あぁ…」
不二は顔を覆った。思えば忠興は、まるで我が子のように不二を慈しんでくれた。やれ走ると転ぶだの、菓子を召されよだの、不二の世話をやく姿はひどく楽しげで、その目は優しい光を宿していた。子煩悩な父親のように不二を守っていてくれた。
「ごめん…」
振り払うように不二はかぶりを振った。
僕、帰るよ、忠興…
両親の、姉や弟の、友人達のいる世界へ。がくがくと力の入らない足を叱咤して、不二は時空の穴にむかって一歩進んだ。
ここは僕のいるべき世界ではないのだから。
『いい加減になされよ、叔父殿っ。』
突然響きわたった声に、不二はびくりと足を止めた。
秀次っ。
思わず館のほうへ振り返った。忠興の声にかぶさるように秀次の声が聞こえてくる。
『我が儘を言われますなっ。』
どうやら忠興を諫めているらしい。
『火急のことゆえ、叔父殿に申しておるのではありませぬかっ。』
かなり興奮した声だ。あまりに忠興が言うことを聞かないのでついに堪忍袋の緒が切れたか。
まっすぐだから、秀次は。
小作りな顔を真っ赤にして怒る姿が目に浮かび、不二はつい、笑いそうになった。同時に、涙もこみ上げてくる。
心配性で苦労性で…
『榎本の名前がいるのでござりますっ。叔父殿に出ていただかねば困ると何度申せばおわかりになられるのかっ。』
「秀次…またやっかい事…?」
不二は呟いた。よくある騒ぎ、いつもならば、不二も自室を出て二人を覗きに行っている。不二が顔を出すと、野次馬の郎党達が大喜びした。ついでに当事者の忠興まで喜んで秀次の話を聞かなくなるので、余計に事が拗れるのだ。その度に不二は秀次に尋ねる。
『秀次、またやっかい事?』
不二は館の奥をじっと見つめた。言い合う二人や周りの様子が手に取るように伝わってくる。もう一度、不二は小さく言った。
「秀次…また…やっかい事…?」
秀次には聞こえないのに。もう誰にも声は届かないのに。
『御渡り様との約束は明後日でも逃げはいたしますまいにっ。』
あさって…
明日も明後日も存在しない。不二はこの世界から消える。八百年後に帰るのだ。
「ひでつぐ…」
秀次の誠実そうな面差しが脳裏をよぎる。いつも不二を気遣って、世話をやいてくれた秀次。食事に、着替えに、不二が暮らしやすいよう、さりげなく気を配ってくれた。それは責務の範疇を超え、純粋な好意だった。側にいて安心できた。帰るときになってはじめて、不二はどれほど自分が秀次を信頼していたか、感謝していたか、思い知った。だが、それを秀次に伝えることはない。伝えたくともその術がない。不二が帰る八百年後の現代では、秀次も忠興もとうに死んだ人間だ。ここに暮らす郎党や下人達も過去の人々なのだ。
今、声が聞こえているのに…
秀次や忠興の名前を見つけることができるだろうか。郎党達や下人達にいたっては、生きていたことすらわからない。記録も痕跡もないだろう。不二は今更ながら愕然とした。彼らはもともと出会うはずのない過去の人間だったのだと、改めて実感する。
でも、声が聞こえてる…
彼らと笑い、彼らと暮らした。たった二十日あまりだが、確かに心を通わせた、それら全てが本来ならば存在しえないものだというのか、うたかのように消えてしまうのか。
「…違うよ…」
不二は唇を噛みしめる。
「消えたりしないよ…」
不二は自分に言い聞かすように呟いた。
「忠興…馬の稽古はホントに楽しかったんだ…」
のろのろと不二はきびすをかえす。時空を繋ぐ穴を、そしてその先の光を見つめた。
「弓の稽古だって…」
ぐっと涙を堪えた。よろけそうになる足を踏ん張る。
「秀次とおしゃべりするの、楽しかった…」
秀次の色々な顔が浮かんだ。興奮して那須の与一の話をした秀次、国光とケンカをするたびに間に立ってくれた秀次、アメを舐めてぽぅっとなった秀次、いつも側にいてくれた秀次…
「君ってば、いつも真面目くさって変なこと言うんだから…」
声が聞こえてくる。秀次が諫め、忠興がごねている。相変わらずの館の日常。しゃくりあげそうになって、不二は息を堪えた。
「大好きだったんだ…」
館での生活が脳裏を駆けめぐる。不二が拗ねると、困り顔で忠興や秀次が宥めにきてくれた。不二の好きなものが見つかると、嬉しそうにとんできて報告してくれた。食材が固くて四苦八苦していると、気を利かせてすぐに煮直してくれた。
『御渡り様』
優しい声、不二のことが大好きなのだという声、不二のために一生懸命な声。
『御渡り様』
不二を見ると顔をほころばせ、嬉しそうにしてくれた人々。
『明日もまた、お話を聞かせて下されよ。御渡り様。』
大殿さん…
国忠も嘆くだろう。不二が毎朝、毎夕、話をしに部屋を尋ねてくるのが楽しみだと笑っていた。病の身で必死に不二を守ろうとしてくれた強い人、大好きな大殿さん。
泣くよね、大殿さん…
不二は必死で泣くまいと涙を堪える。大好きな人達、さよならもありがとうも言えないまま、大好きな人達と永遠の別れをする。
いつもかばってくれてありがとう、心配してくれてありがとう…
彼らがいなかったら、不二は生きていくことすらできなかった。
『御渡り様、明日もよいお天気でござりましょうよぉ。』
みんな、ごめん。
笑顔をむけられて本当はとても安心したのだ。ひとりぼっちだと絶望しそうになるのを救ってくれたのはあの笑顔だ。
ありがとう、って言えなくてごめん。さよなら言えなくてごめん。
さよなら…
不二は白い光の中に、家族の姿を思い浮かべようとした。
帰るから、父さん、母さん…
庭先から聞こえる郎党達の笑い声。
帰るんだ…姉さん、裕太…
館の奥では、まだ忠興と秀次が揉めている。なつかしい、温かい不二の大好きな声。
帰ろう…
不二は一歩、穴へ歩み寄る。
手塚…
ふと、青学のジャージ姿に、直垂姿が重なりそうになって不二はどきりとした。
だっだめだっ。
足が鈍る。
考えちゃだめだっ。
あの男のことを考えてはだめだ。必死で手塚の顔を思い浮かべようとする。だが、桜並木の中に立つ学生服はいつの間にか緑灰色の直垂に代わり、くせのある髪は肩よりも長く伸びて無造作に束ねられていた。そして不二を見つめる黒い瞳、熱を孕み、不二を求める強い眼差し。
『おれは手塚ではない。』
手塚と同じ声がきっぱりと言い切る。
あぁ…
温かい手、不二が不安になると、髪を優しく梳いてくれた大きな手。
『大丈夫だ、不二…』
不二を抱き寄せる腕、温かい胸、直垂の感触。
あぁ…もう…
『不二…』
不二の名前を紡ぐ低く穏やかな声、手塚と同じ、だが慈しみに溢れた響き。
もう…言わないで…
『おれは榎本国光だ。』
崩れ落ちそうになる体を不二は必死で支えた。全身に痛みが走る。もう認めるしかない。
僕は国光が好きだ…
手塚ではなく、榎本国光が好きだ、不二ははっきり自覚した。だが、だからといって不二に何が出来るだろう。所詮、不二はこの世界の住人ではないのだ。榎本国光も鎌倉時代の人間、過去の人間なのだから。
帰るしかないんだ…
裂かれるような痛みに耐えて、不二は時空の穴へ歩く。
帰るしか…
ころん、とポケットの中で土鈴が音をたてた。
『おぬしに似ている。』
むすっとした顔で突き出すように土鈴を渡された。ぶっきらぼうに見える国光は、本当は結構な照れ屋で情熱家で…
『不二は笑っているほうがいいぞ。』
ころころと鈴が鳴る。
『おぬしはここで笑っていればいい。』
あぁ、国光…
不二はよろけそうになりながら時空の穴に向かって歩いた。
国光、君が好き。誰よりも好き。
本当はずっと側にいたい。だが、鎌倉時代で不二が生きていけるのか。答えは否だ。今は神様として保護されている。国光がいるかぎり、おそらく暮らしてはいけるだろう。だが、もし国光がいなくなったら、榎本の保護がなくなったら、そうしたら不二はたった一人、異世界で生きていかなければならない。元の世界に帰ることもできず一人、鎌倉時代に取り残されるのだ。そんなのは怖い。
ごめん、国光…
ころころと音をたてる鈴を、不二はポケットの上から押さえた。一緒にいれてある陶片が布に擦れた。
ごめん、お母さんの形見、僕が持っていく。
不二が居るべき世界は違う。国光の暮らす世界ではない。どんなに国光が好きでも、一緒にはいられない。不二は時空を繋ぐ穴の縁にたどりついた。この中にはいれば、この先の白い光へたどり着けば、元の世界だ。不二はじっと、白い光を見つめた。もう一度、館を見たいという気持ちは押さえつける。ポケットの受けから土鈴と陶片を握りしめた。
さよなら、国光…
不二は穴の中に一歩踏み出す。
元の世界に戻っても、ずっとずっと君が好き…
もう一歩を踏みだし、不二は完全に時空の穴に入った。真っ暗に見えた穴の中は、煌めく光に満ちていた。キラキラと光を放つ粒子が、奥の白い光に向かって緩やかに流れている。星々が流れていくようだ。天の川が実在するとしたらこんな感じなのかもしれない。不二は目を細めて粒子の煌めきを眺めた。この流れに沿っていけば元の世界だ。もう迷いはなかった。
帰ろう。
不二はしっかりとした足取りで歩き出す。
国光…
光を目指して、まっすぐに歩く。
ずっと君だけが好きだから…
「不二っ。」
突然、背後で大声が響いた。
☆☆☆☆☆☆☆
問題・「不二っ」と呼びかけたのは誰でしょう。1.榎本国光 2.押し売りの営業マン 3.アルフレド(だから、「ロミオの青い空」から離れろ、オレ)
正解はケロロ軍曹でした(ごめん、原稿で追いつめられてる…)