月のない夜だった。

昨日までの雨で空気は澄み、降るような星空が広がっている。一日中ほったらかされたせいか、夕食時から国光はずっと不二の部屋に居座っていた。不二が食後の菓子をねだったので、やっと腰を上げ部屋を出る始末だ。不二は廊下に出て国光を待った。夜風が優しく頬を撫でていく。

今日は楽しかったな。

不二はくすっと笑いをもらした。
馬の轡をとった忠興は大喜びだった。郎党達はなにかにつけて忠興をはやし、皆の笑い声が庭に響いていた。

それにしても国光のあの顔…

わざと国光から逃げ回ってやった。情けないような、困り果てたような国光の顔を思い出して不二は肩を震わせた。ジャージのポケットで国光のくれた土鈴がころころと鳴る。

「可愛いとこあるんだよね、あれで。」

明日は一日、国光にひっついてやろう、そうしたら明後日、明々後日くらいには遠乗りさせてくれるかもしれない。

「うん、そうしよう。」

不二は土鈴をポケットの上からぽんぽん押さえた。ころころと土鈴は小さく音をたてる。素朴な、可愛らしい音だ。

国光の心の音…

ふと、そんな風に思えた。あの武骨な美丈夫の中には、母を恋しがる小さな少年が住んでいた。早くから惣領息子として、病に伏せった当主のかわりに、榎本を背負わなければならなかった少年は、甘えたい盛りの子供心をどこか体の奥にしまい込んで、急いで大人になったのだろう。不二はまた、ポケットの上から土鈴を転がし音をたてた。母の形見をくれた国光、小さな薄青い陶片、優しい思い出のこめられたかけら。ころころと土鈴が鳴る。その時、反対側のポケットからまったく違う音が響いた。

え…?

びくん、と不二の体が震える。聞き慣れた電子音のメロディー、しかし、ここでは聞こえるはずのない…

これって…

一瞬、不二は何が起こったのかわからなかった。恐る恐る、音のするポケットの中を探る。携帯が手にふれた。

メールの着信音だっ。

はっと思い当たり、慌てて携帯を取り出した。画面に、メール一件着信の表示が出ている。

「…うそっ…」

電撃に打たれたような衝撃が走った。震える手で不二はメールを開けてみる。

「春休み、わくわくキャンペーンのご案内」

よく行くスポーツショップからのメールだ。着信時間は三月二十九日午前十時三分。

時計が進んでいる?

ひゅっと不二は息を詰めた。時計は午前十時きっかりで止まっていた。ということは、このメールは明らかに不二が鎌倉時代に飛ばされた後に送られたものだ。

今、ここが現代に繋がっている?

緊張でガチガチに強ばったまま不二は携帯を見つめた。不二が時空を移動しているわけではない。いつもの浮遊感や白い光に包まれる感覚はなかった。しかし、メールは確かに、不二の元の世界から送られてきた物なのだ。ごくり、と喉が鳴った。小刻みに震えたまま、不二は自宅の電話番号の短縮ボタンを押してみた。鎌倉時代にきてからまったくかけることのできなかった電話、もし、現代にこの空間が繋がっているとしたらかかるかもしれない。かかるはずだ。祈るような気持ちで不二は携帯を耳にあてる。

トルルルル…

鳴ったっ。

電話の呼び出し音だ。不二は携帯を耳に強く押しつけたまま待った。

トルルルル、トルルルル…

五回、鳴ったところで、ガチャリ、と応答があった。

「はい、不二です。ただいま留守にしております。ご用の方は…」

父親の声だ。自宅の留守電だ。電話が繋がった。

「ピーっという発信音のあとにメッセージを…」

帰れる。

直感でわかった。

今なら帰れる。

不二のいる場所と現代が今繋がっている。

不二は携帯を耳から離し、辺りを見回した。別に変わったところはない。目の前には館の東面の庭がある。月のない夜だが、地面に撒かれた白砂がくっきり浮かび上がっている。目を上げれば満天の星空。

どこだ…

夜風が頬をなでた。犬の吠え声や馬のしわぶき、立ち働く郎党や下人達の声が聞こえる。

どこにあるんだ…

携帯を握りしめている手がじっとりと汗で湿った。不二は必死で目を凝らす。

どこかにあるはずなのだ。鎌倉時代と現代をつないでいる目印のようなものが、現代に帰るための何かが。
目の前には見慣れた館の風景、背の高い松の木が濃紺の夜空に黒々とそびえている。見慣れたいつもの夜の風景、何も変わりはない。

不二は焦りはじめた。早く見つけないと帰れなくなるかもしれない。時空のつながりが切れるかもしれない。早く、早く見つけなければ。

振り向いて部屋の中を見つめた。平仄の明かりでぼんやりと照らされた室内にも変化は見あたらない。板敷きの床にしかれた畳、円座、脇息、夜風で平仄の炎が揺れ、影も揺れた。

どこに…

チリ、と何かが神経に触れた。夜気の中に奇妙な違和感がうまれる。ハッと不二は再び庭に顔を向けた。変わりはない。白砂の先には板で囲った塀、犬が吠えている。だが、違和感は次第に大きくなってきた。うゎん、と小さな振動を感じる。素足のまま、不二は庭に降りた。

風が止んでる…?

さっきまで頬を撫でていた心地よい夜風が今は感じられない。不二はじっと目を凝らした。厩からはブシュッ、ブシュッと馬達が鼻を鳴らす音がした。館の方からは相変わらず立ち働く人々の声が聞こえてくる。

そんな日常の営みの音に混じって、うゎん、という耳鳴りのような振動が強くなってきた。不二は微動だにせず暗闇を見つめる。振動が皮膚にまで伝わってきた。不二がその感触に身を竦めたとき、ぱたりと振動が止まった。
ズッ、と空気の密度が増す。はっと不二は目を見開いた。庭先の板塀の一部がおかしい。空気に塀のその部分だけ滲んでいるように見える。みるみるうちに滲みは広がり陽炎のようにゆらめき始めた。辺りは闇夜、星明かりだけがたよりだ。不二は息を飲んだままゆらめきを見つめた。緊張で喉がひりつく。

ぐにゃり

揺らめいていた空気が大きく歪んだ。歪みの中心に空気を吸い込むような渦が出来る。渦は次第に激しく大きくなる。ギン、と耳鳴りがするほど激しくなり、不二は思わず足を踏ん張った。

その時、突然渦が消えた。そしてそこには、ぽっかり、真っ黒な穴が出現した。穴の中は漆黒の闇だ。不二の背中を汗が伝った。穴の中に目を凝らす。闇の奥に、何か小さな白いものが見えた。

光…?


☆☆☆☆☆☆☆
出た〜〜〜っ、ってお化けじゃないんだから…。さ〜て、不二君、穴が開いたよ、ど〜するよ、不二君、がんばれ、不二君っ(何を)