「不二っ。」
突然、背後で大声が響いた。

「不二っ。」


雷に打たれたような衝撃が全身に走る。びくり、と不二は足を止めた。

国光っ。

振り向かなくてもわかる。国光だ。必死で国光が不二を呼んでいる。

「不二っ、行くな不二っ。」

自分を呼び止める声、愛しい声。

「不二っ、行くなっ。」

振り向いてはだめだ。
不二はぎゅっと唇を噛みしめた。
振り向いたら、国光の顔をみたら自分はどうなるかわからない。

帰るんだ、僕は。

不二は煌めく光の流れを見つめた。銀砂の流れに沿って歩こう、今はそのことだけを考えよう。不二は再び足を進めた。

帰ろう。

「不二っ。」

だめなんだ、国光。

「不二っ。」

そこは僕の世界じゃない。僕はそこにはいられない。

「不二っ。」


国光、ずっと君だけを好き…


「好きだよ、国光…」


振り向くことなく、不二は小さく、しかしはっきりと告げた。もう不二の声は国光には届かないだろう。だが、国光の気配がまだ感じられる。国光を感じていられるうちに、言いたかった。

「君が好き。」

ちゃんと君の顔を見て言えたらよかったのに…

光の粒の流れが次第に速くなってきた。最奥の白い光に吸い込まれるように流れていく。もう、不二は足を動かす必要がなかった。銀砂の流れが不二の体を連れて行く。白い光はもう目の前だ。不二は元の世界に帰る。


さよなら、もう二度と会うこともない…





「…ふじ…」



遠くに微かな声がした。

「…ふ…じ…」

聞いたことがないほど弱々しく頼りない声。



え…?


思わず不二は振り向いた。振り向いた先には、館の庭が丸く切り取られたようにぽっかりと浮かんでいる。さっきまで不二がいた庭だ。鎌倉時代の館の庭だ。庭先にたつ国光が見える。そして、その姿に不二は愕然とした。


国光が泣いている…


榎本国光が泣いていた。幼子のように泣いていた。榎本党を束ねる当主として堂々と落ち着き払っている国光が、軽々と馬を操り、刀を振るう偉丈夫が、弱々しく泣いているのだ。

「な…んで…」

呆然と国光を見つめ不二は呟いた。喉がカラカラに渇いて、声が掠れる。

「なんで…国光…」

あの国光が、何故木偶の坊のように突っ立って泣いているのだ。何故迷子みたいな顔をしているのだ。黒い瞳からぱたぱたと涙が落ちて、直垂の胸元を濡らしている。溢れる涙を国光は拭おうともしない。

「くにみつ…」

不二は国光を見つめながらかぶりを振った。

どうしてそんな顔をするんだ。いつもみたいに強引に、自信たっぷりに僕を引き留めればいいじゃないか。

国光はひたすら不二を見つめ、ただ泣いている。いつも生気に満ち溢れ輝いている黒い瞳は、今はただ、諦めの色しか浮かべていない。置き去りにされる子供のような目だ。寂しい目だ。


「あ…」


不二はまたかぶりを振った。


僕は帰らなきゃ…


今を逃したら、もう帰れなくなるかもしれないのだ。

「帰らなきゃ…」

自分に言い聞かせるように、不二は繰り返す。

「帰らなきゃ…」



『御渡り様の御前でのみ、殿は笑うのです。』

ふいに秀次の声がよみがえった。

『殿をおいてゆかれますな…』



やめろ…


体が動かない。やっと元の世界に帰れるというのに。不二は絞り出すように繰り返した。

「僕は帰るんだ。」

じっと不二を見つめていた国光の顔に、深い絶望の色が浮かんだ。静かに国光は目を閉じる。ぱたぱたと涙がこぼれ落ちた。なにもかも諦めきった表情、国光はそのまま俯いた。嗚咽を堪えているのか肩が震えている。

「くにみつ…」

今まで見たこともないほど弱々しい姿の国光…

いや、違う。
本当は知っている。当主として榎本を背負って立つ国光の中に、小さな子供がいたことを。二人きりでいるときだけ、その子供は顔を出した。無邪気で甘えん坊な国光のもう一つの顔。その子供が今、全てを諦めきって、悲しくて泣いている。

「く…に…みつ…」

頭の隅で警鐘が鳴る。
戻ってはだめだ。元の世界に帰れなくなる。

「くにみつ…」

鎌倉時代でずっと生きることになってしまう。


ずっと国光の側で…


「ふ…じ…」


声が聞こえた。小さな、小さな声だった。迷子の幼子が母を呼ぶような、頼りない声。肩を震わせ泣く国光。ぱりん、と音をたてて、心の中の何かが砕けた。


あぁ…


ぽかっと切り取られた庭で国光が俯いたまま泣いている。

置いていけないよ…

だって国光が泣いている。

置いていけない。


不二の頬を一筋、涙が伝った。


榎本国光…






銀砂の流れに逆らって不二は駆けだした。キラキラと煌めく粒子に目が眩みそうだ。いつの間にか流れは速くなっていて、足をとられる。鎌倉時代の庭を切り取った円が急速に収縮しはじめた。通路が閉じる。閉じてしまう。

「国光っ。」

不二は叫んだ。

「国光っ。」

ハッと国光が顔を上げる。声が届いた。

「国光っ。」

不二は駆けた。国光は目を見開いたまま呆然としている。

「国光、国光っ。」

国光の側にいたい。

不二は走った。銀砂の流れが不二の体を押し戻す。館の庭が遠ざかる。

時空の穴が閉じてしまうっ。

「国光っ。」

光の粒子が押し寄せてきた。息が詰まる。目を開けていられない。まぶしい光の奥で国光が手を差し伸べてくるのが見えた。不二は必死で国光に向かって手を伸ばす。バシッと何かを突き破ったような衝撃が来た。光が渦巻く。何かが手に触れた。

国光の側に…

不二は夢中でそれを掴んだ。


くにみつ…


墜落するような浮遊感を感じながら、不二は真っ白な光の中に意識を飛ばした。

☆☆☆☆☆☆☆
「結局、不二殿は侵略のターゲットを鎌倉時代のペコポンにかえたのでありますな。男をたらし込んで権力を手中に収める、今後の作戦の参考にするであります。」
「でも軍曹さん、関東の片田舎の権力握ってペコポン制圧できるんですか〜。」
「 ていうか、弱小領主?」
「色仕掛けなぞ性にあわんっ。おれは絶対にやらんからなっ。」
「く〜くっくっくっ、まぁ、とにかく 、これから二転、三転はするみたいだぜぇ。」
「まだまだオチはつかないってことですね…って、誰も聞いてないし…」
「ケ〜ロケロケロ。」
……ごめん、今、ケロロ軍曹みてたの…