「父上は戦場で鬼と異名をとられた方だ。父上の怒りは子供心には心底恐ろしかった。その上、普段なれば優しい母上までお怒りかと思うと、おれは竦み上がって動けなくなったのだ。その時、館の奥から母上が飛び出してこられた。母上は…」

国光は再び遠くを見つめた。その目は優しく、また哀しみの色をはいている。

「飛び出してこられた母上は、素足のまま庭に降りられ…泣いておられた…泣きながらおれを抱きしめた。泣きながら、おれが無事でよかったと、心配したと…おれは初めて己のしでかしたことに気づいた。悪いことをしたのだ、ひどく母上や皆に心配をかけたとやっとわかった。涙が出た。気づいたらわぁわぁ泣きながら母上に謝っていた。母上の大事になされていた茶碗を欠かしてしまった、叱責されるのが恐ろしくて隠れていた、そうおれは泣きながら許しを乞うた。母上は泣いているおれを抱きしめたまま、茶碗をもってこさせた…」

国光はふっと息をついた。切ない吐息に不二はどきっとする。

「おれはもうどんな罰でも受けようと思っていた。おれの浅はかさが母上を泣かせてしまったのだから。母上の大事なものを壊してしまったのだから…」

国光はじっと空を仰ぎ見たまま呟いた。

「おれは罰を受けねばならぬのだ。」
「国光…」

不二は思わず隣に座る男に手を重ねた。国光がゆっくりと不二を見る。それからひどく優しい笑みを浮かべた。

「だがな、母上は茶碗をとりあげると、地面にたたきつけて割ったのだ。」
「えっ、割ったのっ?」

不二は声を上げた。国光は頷く。

「そうだ、粉々に茶碗は砕けた。」
「えええーっ、もったいないっ。」

悲鳴を上げた不二に国光は肩を揺らした。

「父上も不二と同じ事を叫ばれたな。」
「だって、だって、唐渡りの高級品でしょ、なにも割らなくったってっ。」

国光はくっくっと声を上げて笑った。

「そう仰せられたよ、父上も。」

愉快そうに笑う国光が癪にさわって不二はむくれた。その不二の手を今度は国光が宥めるようにぽんぽんと叩く。

「とんできた父上は粉々になった茶碗を見て肩を落とされた。それはそうだ、家宝とも言うべき茶碗だったからな。なにも割らずともよいのに、ここまで粉々にせずともよいのに、そう父上は嘆かれた。その途端、母上が…」

国光はまたふっと笑った。嬉しそうな、無邪気な笑みだ。

「母上は泣き濡れたまま、父上を睨み据えられたよ、かような茶碗一つ、国光に比べていかほどのものであろう、いや、くらべることすら出来ぬ、こんなもののために国光が大変なことになったのだ、今回は無事だったからよいものを、榎本国忠ともあろう者が未練がましいことを言われるな、そうきっぱりと仰せられた。母上にきつく諫められて父上は慌てて言い訳をしていたな。あんなにおろおろとなされた父上を見たのは初めてだ。」

おろおろって、鬼とよばれた男をおろおろさせたのか、国光の母上様って…

不二は呆気にとられていた。今まで抱いていた国光の母親のイメージは、はかなげな女性だったのだ。

だって、一人しか子供産めなかったとか、早死にしたとかいうから…

不二の内心ぐるぐるしているのがわかったのか、国光は苦笑した。

「母上はお体こそ弱かったが気性のきっぱりしたお方だったからな。父上はまったく頭があがらなかったのだ。」

かかぁ天下だったんだ、国光のとこって…

こいつ、どっちに似たんだ、と不二は国光をマジマジと見た。頑固で強気な気性は案外母親似なのかもしれない。

「それだけ父上は母上のことが大事であったのだな。今ならが父上のお気持ちがよくわかる。」
「…え?」

ひた、と見つめ返され、不二の心臓がどきっと跳ねた。だが、すぐに国光は視線を庭にうつし、話続けた。

「茶碗を砕いたあと、母上はおれをまた抱きしめて泣かれた。榎本の家宝は国光だと泣かれた。母上は…」

何かに耐えるように国光は唇を引き結んだ。しばらくそうしていたが、ふと、力を抜くと不二を見た。

「母上とはありがたいものだな…」

国光の顔が辛そうに歪む。

「不二の母君も…不二を…」

不二はハッと国光を見上げた。国光は苦しげな目で不二を見つめる。

「おぬしも母君に…母君のもとへ…」
「…あ…」

言いしれぬ切なさが不二の胸に溢れた。母親への思慕に涙が滲んでくる。俯いた不二の目元を国光の指がそっと拭った。

「不二…」
「…ずるいな…」

不二は顔をあげないまま小さく言った。

「国光はずるいよ…」

頬に当たる国光の手が温かい。この温もりに何もかも許してしまいそうになる。心を預けてしまいそうになる。国光は不二の頬をすっと撫でて涙をふき取ると、懐へ手をいれ何かを取り出した。目の前で広げられた手のひらには、薄青い小さな陶片が乗っている。角は丸く削られ、艶やかな色を放っていた。

「これ…」

不二は涙が滲んだままの顔をあげた。目の前の国光の瞳は優しい色を湛えている。

「母上の茶碗だ。」
「え…?」

国光は目を細めた。

「父上がおれに持っていよと、母上のお気持ちを忘れるなと言うてくだされた。まぁ、茶碗に未練もあったのであろうが。」
「大殿さんが…」

それから国光は薄青い陶片を不二の手に握らせた。

「くにみ…」
「不二にやる。」
「えっ。」

目を見開いた不二が何か言う前に国光は繰り返す。

「不二に持っていて欲しい。」
「だっだめだよっ。」

不二は慌てた。

「だってこれ、大切なものじゃない。」
「だから不二にやる。」
「そんな…」

この陶片はきっと国光の宝物だ。大事な思い出の品なのだ。自分なんかが貰って良いものじゃない。
だって僕は国光の想いに答えられない。

「僕は…」
「ただ、貰ってくれるだけでよいのだ…不二…」

不二の言葉を遮って、強引に陶片を押しつける。だが、その声音がひどく寂しげで、不二は何も言えなくなった。

いつもそうなんだ…

押しが強くて好き勝手やっているように見えて、国光はどこか哀しい。不二は手の中の薄青いかけらを見つめた。破片の優しい色合いに国光は母親の面影を重ねていたのだろう。遠い日の温かな記憶のつまった陶片、それを貰って欲しいと、他には望まぬからただ持っていて欲しいと願うのか。

「国光…」

あらたな涙が滲んできた。不二は手の中のかけらを胸に抱き寄せた。

「ありがと…国光…」

後は言葉にならない。泣くのを堪えて不二は俯いた。

「不二…」

両肩に手をかけられ引き寄せられる。不二は国光の胸に体を預けた。

「…すまぬ…」

国光がぽつりと言った。

「…すまぬ…不二…」

不二は黙って、ただ国光に身を寄せていた。夜空にかかる三日月が滲む涙でぼやけて見えた。


☆☆☆☆☆☆☆
おいおい、不二君、エンゲージリングもらっちまったよ。流されていいのか、不二君。そりゃまぁ、国光はどうあっても君を手放したくないわけだから、すまん、と言うしかないわな。そろそろ後半第一の山場に突入準備〜。