下弦の月がかかっている。不二は板張りの廊下に座っていた。湯浴みも終わり、部屋の中にはすでに夜具の支度がしてある。

今日の国光は、どういう風のふきまわしか、日中から日暮れまで、板戸を開け放すのを許していた。相変わらず不二を部屋の外に出すことには首を縦に振らなかったが、それでも不二にとっては嬉しいことだった。薄暗い部屋に辟易していたのだ。

まぁ、国光もいい加減、うんざりしたのかもしれないな。

不二はここ三日の国光を思い返した。どこへも行かず、薄暗い不二の部屋でひたすら執務に励んでいた。そしてやることがなくなると腕組みして瞑目する。不二にしてみれば、よく三日もあんな退屈な生活が出来たものだと思う。

僕は強制的にやらされたけどね。

それを思うとムカッとくる。が、同時に心も痛むのだ。

『我らを…殿をおいてゆかれますな…』

秀次の声が耳から離れない。国光の想いが不二の胸を切り裂く。

『しゅうすけ…?』

泣いている母親の顔が浮かんだ。あの時、母は確かに不二を探した。裕太や由美子がぽかんとしていたということは、不二の姿が見えたわけではないのだろう。だが、確かに母は不二を呼んだ。

『周助の声が…』

母はそう言って不二の立っている方へ手を伸ばした。不二の存在を感じ取って名前を呼んだ。

母さんはわかってくれたんだ、僕がいるって…

不二の中にぽっと希望の灯がともる。不二は確実に現代へ近くなっているのだ。

母さん…



「不二。」

呼びかけられてどきんとした。

「国光…」
「白湯だ。」

国光は不二の横にどかりと腰をおろすと、白湯の入った碗をつきだした。不二はふっとため息をこぼす。

「いきなり声かけないでくれる?毎回毎回、心臓に悪いよ。」
「しんぞう?」
「……あ、いい、気にしないで…」

不二は国光の手から碗を受け取って口に運んだ。湯上がりの体に水気はありがたい。

あ〜、コーラ飲みたい…

それでも、現代っ子の喉は冷蔵庫から取り出す様々な味の飲み物を恋しがった。時折無性に炭酸が飲みたくなる。

もう、贅沢いわない、氷水、冷たい氷、味しなくていいから氷水…

冷蔵庫を開けただけで手にはいる冷たいゼリーやヨーグルト、冷凍庫のアイスクリーム、ましてや氷の存在など、当たり前だった。実はそういう生活がいかに贅沢なものだったのか、この時代にいると身をもって思い知らされる。不二はなんとなくどんよりした気分で白湯をのみほした。

「ありがと。」

礼を言って国光に碗を返す。国光は碗を受け取り、だが、立ち上がる気配はない。じっと碗に目を落としたまま黙りこくっている。

「国光?」
「母上は…」

唐突に国光はぽつりと言った。

「母上は贅沢を言わぬ方であったが、ただ一つだけ、唐渡りの茶碗を大事になされていた…」

何の話をはじめたのかと、不二は目を瞬かせる。国光は目を伏せたままぽつぽつと語りはじめた。

「薄青い色の、美しい茶碗だった。時折母上は、その茶碗で白湯を飲まれた。父上が茶を点てて飲めばよいと言われても、白湯のほうが茶碗が美しく見えると…母上なりに身を慎まれていたのだな。」

国光はふっと寂しげな笑みをはくと、夜空に目をやった。細い三日月が青白い光を投げかけている。星々が銀色に瞬いていた。不二はじっと話を聞いた。

「おれはその茶碗にさわってみたくてたまらなかった…おれは八つだったか、当然、高価な茶碗に触れることは許されていない。だが、結構な悪戯者だったおれは、ある日、その茶碗を持ち出すことに成功した。」

不二は国光を見つめる。国光は空を仰いだままだ。

「すぐ返すつもりだったのだ。ただ、その茶碗で遊んでみたかった。色々な物を入れてみた。水、葉っぱ、貝殻…綺麗な茶碗だった。陽にかざすと、不思議な模様が透けて見えて、そしておれは、いつのまにか茶碗の縁を欠いてしまっていた。」

このくらい、と国光は手にした茶碗の縁を指でなぞる。

「おれは怖くなった。家宝にも等しい、唐渡りの珍しい茶碗だ。父上に知られたらどんなお叱りを受けるか、母上もさぞや落胆なされる。おれは館を逃げ出した。」
「逃げたんだ、国光。」

不二はくすっと笑った。いつも自信に満ちて強気なこの男が、と思うと可笑しかった。国光がわずかに肩を竦める。

「八つだったからな。」
「うん。」

クスクス笑いを収めて国光を見ると、国光は微かなほほえみを浮かべ、手に持った茶碗の縁を撫でていた。愛おしげなその仕草に不二の心がざわめく。

「逃げ出すといっても、行く当てがあるわけではない。おれは海神様の祠に潜り込んだ。浜辺にある、あれだ。祠の神棚の裏に隠れてじっとしていた。」

国光はいつしか顔を上げ、庭の先を見つめていた。浜辺の先の祠を見晴るかすような目は遠い日の自分に向けているのだろうか。

「だんだん日も陰り、腹も減ってきた。だが、おれは怖くて出ていけなかった。おれを探す郎党や叔父上や、年の離れたいとこ達の声が聞こえたが、おれはじっと隠れていた。心細かった。そのうち、日が暮れてあたりは真っ暗になった。波の音だけがやたら耳について、今度はそれが恐ろしくなった。」
「海の音が?」

不二が怪訝そうに首を捻る。国光は苦笑した。

「海神様がおれを怒っておられるように聞こえたんだ。」

不二はぽかんと国光を見つめた。国光はきまり悪げに言う。

「まだ八つだ、しかたあるまい。」
「…国光って…」

吹き出しそうになるのを不二は堪える。ここで笑ってはちょっと気の毒だ。国光は話し続けた。

「波の音が海神様の怒る声に聞こえて、おれはもうどうしていいかわからなかった。真っ暗で、恐ろしくて、そうして震えていると、いきなり祠の扉が開いたのだ。おれは飛び上がった。海神様がおれを捕まえに来たのだと思った。悲鳴を上げて逃げようとしたが足が動かぬ。竦み上がっていたのだな。海神様は足音荒く神棚のところまでやってきた。おれは頭を抱えて床に蹲った。悪いことをした子供は取って食われるのだ、そう聞かされていたから、もうだめだと思った。海神様はおれの襟首を掴んで持ち上げた。」

国光はその時の感触を思い出したのか、首の後ろに手をやってさすった。無意識なのだろう。不二はじっと耳を傾けた。

「たわけ、と怒鳴られてはじめて、それが父上だとわかった。父上はかんかんに怒っておられた。海神様に食われる心配はなくなったが、今度は父上だ。この様子だと茶碗のこともばれている。おれは観念した。だからと言って恐怖がなくなったわけではない。どんなにひどく叱られるのだろうと…」

国光はふっと辛そうに口元をゆがめた。

「父上に引きずられておれは館へ帰った。叱責を覚悟して、それでも恐ろしくて、忠興叔父や郎党達が何か騒ぎ立てていたが目にはいらないほどおれは緊張していた。庭先から動けなくなって、いや、笑うな、本当なのだ。」

上目遣いで不二が信じられない、というふうに笑うと、国光はまた困ったように肩を竦めた。

「父上は戦場で鬼と異名をとられた方だ。父上の怒りは子供心には心底恐ろしかった。その上、普段なれば優しい母上までお怒りかと思うと、おれは竦み上がって動けなくなったのだ。その時、館の奥から母上が飛び出してこられた。母上は…」

☆☆☆☆☆☆☆

あぁ〜、こんなとこでまたブチ切りだよ。国光君、ちょっとしんみりです。ポイント、かせいでます(だから違うだろーっ)