すり抜けるかと思っていた手が、手塚の肩に触れて止まった。いや、触れたのではない。布の感触も何もない。薄い柔らかい膜に遮られたような感覚だ。ただ、薄膜を通して手塚の体温だけが掌に伝わってきた。不二は息を飲んだ。手の平を手塚の体に添って動かしてみる。やはり薄い膜に遮られていて、パジャマに皺一つつけることも出来ない。直接触れられるわけではないのだ。それでも、手塚の温もりだけは伝わってくる。

「あぁ…」

不二は震えた。この手は確かに、手塚の温もりを感じている。

「て…づか…」

肩を揺すろうと不二は触れる手に力をこめた。だが、不二がどんなに手を動かそうと、手塚の体は揺れもしないし、シーツに皺一つつかない。全てが薄膜に遮られている。不二の体はまだこの世界に帰ってきていないのだ。

「あ…あぁぁ…」

不二は呻いた。胸の中がぐちゃぐちゃだ。手塚の温もりを自分は確かに感じている。だが手塚は?手塚は何も感じていない。不二が何をしても、元の世界には微塵の変化も起こらないのだ。

僕はここにいるのに、君に触れているのにっ。

叫びだしたかった。体中が張り裂けそうだ。

「手塚ぁ…」

めちゃくちゃに手塚の肩を揺すった。だが、手塚は微動だにしない。パジャマにもシーツにも皺一つつかない。点滴のチューブが揺れることもない。

「てづか…ぁ…」

不二の喉から嗚咽が漏れた。ぱたぱたと涙が落ちる。しかし、その涙がシーツに染みを作ることはないのだ。

「手塚、手塚、お願いだから…」

何故手塚は目覚めない、何故僕を見つけてくれない、何故僕は帰れないんだ…

「う…あぁ…」

不二は手塚の体にとりすがった。

「目を覚ましてよ、手塚、手塚、手塚っ。」

ここに温もりが確かにあるのに。

「てづかぁっ。」

不二の叫びと同時に再び世界が歪んだ。

「てづ…」

意識が遠くなる。白い光が炸裂する。

いやだっ…

突然、感覚が戻ってきた。暖かい春の風と馬の嘶き、犬達の咆える声。

「…あぁ…」

不二は再び自分が鎌倉時代に戻っていた。ここは館の自分の部屋、目の前には忠興の土産の菓子と白湯がある。

「あぁ…」

不二は涙に濡れた顔を覆った。また新たな涙があふれてくる。

「手塚…」

不二は想い人の名を呟いた。たった今まで、その温もりを感じていたのに。

「手塚…てづか…」
「そんなに手塚のところへ帰りたいのか。」

突然、鋭い声が部屋に響いた。不二はぎくりと体を強張らせる。はっと見上げると、部屋の入り口に国光が立っていた。摘んできた芹を左手に握り締めている。帰ってきたばかりなのだ。真っ青な顔で国光は不二を凝視していた。その険しい雰囲気に不二は怯んだ。

「国光…」

声を絞り出すように名前を呼んだが、国光は何も言わない。目に剣呑な光が宿っている。不二は呆然と国光を見詰め返した。

「くにみ…」
「手塚がいいのか、不二。」

不二はひゅっと息を詰めた。

「そんなに手塚がいいか。」

思わず体が後ずさる。怯えを滲ませた不二の態度に国光の表情が変わった。荒い足取りで不二に近づくとその肩を掴んだ。ばらばらと芹が足元に散らばる。

「不二っ。」
「やだっ。」

咄嗟に不二は身をよじった。恐怖に心臓を鷲掴みにされ、体が本能的に国光から逃れようとする。国光の腕に力が込められた。

「離せ…」
「不二っ。」

不二は必死でもがく。だがどんなに暴れても国光の力は弛まない。

「嫌だっ。」

不二は腕を突っ張って抵抗した。国光が怖い。国光は簡単に不二を押さえ込んでくる。

「離せ…はな…」
「不二、おれはっ。」
「嫌だ、手塚ってづ…」

不二が手塚の名前を口にした瞬間、国光の体から殺気が迸った。ぐいっと顎をつかまれ仰のかされる。

「あ…」

眼前に漆黒の瞳があった。黒い炎が噴き上がっているようだ。不二はカタカタと体が震えるのを止めることができなかった。すさまじい怒気だ。

「手塚には渡さぬ。」

怒りに満ちた声が降ってきた。不二は震えたまま国光を見上げる。顎を掴んだ手に力が込められる。不二の顔が痛みに歪んだ。

「渡さぬ。」

次の瞬間、噛みつくように唇を塞がれた。

「んっ…」

国光は無理やり不二の歯列を割ると舌を差し込んでくる。

「…んんっ…うっ…」

息を塞がれ滅茶苦茶に舌をなぶられる。不二は必死で国光の肩に両手を突っ張った。

「むぅ…ぐっ…」

突然、唇が離れた。どん、と床に突き倒される。

「いたっ。」

床に転がされ不二は背中をしたたかに打った。国光はすっくと立って床に倒れた不二を見下ろしている。二人とも息が荒い。不二は顔を上げて国光を睨み上げた。射殺すような視線が返ってくる。国光は威圧的な声で一言宣言した。

「今後、この部屋を出ることまかりならぬ。」
「なっ…」

まるで家臣に命令するような口調に不二は目を見開いた。国光はくるっと踵を返すと部屋を出て行く。のろのろと体をおこし、不二は床に座り込んだ。

「…国光…」

呆然と国光の出て行った先を見詰める。ポケットからころん、と音をたて、土鈴が転がり落ちた。



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国光、タイミング悪いったら(って、オレが言うか、オレが)まだまだ続く、受難の日々…