翌日の着替えにやってきたのは秀次だった。昨日の言い合いを考えると、当然かもしれない。

[えっと…その…」

国光のことが気になって、しかし言葉にならないまま言いよどむ不二に、秀次はただ、困ったような笑顔で首を振った。不二の気持ちがずん、と沈み込む。昨日の今日で国光と顔を合わせるのは、自分の気持ちが定かでないだけに、どうにも気詰まりだ。どんな態度をとっていいのかわからない。しかし、避けられるとそれはそれでかなり堪えた。

「…ふ〜ん…」

不二はぼそりと呟きそのまま黙り込む。不二の心中を察したのか、秀次が明るい声を出した。

「今日はよい天気でござります。風も穏やかでござります故、浜に降りてみられませぬか。」
「え?浜へ?」

不二が顔をあげる。黄色地の直垂をひろげる手を止め、秀次はふと、よいことを思いついたとばかりに膝を打った。

「あぁ、浜で馬の稽古がようござりましょう。」

秀次はうんうんと一人、頷く。

「波打ち際に馬をすすめるのは楽しゅうござりまする。叔父殿にはそれがしがお願い申し上げましょう。」

確かに、ここ最近は館の敷地内から出ていない。海に帰る、などと変な誤解は解けたようだが、それでも忠興らが、不二が外へでるのをよしとしなかったのだ。だが、浜辺で馬の稽古というのは魅力的な提案だ。不二の目が輝いた。

「あ、それ、面白そう。」

秀次が満面の笑みで頷いた。なれば早速、といそいそ直垂を不二に着せかけているところに、ドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。

「御渡り様っ。」

部屋の外に平伏したのは忠興だった。その勢いに不二は目を丸くする。

「どうしたの、忠興…というか、部屋入ってよ。話せないじゃない。」

何かと不二をかまう忠興だが、けして礼を忘れない。不二が許可をしないと、自分から部屋へ入ろうとはしなかった。

「失礼つかまつりまする。」

平伏したまま忠興は部屋の中へ膝を進める。それから顔をあげ、黄色地の直垂を肩にかけた不二を仰ぎ見て破願した。

「おお、やはり御渡り様にようお似合いじゃ。」

にこにこと邪気のない笑みをこぼす。この直垂を見立てたのは忠興だ。忠興が喜ぶと不二も嬉しい。不二はこの武骨な男の笑顔が好きだった。

「忠興が選んでくれたものだからね。」

不二は笑いながら忠興の前にぺたんと座った。

「お日様みたいじゃのう、御渡り様は。先の望月の夜には、お月様に見えたものじゃが。」

手放しで忠興は不二を誉める。
そういえばはじめてこの直垂に袖を通した時も、忠興は手を打って喜んでくれた。たしか国光と出かけた満月の夜で…
不二の胸がツキンと痛む。ふっと目を伏せた不二には気づかず、忠興はそうじゃ、と叫んで至極真面目な顔になった。

「御渡り様、火急の用向きにてこれより殿と三浦の本家へ出向いて参りまする。なに、たいしたことではござりませぬが、ここより本家はちと遠うござりましてな、帰りは明日になろうかと存ずる次第。」
「えっ。」

不二は目を見開いた。国光だけでなく忠興も留守にするのか。しかも帰ってくるのは明日になるという。榎本の中心人物二人が館を空けるというのは初めてだ。

「…二人とも…?」

つい、不安げな声が出た。忠興が大きな手で不二の手をぽんぽんと包む。

「ご心配召されますな。殿にはこの忠興がついておる。大丈夫でござりますよ。」

国光の心配をしていると思ったらしい。不二は苦笑した。確かに国光や忠興も心配だ。だが、今の不二は自分が心細かったのだ。

僕って結構依存しまくってたんだ…

不二は忠興の直垂をきゅっと握ると、ほほえみかけた。

「忠興のことも心配してるよ。気をつけて…」
「なに、不埒な輩がおらば蹴散らしてくれましょうぞ。」

忠興はドンと胸を叩く。それからひどく優しい顔になった。

「たんと土産を買うて参りますからな。楽しみにしておられませよ。」

それから秀次に向き直ると、厳然と言い放った。

「よいか、秀次。くれぐれも粗相のないよう、御渡り様をお守り申し上げよ。わしがおらぬ間、弓や馬の稽古はまかりならん。しかと言いつけたぞ。」
「なっ。」

秀次が目に見えて色めき立った。

「叔父殿、それがしが御渡り様のお相手してはならぬわけがありましょうや。」
「ならぬと言うたらならぬわ。」
「そりゃあんまりじゃ。わけを聞かずば引けませぬ。」

武士としての矜持が傷ついたのだろう。礼儀正しい秀次にしては珍しく食い下がった。

「御渡り様の御身をお守り申し上げておるのはそれがしとて同じ。それをないがしろにされるとは、那須一門の名折れでござるっ。」
「ええ、若輩者が増長するでないわ、たわけ。」

忠興が一喝した。さすがに秀次は口をつぐむ。しかし、憤懣やるかたない表情だ。忠興はぎろりと秀次を睨め付けた後、不二に向き直ると目尻を下げた。

「よいですかな、御渡り様。忠興のおらぬ間に危ないことをなされてはなりませぬぞ。馬や弓などもってのほかじゃ。」

要するに、不二の稽古を仕切るのは忠興一人の特権だと言いたいらしい。不二はぷっと吹き出した。結局は子供の意地の張り合いとあまりかわらない。

「わかったよ、忠興。でも、散歩くらいはいいでしょう?秀次がちゃんと守ってくれるから安心だしね。」

そうでしょう?秀次、と念を押すと、秀次は誇らしげに胸をはった。忠興は秀次を怒鳴りつけた勢いはどこへやら、おろおろと不二の心配をはじめる。

「御渡り様にはお寂しゅうござりましょうが、くれぐれもお気をつけめされませよ。忠興がおらぬ間はあまり走り回ってはなりませぬぞ。転びますからな。土産をお持ちいたしまするゆえ、何がよろしゅうござりましょうな、よい子にしておられませ。めずらしきものをたんと買うてまいりまするぞ。」
「叔父殿、留守はたった一晩でござりましょうに。」

秀次に呆れた声でたしなめられても、郎党の一人が呼びに来るまで、忠興はあれこれ細かく不二の心配をしていた。




☆☆☆☆☆




国光と忠興の馬が門を出ていくのを庭から見送る。国光は出立する前、ちらと不二に目をやったが、何も言わずに馬主を巡らした。不二も声をかけなかった。いや、かけられなかった。ただ、馬上の忠興にお土産ね、と笑うのが精一杯だった。


二人の姿が見えなくなると、なんだか急に寂しくなった。館はいつもと同じように人々の喧噪があり馬や犬の声が響いているというのに、なぜかぽかっと穴が開いたような空虚さだ。そして不二は、それは単に自分の心持ちなのだということがわかっていた。

館の人々にとって、当主とその叔父がともに館を空けることなど珍しくない。小さな庄は当主自らが動かなければ立ちゆかないのだ。そして庄の人々は、己のなすべき日々の営みで手一杯だ。

毎日飯を食える生活、それを手に入れるのがいかに大変なことか、不二はここへきて初めて目の当たりにした。皆、朝早くから暗くなるまで働いている。そうしなければ飢えるのだ。衣食住の心配なくテニス三昧していた高校生の自分を、ひどく脆弱に感じた。

不二はここでは神様だ。皆が守ってくれる。ここでも衣食住の心配はない。だが、生きるための労働を目の前にして、不二は自分にできることをやりたいと思う。信仰で皆に力をあたえられるのならば、そうありたいと思う。不安げな様は見せられない。

だいたい、この依存心はなんだよ。

不二は己にカツを入れた。

「たった一晩だっていうのにさ。」

保護者が一晩いないだけでこの動揺ぶり。不二はここまで己の精神が弱いとは思わなかった。

情けない、不二周助、心の有り様まで人に頼ってどうする。

不二は空を仰いだ。春の青空にゆったりと雲が流れている。

よし、神様として、せいぜい二人の道中の無事を祈願してやろう。神事のまねごとも楽しいかもしれない。だがその前に…

「秀次ー、散歩に行くよー。」

こんなにいい天気なのだ。バタバタと駆けつける秀次の後ろには、スニーカーを載せた三方を捧げ持った若い郎党がやはり大急ぎで付き従っていた。





☆☆☆☆☆





「ん〜、気持ちいい〜。」

波打ち際で不二は思いきり深呼吸した。館の外へ出るのは一週間ぶりだろうか。午前の太陽に照らされた海はキラキラと波を光らせる。穏やかな海風が心地よかった。波打ち際を歩きながら、不二は後ろに従う秀次に声をかけた。

「今度は秀次の言うとおり、浜辺で馬の稽古してみるよ。なんか楽しそう。」
「御意。」

嬉しそうに秀次が頷いた。

「それがしが轡をとりまする。」

忠興に稽古をまかせてもらえなかったのがよほど悔しかったらしく、きっぱり言い切った。後に続く若い郎党二人が顔を見合わせ笑いをかみ殺す。忠興と秀次のこの手の諍いはいつものことなのだ。不二もくすくす笑いを漏らした。

「忠興が帰ってきたら頼んであげるよ。」

明日からの騒動を思うと楽しくなる。忠興が素直に頷くはずがない。あの強面は時折子供のようになる。

でも馬に跨ってるとやっぱり武士だったよな…

不二は出立する二人を思い返した。
体つきもごつい忠興はあし毛の背で、国光は栗毛の愛馬の背で、二人とも堂々とした武者ぶりだった。とくに、緑灰色の地に臙脂の縫い取りのある直垂を着た国光の若武者ぶりは颯爽としていて、不二はしばしその姿に見惚れた。同時に夕べ聞いた秀次の言葉が蘇り、胸の奥がずきりと痛む。

あの満月の夜も、三浦から帰ってきたんだった…

国光はひどく疲れていた。本家と渡り合ってきたのだろう、榎本を背負って、海千山千の連中とたった一人で対峙して、なのに不二を見ると嬉しそうに笑ったのだ。

どうしよう…

国光の気持ちを思うと不二は途方に暮れる。国光が己自身のためにはじめて手を伸ばしたのが不二なのだと秀次は言う。それは、人が神を求める気持ちではない。おそらくは不二が手塚を想うのと同じ想い、祠の前で国光が自分にしたことを考えればそのくらい不二にもわかる。

だけど僕は手塚が好きなんだ…

同じ顔をしていても、同じ声をしていても、榎本国光は手塚国光ではない。

だいたい、僕は自分の世界に帰りたいんだから…

不二は懐から携帯を取り出して眺めた。バッテリー残量は相変わらずフルだ。これがあるかぎり、不二はまだ元の世界と繋がっていると確信できる。帰れるのだと信じられる。不二は鎌倉時代の人間ではないのだ。いつか秀次や忠興とも別れて、八百年後の現代に帰る。国光とも別れて…

ずきん、と痛みが走った。胸の奥が締め付けられる。
不二は携帯を握りしめたまま遠くを仰ぎ見た。松林の向こうに海神の祠の屋根が見える。屋根飾りが陽の光を反射して白く光っていた。

白くまばゆい光。

え…?

不二の視界がくらりと揺れた。足下から地面が消えたような奇妙な浮遊感に襲われる。音が消える。海辺の風景が白い光に飲み込まれた。その光の先に何かが見える。ぼんやりとした姿がだんだんはっきりとしてきた。ふっと足下が安定する。突然視界が開け、不二はどこか病室のようなところにいた。目の前のベッドに誰かが寝ている。白いベッドの上、病院の薄青い患者服のようなものを着ている。

…国光っ。

眠っているのは国光だった。しかも腕に点滴の管をさしている。

…なんで?

何故国光は寝ているのだろう。彼は今、三浦の本家に馬で向かっているはずなのに。

不二は国光の側に行こうとした。だが、足が床に張り付いたようで動けない。誰かがベッドの側に座っている。不二は声をかけようとして息を飲んだ。

手塚のお母さん…?

座っているのは確かに手塚の母親だ。何故手塚のお母さんがこんなところにいるのだろう。不二の正面にあるドアが開く。入ってきた人物を見て不二は思わず声を上げた。

「大石っ。」

大石は目の前にいる不二に目を向けることなく国光のベッドに近寄った。手塚の母親となにか言葉をかわしている。だが、側にいるのに何を話しているのかさっぱり聞こえない。いや、国光ではない。ベッドで眠っているのは、点滴を受けて目を閉じているのは…

手塚っ。

不二は声にならない叫びをあげた。眠っているのは国光ではない。あれは手塚だ。

「手塚っ手塚っ、大石っ。」

不二は必死で呼んだ。しかし、大石も手塚の母親も全く不二に気づかない。大石が深刻な顔で手塚の顔をのぞき込んでいる。

「大石ってばっ。」

再びくらっと体が引っ張られるような感じに襲われた。まばゆい光に一瞬、目を閉じる。また目を開けると、今度は違う場所に立っていた。いやに殺風景な部屋だ。灰色の細長い机が中央におかれ、パイプ椅子が並んでいる。

どこ…?

不二はきょろきょろ辺りをみまわし、それから驚愕に目を見開いた。

「かあさん…」

目の前に家族がいる。母親が、姉が、泣きそうな顔をしてパイプ椅子に腰掛けている。裕太は途方に暮れた顔で母の横に立っていた。不二は急いで駆け寄ろうとする。しかし、また体が動かない。

「かあさんっ、姉さんっ、裕太っ。」

大声で呼びかける。

「かあさんっ。」

それなのに三人とも気がつかない。不二の声も姿も感じていないようだ。

「かあさんっ。」

突然、ドアが開いた。背広を着た大柄な男と警官が入ってくる。三人が立ち上がり、大柄な男と何か話している。母親と姉が顔を覆って泣き出した。

「かあさんっ、由美子姉さん、裕太っ。」

…御渡り様…

「ねぇ、聞こえないのっ。みんなっ。」

…御渡り様

遠くから声が聞こえる。

…御渡り様…御渡り様…
うるさいっ、誰だよ、呼ぶな。僕は…

「御渡り様っ。」

はっと不二は我に帰った。ざざぁっという波の音が突然耳に響いてくる。目を瞬かせ周りを見回すと、不二はもとの浜辺に立っていた。

今、何が起こった…?

不二は呆然とした。今見たのは確かに不二の世界、現代だ。自分は現代とつながったのか。その時、切羽詰まった声がした。

「御渡り様。」
「え…あ?」

振り向くと秀次が真っ青な顔をしていた。

「秀次?」
「お…御渡り様……」

秀次の後ろでは、従っている郎党二人が青ざめて震えている。困惑した不二は首をかしげた。

「えっと、僕、今どうしてたっけ…?」
「お…御渡り様の…」

秀次が絞り出すように言った。

「御渡り様のお体の向こうに…お…お体が透けて…ま…松林が見えましてござりまする…」
「…え…?」

突然、秀次ががばっとひれ伏した。衣服が波に濡れるのもかまわず、秀次は波打ち際に額をすりつける。二人の郎等も同じように平伏した。

「ちょっちょっと、濡れるよ。」

不二は慌てて秀次の肩に手をかけた。だが、秀次は平伏したまま顔をあげようとしない。

「お願いでござりますっ。」

悲愴な声だった。

「お願いでござりまする、ここに御留まりくだされませ。お帰りになってはなりませぬ。どうか、どうか、榎本に御留まりくだされませっ。」

「…僕の体が…?」

どういうことだ。体が透けていたというのか。

不二は愕然とした。確かに自分は今、手塚や大石、家族の側にいた。声や姿は見えなかったらしいが、もしかしたら帰れたかもしれないのか。元の世界に、八百年後の現代に。

「御渡り様っ。」

心ここにあらず、という表情を浮かべた不二の様子を察したのか、秀次が袴の裾をはしとつかんだ。不二はぎょっと足を引く。だが、秀次は裾をますます強く握りしめた。

「お帰りにならないでくだされませ。殿の、殿をおいてゆかれますな。お願いにござりますっ。殿を…」

最後は掠れて声にならなかった。ハッと不二は胸をつかれる。裾を握る秀次の手が震えていた。

「…秀次…」

不二は言葉がでない。自分は帰りたいのだ。秀次が呼ばなければ帰れたかもしれないのだ。だけど…

「秀次…」

不二はそっと震える秀次の手に触れた。びくりと秀次の肩が揺れ、くぐもった嗚咽のような声が漏れる。不二の中に泣きたいような、なんともいえない切なさがこみあげてきた。さするように秀次の指を裾からはずし、優しく握った。

「…帰ろうか…秀次…」

「……ははっ。」

秀次は掠れ声でなんとか返事をすると立ち上がった。足下がたよりない。

「…ご無礼つかまつりました…平に…ご容赦くだされませ…」

俯いたまま不二に一礼する。それからキッと顔をあげ、自分の後ろで顔色をなくしている郎等二人に向きなおった。

「こは他言無用である。」

眼光鋭く言い放った。

「違えたならばおれの一存で斬る。」

郎党達は力無くただ頷くばかりだ。青ざめているがきっと口を真一文字に引き結んだ秀次の後をよろよろとした足取りでついてきた。不二は黙って館へ歩く。驚愕と混乱で麻痺したように全身おぼつかなかった。


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うぉうっ、やっと話が転がり始めました。サクサクいってみよ〜。