「手を離せ、忠興。」
「なんの、こりゃ忠興が務めにござ候。」

馬の鼻先で大男が二人、もめていた。

「だいたい義秀殿、昼には和田の屋敷にゆかねばならぬと言うておったではないか。とっととお帰りなされ。」
「おうよ、帰るわ。その前に御渡り様の馬の轡をわしがとるんじゃ。」
「ええ、しつこいことよ。」

埒があかない。不二は勝手にぽこぽこ馬を進めた。

「ああっ、御渡り様っ。」
「おっお待ち下さりませっ。」

二人は栗毛の馬の尻に慌てて追いすがる。不二はかまわずぽこぽこ馬を歩かせた。

「この義秀が轡をっ。」
「いや、わしじゃっ。」

牽制しあうせいでなかなか轡に手がとどかず、お互い馬の尻の周りでわめきあう結果となっていた。見ていた郎党達が腹を抱えて笑う。可笑しくて不二も笑い声をあげた。母屋の廊下に国光が立っているのはわかっていたが、ムカついていたのでわざと無視した。





結局、もう帰らねばならぬのに、と泣きをいれた義秀に不二が絆されて、忠興が轡をとる権利を譲ったことで落ち着く。国光が帰宅を促しに来るまで、義秀は上機嫌で不二の馬の轡をとっていた。

厩から義秀の馬が引いてこられ、しぶしぶ義秀は不二を馬から下ろした。そして名残惜しそうにその手を取る。

「今日はお暇いたしまするが、なに、またすぐに参りまする。お寂しゅうございましょうが、御渡り様にはご健勝であらせられませ。」

不二はにこっと笑って義秀の手をきゅっと握った。

「気をつけて。また来てよね、義秀。」

不二の笑顔に義秀はでれっと口元を緩める。握られた手を両手でぶんぶんと振った。

「もちろんじゃ。またなんぞ美味しいものをお持ちいたしましょうぞ。」
「伯父上、おじじ様がお待ちになっておられる。はよう行かれよ。」

国光が苛立ったように義秀をせかした。その後ろでは忠興がぶすっと義秀を睨んでいる。

「やれやれ、身内のほうが厳しいわい。」

義秀はそれでも楽しげに笑い、さっと馬にまたがった。

「国光、婚儀をあげる前に一度鎌倉の屋敷へ来い。京よりよい女子が来ておる。宴をはろうぞ。お主が好むなら白拍子を呼んでもよいぞ。」

ふっと国光が眉をひそめた。だが、律儀に返事をする。

「そのうちに。」
「相変わらず堅物よのぅ。」

義秀は豪快に笑うと手綱を引いて馬首をめぐらせた。その姿は稀代の豪傑といわれるだけあって威風堂々としたものだ。

「御渡り様、失礼つかまつりまする。」
馬腹を蹴って義秀は駆け去った。颯爽とした後ろ姿に思わず不二は見ほれていた。それと同時に、一抹の寂しさも感じる。気分を変えたくて不二は秀次に振り向いた。

「秀次、なんだかお腹すいちゃった。昨日義秀が持ってきてくれたお菓子、頼めるかな。」

義秀は唐渡りの菓子だの京の甘味だのを一日では食べきれないほど持ってきてくれていた。

「お部屋へお持ちいたしまする。」

一礼して下がろうとする秀次の横では、忠興が真面目な顔で国光に話しかけている。

「殿、義秀殿の言うことはもっともじゃ。婚儀のなる前に鎌倉でおなごを抱いてこられよ。」

え?

不二は思わず国光の顔を見た。渋い顔をしている。秀次が慌てたように手をばたつかせたが、忠興は気がつかない。

「わしはのぅ、殿、三浦の息のかからぬ子がおった方が榎本のためじゃと思うておる。数日、和田の屋敷に逗留して抱きつくさば、婚儀のなる前に孕むおなごも一人や二人、おるじゃろう。」
「おっ叔父殿っ。」

秀次が必死で止めるが、間に合わなかった。

「なに、産まれた子は和田がしばらく面倒をみると言うておる。時期をみてひきとればよい。」

不二は国光をきっと睨んだ。国光は仏頂面のままだ。だが、困惑の色が微かに浮かんでいる。

「最低…」

不二は国光に向かって小さく呟いた。国光はふいっと目をそらすと、踵を返す。

「叔父貴、その話は後だ。」

ぶっきらぼうに言い、館の上がり口へ姿を消した。

「殿、真面目にお考えあれよ。」

忠興がその後を追う。

「サイッテー。」

不二は吐き捨てるようにもう一度呟いた。その横では秀次が一人、困り果てた顔を片手で覆っていた。





☆☆☆☆☆





国光が女を抱きたいと言ったわけではない。この時代なら当たり前の感覚だということもわかっている。しかし、やはりムカムカした。菓子と昼食を運んできた秀次がしばらくモゾモゾしていたが、むかっ腹が立ってたまらない不二は気づかない振りをした。


昼から不二は、いつものように忠興を相手に弓の稽古をした。チラチラと館のほうを伺ってみるが、国光の姿は見えない。

『鎌倉の屋敷に来い。京よりよいおなごが来ておる。』

義秀の声が脳裏に響く。ジリッと胃の辺りに焼け付くような痛みが走った。
まさか、国光は誘われるまま、女を抱きに鎌倉へ行ったのではないだろうか、そう思うと居ても立ってもいられない気分になる。冷静に考えれば、義秀が帰ったその日に、国光が鎌倉の和田の屋敷へいくはずはないのだが、不二の頭の中では義秀の言葉がぐるぐると回って離れなかった。忠興や秀次、いや、郎党の誰かにでも尋ねれば、国光の所在などすぐに知れるだろうが、それをするのは癪に触る。詫びぬと言われたからには、不二にも折れてやる気はさらさらなかった。

「くそっ。」

苛々はつのるばかり、不二は弓を思い切り引き絞った。

「くにみつめ〜っ。」

はったと的を睨み付け、ひょうっと放つと、矢は的の真ん中に勢いよく突きたった。

「お見事っ。」

無邪気に忠興が手を打っている。その暢気さが今は恨めしかった。






☆☆☆☆☆






「で、なんで君が来るのさっ。」
「着替えはおれがすると言ったはずだ。」
「何だよ、それっ、ってか、寝間着ぐらい一人で着られるよっ。」

湯を張った盥をはさんで、不二と国光はにらみ合っていた。その横では、秀次が為す術もなくおろおろしている。

「だいたいさ、夕食終わるまで顔も見せなかったくせ、お風呂の時だけやってくるってどういうことさ。」
「顔を見せてほしかったのか。」
「誰がそんなこと言ったっ。自惚れないでよっ。」

ぎっとまなじり吊り上げた不二はすさまじい迫力があった。しかし国光はまったく引くつもりがないらしくその場を動こうとしない。腕組みしたまま表情を動かしもしない男に不二はいらついた。

「着替えの時だけ顔出すのが変だって言ってるんだよ。どういうつもりっ。」
「不二こそ着替えにこだわっているではないか。それとも他の男から着替えさせてもらいたいのか。」
「なっ…」

人をなんだと思っているのだ、この男は。自分は女を抱く算段をしてもらっているくせに。
かぁーっと不二の頭に血がのぼった。

「僕を女の代わりにする気?迷惑だよ。」

さっと国光の顔色が変わった。だが不二も止まらない。

「女、抱きたいなら鎌倉へいけばいいだろうっ。」

国光の肩が揺れた。腕組みは解かれ、拳が握りしめられている。見たこともない国光の目の色にはっと不二は口をつぐんだ。怒りか、哀しみか、なんとも言い難い光を目に湛えたまま、国光はぐっと不二を見据えた。

「あ…」

だが、不二が何か言う前に国光は目を伏せた。ぐっと唇をかみしめると、そのまま部屋を出ていった。不二は呆然とその後ろ姿をみつめる。ひどく傷ついた背中だと思った。そして傷つけたのは自分だ。だけどどうして…


「わけわかんないよ…」


不二は誰にいうともなく呟く。


「…泣きたいのはこっちだよ…」


バカ国光…

ため息をこぼし、不二はのろのろと盥の側に歩み寄った。秀次が黙々と衝立を動かし、寝間着と手ぬぐいを塗り盆の上にそろえている。

「ありがと…」

不二の声に秀次は困り果てた顔でわずかに笑った。それから平伏したまま、縁の方へ下がろうとして動きを止めた。その場にじっとしている。

「…秀次?」

不二が怪訝そうに首をかしげた。秀次は何も言わない。じっと平伏したままだ。

「どうしたの?秀次…」

不二はぺたんと床に腰を下ろした。秀次が何を心配しているかはわかっている。榎本の守り神である自分と大事な主君の国光がもめている、それで心を痛めているのだ。今だって目の前でケンカした。不二は秀次のことを気の毒には思う。板挟みで苦労しているのだ。だからといって妥協してやる気はなかった。不二は盛大に息をつくと秀次の肩を二、三度軽く叩いた。

「ごめんね、秀次。でもさ、僕にも言い分、あるしさ。だいたい君の殿様って、勝手気儘すぎっていうか、あの気まぐれに僕、付き合う気ないから。」

そりゃさっきはちょっと言い過ぎたかな、とは思うけど…
不二が決まり悪げにごにょごにょ付け加えていると、秀次がさらに床にへばりついた。

「申し訳…ござりませぬ…」

不二は肩をすくめた。秀次が悪いわけではない。

「秀次、君が謝ること…」
「申し訳ござりませぬ。ただ、しばらく秀次が言にお耳をお貸し下さりますようお願い奉りまする。」

つぶれたカエルよろしく床に這いつくばったまま、秀次は声を絞り出した。緊張のせいか体がガチガチに強ばっている。不二はきょとんと目を瞬かせた。が、秀次の様子は尋常ではない。床に座り直すと、秀次の肩に手を置いた。

「き…聞くから、だから顔、あげてよ。それじゃ話、できないでしょう?」

不二に促され、ようやく秀次は顔をあげた。必死の面もちだ。体を起こし、しかし両手はまだ床についたまま、秀次は口を開いた。

「それがしは…あのような殿を見たことがござりませぬ。」

不二は思わず鼻で笑った。

「そりゃそーでしょ。あ〜んな我が儘勝手、フツーは…」
「そうではござりませぬ。そうでは…」

秀次は辛そうにうつむいた。

「御渡り様が榎本に渡らせ給い、殿はお変わりになられました。あのように楽しげに、闊達に笑う殿を某は知りませぬ。」
「…え?」

不二は目を見開いた。あの満月の夜以来、気まずいままだが、それまでの国光はよく笑っていなかったか。それこそ、何かある度に楽しそうに人をからかってきたではないか。それが、いつもはそうではないと言うのか。床に着いた手を握りこみ、秀次は一気に話し始めた。

「殿の元服前にお母上が亡くなられ、大殿も病に倒れられました。烏帽子親を買って出てきた本家の狙いが榎本の庄にあるのは明白、いくら和田の力添えがあるとはいえ、気をぬけば潰されまする。殿は榎本を守るためのみに力を尽くしてこられました。何もかも、殿の望まれることは全て榎本のためでござりました。その殿が…」

秀次の肩が震える。

「御渡り様の御前でのみ、殿は笑うのです。お母上様が生きておられた頃のように、子供の頃のように無心に笑うのでござります。ご無礼の段は重々承知しておりまする。あの月の夜に、殿が何ぞ不埒な振る舞いに及び、御渡り様のお怒りを買ったということも察しておりまする。」

うわ、気づいてたんだ。

不二は顔が熱くなるのを感じた。だが、不二の狼狽をよそに、秀次は再びがばりと平伏した。

「殿の振る舞いをどうかお許し下されませ。ただ、不敬を覚悟で申し上げまする。殿が、殿が初めて、殿自身のために望まれたのが御渡り様なのでござります。家のためでも、榎本の庄のためでもなく、初めて殿が手を伸ばされたのが恐れ多くも御渡り様だったのでござりまする…」

秀次はそのまま、お許しくだされませ、と繰り返した。不二は呆然としていた。言葉が出ない。告げられたことがあまりに意外で、かえって考えがまとまらない。ただ、ひたすら許しを乞う秀次の姿を可哀想だと思った。不二は平伏している秀次の手を取ると、体を起こしてやった。不安そうな目をする秀次にほほえみかけ、しかし何も言えず、不二は立ち上がる。

「お風呂、入るね。」

一言だけ告げると、秀次はさっと衝立を寄せ、自分は縁側に下がった。
いつものように湯をつかい、いつものように着替えをする。秀次の持ってきた白湯を飲み、夜着の支度を眺める。体だけが機械的に動いているような気分だった。板戸を閉めようとする秀次に、もう少し起きているから、と言ってさがらせ、不二は柱にもたれて座った。四月も半ばで、暖かい春の宵だった。頬をなでる夜風が湯を浴びた体に心地よい。夕方、空にかかっていた下弦の半月はもう沈んだのだろう、夜空には銀の砂粒をまいたような星が瞬いているばかりだ。

「…綺麗だなぁ。」

ぽつっと不二は独り言ちた。この世界にきて初めて見た夜空を思い出す。銀の煌めきが海になだれ落ちていた。違う世界なのだと絶望した自分を温かい手が支えていてくれた。心細くて泣きたい夜に、優しく髪を梳いてくれた手、頬を撫でる大きな手、国光の手…

『大丈夫だ、不二…』

胸が締め付けられる。いつも大丈夫だと、心配ないと自分を抱き寄せてくれていた国光。なのに自分は、榎本の全てを背負って、何よりも榎本を優先して、あらゆる敵と対峙して…

「国光…」

涙が溢れてきた。

「バカだ、君は…」

初めて自分のために欲しがった物が僕だなんて、本当に大馬鹿だ。涙がとまらない。

「馬鹿だなぁ、国光…」

何故ここまで胸が痛むのか、その理由がただ国光への同情なのか何なのかよくわからないまま、不二はいつまでも夜空を見上げていた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

秀次君、すっぱぬき編。乳兄弟の秀次、なんだかんだいっても国光のこと、よく見てます。さ〜、油断せずに行こーっ。