その夜は腹が立って腹が立って不二はよく眠れなかった。国光が部屋へ帰った後とんできた秀次がなにか言いたげにしていたが、黙って夜着の支度をし、控えの部屋へ下がった。

なんで僕が責められるんだよっ。

むかつきながら不二は真綿をつめた夜着にもぐりこむ。

悪さをしかけてきたのは国光だ。突然、襲いかかってきて変なところを触って…

「なーにが、おれは詫びぬ、だよ。」

まるで子供が我をはるような言い方だった。

「榎本の長たるものが情けないんだ、くそったれっ。」

廊下に突っ立って自分を睨み付けてきた国光の姿を思いだし、不二は悪態をついた。

明日から無視だ、無視っ、徹底的に無視してやるっ。

不二はごそごそと寝返りを打った。このままでは腹が立って眠れない。他のことを考えよう。

母さん…

心配しているだろう、泣いてないだろうか。姉さんや裕太はどうしているだろう、父さん、びっくりして日本に帰ってきたかもしれない…

「あ、ヤバ、涙でそう…」

不二は慌ててもっと気楽なことを考えようとした。

テニスのこと、青学のこと、友達のこと、
そういえば、春休みが終わったら越前達が入学してくる。あのマイペースな越前が今じゃ青学中等部のテニス部部長なのだから世の中わからない。冬休みに会ったとき、手塚に聞こえないよう越前が愚痴ったことがあった。

『不二先輩、オレ、部長に合わす顔、ないっす。柱、見つからないんスよ、青学の柱っ、どうすりゃいいですかね…』

その時の越前の顔ったら。

不二は夜着の中でぷぷっと笑った。

あんな情けない顔をした越前はみたことがない。あれで結構情に篤いのだ。手塚が寄ってきたら大慌てで口止めしてきた。相変わらず手塚は仏頂面で…

手塚…

手塚の顔を思い浮かべようとした。青学のレギュラージャージをきた手塚、テニスボールを追うときの厳しい顔、学生服姿の手塚、桜並木の先で振り返る手塚、呼びかけると手塚の目元が和らいで…

『不二』

低く響く手塚の声。

『不二』

手塚が手をさしのべる…

『不二…』

たくましい腕に抱き寄せられる、手塚の匂い…

『不二…』




えっ。

不二はばちっと目を開けた。頭で描いていた手塚はいつの間にかメガネをはずして直垂を着ている。

うっうそっ。

手塚の姿は榎本国光に変わっていた。抱き寄せられた腕の感触も匂いも、榎本国光のものだ。不二は焦った。だが、一度よみがえった国光の感触は治まらない。直垂ごしにかんじる鍛えられた胸板、自分の体にふれる無骨な指、素肌を這う国光の手、そして唇が不二のものを包み…

かぁ〜っと熱が下半身に集まった。

どっどうしようっ。

国光の裸体が目の前にちらつく。満月の青白い光に浮かんだそれは、たくましく美しかった。その体が覆い被さってきたのだ。
波の音、潮の香り、生温かい国光の舌の感触。

ヤバイ…

こっちへ来て以来、あまりに色々なことがありすぎて処理することなんか忘れていた。しかし、不二とて健康な十七歳の男子だ。

ダメだ、ダメ、隣の部屋には秀次がいるんだ…

必死で不二は押さえようとするが、いったん熱をもった下腹部は収まりがつかない。しかも、国光に触られた感触が生々しく蘇ってしまった。

「くそっ。」

不二は小さく呻いた。一応紙は常備してある。こうなったらとっとと処理して紙は明日の朝、トイレに捨てよう。そう決めて不二はそろそろと手を下半身にのばし目を閉じる。浮かんでくるのは熱っぽい国光の眼差し、耳元へかかる吐息。

「……くっ…」

疼く自身に手を添え、本格的にやろうかとしたその時、がたん、と大きな物音がした。びくっと不二は身を竦める。目を開けて音のしたほうを伺うと、秀次が声をしのばせ、誰かを叱責していた。

「たわけっ、居眠りとは何事ぞっ。音なぞたてて、御渡り様のお目が覚めたらどうするっ。」

どうやら控えの郎党の一人が居眠りをして戸にぶちあたったらしい。

びっびっくりした。

不二はほっと力を抜いた。幸か不幸か、今のショックで息子はすっかり萎えている。ごそごそと不二は夜着をかぶりなおした。

「寝よ…」

ため息をついて再び目を閉じる。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えたくなかった。




☆☆☆☆☆




目覚めは最悪だった。眠りは浅く、色々な夢を見てぐったり疲れた。極彩色の中で手塚だの国光だの青学の仲間だの秀次達だのがグルグル回っていたような気がする。

「う〜、トイレ…」

不二はごそごそ夜着から這いだした。起きた気配に気づかないのか、秀次はまだ顔を出さない。寝間着のまま不二は板戸をガラリと開けた。



目の前には黒塗りに金銀蒔絵の物体。

不二はその物体ごしに遠くを見やる。

今日もいい天気だ、空が青い…

ずいっと金銀蒔絵が迫ってきた。

えっと、たしかこれって遠山蒔絵、とかいうんだよね。姉さんが無理矢理みせてくれたもんなぁ…


「御渡り様にはご機嫌うるわしゅうっ。」

蒔絵がしゃべったよ…

「今日こそはこれをお使いくだされませっ。」
「これまで便所であそばされておったとは、おいたわしゅうござる。忠興めが今まで何をやっておったやらっ。」
「ええいっ、義秀のうるさいわっ。」


廊下には忠興と義秀がおまるを捧げ持って控えていた。いかつい大男が二人、並んでいると通り抜けるのもままならない。
不二は半眼のままじっと見下ろしていたが、ふいっと踵を返して部屋へ戻った。

「おっ御渡り様っ。」
「ああっ、お待ち下されませ。これをお使いあそばされよっ。」

慌てて腰を浮かせた二人の前に,不二はまたスタスタと戻ってきた。すっとなにやら差し出す。

「これ、あげる。」

ミルクキャンディだった。義秀と忠興はとりあえずおまるを脇に置き、畏まって受け取った。不二はにっこり笑う。

「食べて。」

二人の鎌倉武者はおっかなびっくり艶のある包み紙を眺めていたが、不二が包み紙を指で開いて中身を指し示すと、おそるおそる口に入れた。不二が笑みを深くする。

はらり…

包み紙が床に舞い落ちた。へたっと腰が抜けたように座り込んだ大男の間をすり抜け、不二は廊下に出た。ちら、と振り返ると目が宙をさまよったまま二人は呆けている。

「しばらくそうしていてね。」

効果絶大、くすっと不二は笑いをもらすと、そのままトイレに駆け込んだ。




トイレから戻っても、忠興と義秀はまだ廊下に座り込んでいた。丁度朝の膳を運ばせてきた秀次が、床に落ちた包み紙を見て納得したように口元をあげた。不二も笑いをかみ殺しながら部屋へ入る。

「お二人ともしばらくは大人しゅうしておられますでしょう。」

秀次がこっそり囁いてきて、二人、くつくつと笑い合った。



朝食が終わる頃、不二は秀次に着替えを頼んだ。忠興と義秀はおまるをあきらめ、引き下がった。こころなしか足下がふらついていた。

やっぱ楽しい反応するよ〜。

食後の白湯を飲みながら不二は一人で思い出し笑いをする。

これで国光だったらどうするかなぁ…

そう考えて、すぐにぶんぶんと首を振った。

無視だ無視、僕は許してないんだから、無視っ。

だいたい、不埒な振る舞いを詫びるどころか不二が悪いと言い放つなど、言語道断もいいところだ。夕べの会話を思い出すとまた腹が立ってきた。

「まったく何様だよ、あ、殿様か。」

一人でオヤジなボケと突っ込みを呟いて、それからずん、と気分が重くなった。

その国光で自分は夕べ、何をしようとした…


「最悪…」


不二はまた首を振る。
夕べ自分はどうかしていたのだ。手塚の声が聞きたかった。国光ではなく手塚の声が。不二は脇に置いていた携帯をとりあげ、留守録のボタンを押す。

『不二、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日。』

手塚…

不二はリピートボタンを押した。

『不二、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日。』

もう一度押す。

『不二、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日。』

不二の手の中に残された唯一の手塚。

『…また明日。』

「不二」

突然、手塚に呼ばれて不二は飛び上がった。

「なっなっなっ…」
「何だ。」

見上げると、ぶすっと不機嫌きわまりない顔の国光が直垂を抱えて立っていた。国光は眉間に皺を寄せながらずかずかと部屋に入ってくる。不二は焦った。昨日の今日で何のつもりなのだろう。なかばパニックを起こしながらも不二は国光を睨み付けた。

「なっ何の用っ。」
「着替えだ。」

ぶっきらぼうに答えた国光は、不二の傍らに膝をついて直垂や小袖を広げる。

「着替えって…」

国光は黙ったままぽかんとする不二の寝間着に手をかけた。

「わーーっ、なっ何すんだーーっ。」

不二は慌てて寝間着の合わせ目を押さえると後ろへずり下がる。国光がいっそうしかめっ面になった。

「不二が着替えたいと言ったのだ。」
「いっいいよっ、秀次にやってもらうからっ。」

国光の目が剣呑に光った。

「おれがやる。」

じろっと睨まれ不二は一瞬ひるんだが、ここで負けてはいられない。

「いいからっ、秀次を呼んでよ、秀次を…」

不二は最後まで文句を言うことができなかった。秀次の名を連呼したとき、一瞬、国光がひどく傷ついたような表情を浮かべたのだ。
国光は不二から視線をはずすと、小袖を手に取った。それから黙ってもう一度不二の寝間着に手をかける。不二は動けなかった。黙々と国光は不二を着替えさせる。そして終わると黙ったまま部屋を出ていこうとした。

「あ…くにみ…」

不二は思わずその背中に呼びかけた。国光がぴたっと足を止める。それからぼそっと呟くように言った。

「着替えはおれがやる。」

そして振り返りもせず、部屋を出ていった。後には白地に金糸銀糸の縫い取りも美しい直垂を着せられた不二が残される。思考はすっかり停止状態だ。

「あ…あの…御渡り様…」

秀次が恐る恐る戸口から顔を出した。その声にハタと不二は我に帰る。秀次を見ると、恐縮しまくった顔で不二を伺っていた。不二は目を瞬かせ、それからだんだんとはっきりしてきた頭で今のことを反芻する。ふるふると拳が震えた。

「なんなんだよ、あれーーっ。」

絶叫する不二の前で、秀次はただただ平伏していた。

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意地っ張り国光。でも一番気の毒なのは秀次君かもしれない。全ての八つ当たりは秀次君へ…不憫です