館へ戻った不二は部屋の円座に座り込んだ。。秀次が側を離れたがらなかったが、大丈夫だからと下がらせる。体が緊張で強ばっていた。
何がおこったんだ…
手塚が眠っていた。病院のベッドのようだった。心配そうな手塚のお母さんと大石。それに、自分の家族がいたあの殺風景な部屋は何だろう。見たこともない部屋だった。
「かあさん…泣いてた…」
不二は小さく呟いた。警官がいたということは、あそこは警察署の一室なのかもしれない。自分が行方知れずになってるからなんだろうか。そうなのだろう。だって自分はこんなところにいるのだから。
帰りたい。あのまま帰れたらよかった。そうしたらもう悩まなくてもいい…
『殿をおいてゆかれますな。』
秀次の声が身を貫く。
『御渡り様の御前でのみ、殿は笑うのです。』
聞きたくない。そんなこと、自分には関係ない。
『たんと土産を買うてまいりますからな。楽しみにしておられませよ。』
だめだよ、忠興。僕は帰るんだ…
不二は両手できつく自分を抱きしめた。身のうちを焼かれるような痛みが走る。所詮は国光も忠興も鎌倉人、不二とは世界が違うのだ。
『不二。』
国光の強い瞳が胸に蘇る。意志の強い、美しい黒曜石。
「違う、僕が好きなのは手塚国光だ。」
不二は必死で手塚を思い浮かべようとした。コートの中の手塚、テニスラケットを握り試合に挑む手塚、桜並木の下で振り向いた手塚。手塚も国光と同じように、意志の強い美しい黒い目をしていて…
『大丈夫だ、不二。』
山桜の下で、満月の浜辺で、自分を見つめる熱を孕んだ強い眼差し。
「違うっ。」
不二の目から涙が一筋、頬を伝った。苦しい。胸がはりさけそうだ。
「…帰りたい…」
何かに訴えるよう、不二は虚空に向かって呟く。
「…帰りたいんだ…僕は…」
不二の呟きに答えるものはない。部屋の板敷きに春の日差しが優しい光を投げかけている。
「帰るんだ…」
何も考えたくない。ただ、自分の世界に帰ることだけを思っていたい。不二は膝に顔を埋めた。
その時だった。館の入り口の方から大声で秀次を呼ぶ声がした。どたどたと足音が近づいてくる。
「何事ぞ、騒がしいっ。」
控えの部屋から秀次の一喝がとび、不二は驚いて顔を上げた。どうやら秀次は心配して控えの部屋に詰めていたらしい。
「那須殿、大変でござります。」
秀次を呼びに来た郎党の声が慌てている。
「小和賀の御当主が、小和賀雅兼様がお見えになられました。」
「なに、小和賀の御当主が?」
「おっ御渡り様にお目通り願いたいとの仰せで。」
控えの部屋の会話が聞こえてくる。自分の名が出たことに不二は疎ましさを感じた。今は誰にも会いたくない。見知らぬ来訪者相手に神様ごっこをやる気分には到底なれなかった。
「とにかく、客間にお通しせよ。くれぐれも粗相のないよう、丁重にもてなせ。おれもすぐに行く。」
ばたばたと部屋を出ていく郎党の足音とともに、不二の部屋の前に秀次が現れた。廊下でがばりと平伏する。
「イヤだよ。」
秀次が口を開く前に不二はぴしゃりと言った。
「誰にも会いたくない。一人にしてくれないかな。」
「御渡り様…」
秀次が困り果てた顔を上げた。
「お気持ちは重々承知しておりまする。なれど、その…小和賀様は…榎本にとって大事の客でござりまして…」
不二に遠慮しつつも秀次の様子に焦りがにじむ。不二は不機嫌な声で答えた。
「誰?その何とかって人。」
秀次があまりに困った顔をしているので、不二も話を聞く気になったのだ。はっ、と秀次が礼を返して説明をはじめた。
「小和賀が当主、小和賀雅兼様とは、三浦党の重鎮にして学問の道でも名高きお方でござります。和歌や連歌もよくなされ、鎌倉殿の覚えも目出度きとか。お母上様が京の公家の出であられ、なんでも藤原の御血筋らしゅうござりますが、雅兼様ご自身も朝廷の方々と親交を結び、鎌倉殿と朝廷のよき仲介役であると聞き及んでおりまする。」
「…ふーん…」
不二は気のない返事をした。三浦の重鎮だの公家の血筋だの、自分には関係ない。だが、秀次は目をきらきらさせて説明を続けた。
「文武に優れるとは小和賀様のことかと存じまする。かといって、けして我らを見下すようなことはなく、殿のご婚儀を調えられし折りには、親しくお声をかけてくだされました。」
国光の婚儀を進めているヤツってことじゃない…
不二の胸がずしっと重くなる。ますます気鬱になり、不二は黙ってあらぬ方に目をやった。秀次はやっと、自分の対応のまずさに気がついた。少し調子にのってしゃべりすぎたらしい。うろたえながらも秀次は何とか言葉を絞り出した。
「おっ御渡り様、ほんの一刻でよろしゅうござりまするから、目通りお許しくだされませ。小和賀様ほどの御方をないがしろにするわけには参りませぬ。」
額を床にこすりつけ、秀次は不二に懇願した。そっぽを向いていた不二だったが、流石にこれにはまいった。ふぅっとため息を一つつくと、いささか投げやりにうなずく。
「いいよ、会うよ。でも、あんまり長い時間はイヤだから。」
「はっははっ。」
はじかれるように身を起こした秀次は、大急ぎで客間へ走っていく。不二はその姿にため息をついた。本当は今、誰にも会いたくない。胸がざわめいて、自分でもどうしていいのかわからないのだ。だが、秀次が困るのも嫌だった。どんなときでも、彼は一生懸命きづかってくれる。
せめて今は神様でいなきゃ…
今だけは家族や友達や、手塚のことを忘れて、榎本の神様にならなければいけない。不二は目を閉じ息を整えると、小和賀なにがしの来室を待った。
☆☆☆☆☆
不二の部屋は日当たりのいい南向きの角にある。広い板の間の部屋を廊下が取り巻く形の造りで、不二の部屋は南側と東側に廊下があった。東側の廊下にたつと、館の広い庭と門が見え、その先に浜へ続く松林が見渡せる。昼は板戸を開け放してあるので、不二が座っている畳からも外の風景がよく見えた。
とんとん、と複数の足音がして、南側の廊下に秀次が平伏した。丁度不二の正面下座にあたる。秀次は、不二の座る畳に近い東側の廊下から声をかけるのが常だったので、南側に平伏されるとひどく遠くに感じる。
「御渡り様、小和賀が庄の当主、小和賀雅兼様にござります。」
秀次はそう言い終わると、膝でにじって脇に体を寄せ、再び平伏した。一人の男が板戸の影から姿を現す。すでに座してこうべをたれており、膝でいざって正面まで移動すると、深くひれ伏した。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げ奉る。」
よく通る落ち着いた声音だ。
「某、三浦ノ党にて佐原にえにしを持ちまする、小和賀が庄当主、小和賀雅兼と申します。」
「顔、上げていいよ。」
不二はいささか投げやりにそう言った。ここでは神様の不二が顔をあげていいと言うまでは、皆ひれ伏したままなのだ。
「ははっ。」
そういって面をあげた男は、年の頃三十三、四。切れ長な目元の涼しい美丈夫だった。
不二は意外な面もちで雅兼を眺めた。ここへ来て以来、あまりみかけないタイプだ。どこにでもある灰緑色の直垂を着ているのに、すっきりとあか抜けている。鎌倉の文化人として将軍の側にあるというのは、事実なのだろう。かといって弱々しさは微塵もなく、着物の上からでも鍛えられた体躯だということがわかる。板東武者の豪放さと洗練された知性を併せ持つ男だった。
へぇ、かっこいいんだ。
秀次が憧れるのも無理はない。不二は先ほどの秀次の興奮ぶりに納得がいった。その雅兼は、面をあげた状態でじっと不二を見つめている。
「…何?」
不二が首を傾げると、どこか呆然としたていで雅兼が呟いた。
「なんと…かくもお美しいお方がおはしますとは…」
それから雅兼ははっと我に帰ったように赤面した。
「ごっご無礼つかまつりました。」
もう一度、廊下にひれ伏す。訳がわからず、不二は秀次に目をやると、秀次までなにやら赤くなっている。
本人が自覚していないだけなのだが、落ち込んでいる不二の物憂げな様はそれはたおやかだった。白い肌と色の薄い髪や目の色にくわえ、すらりとした肢体は鎌倉人の持ち得ぬものだ。そのままでも人に美しいと思わせるに十分な不二が、けぶるような瞳に憂いを湛えて見つめてくれば、この世のものならぬ尊き身が降臨したのだと感じ入るのも無理はない。案の定、雅兼は平伏したままぴくとも動かなかった。
だが、そんなこととは露とも知らない不二は、首を捻りながら声をかけた。悪い感じの男ではないが、今は知らない人間と言葉を交わす気分ではない。さっさと義務を果たしてしまいたいのだ。
「いいよ、顔あげて中へ入って。そうでないと話せないでしょう?」
「はっ、もったいなきお言葉、いたみいりまする。」
感極まった声で答えた雅兼は、平伏したまま部屋へにじり入った。
「小和賀様、どうぞそのまま、御前にお進み下され。」
後ろから秀次が声をかけた。そして雅兼に続いて部屋へ入り、脇に控える。不二の部屋は広い。雅兼は一度立ち上がると、不二の正面近くまで進み出て再び平伏した。
「はじめまして。小和賀さん、でいいのかな。」
不二はにっこりしてやった。少し話をして喜ばせて、さっさと帰ってもらおう。そうでないと、自分の心が持ちそうにない。一人で気を静めたかった。
「畏れおおきこと、雅兼とお呼び下されませ。」
雅兼は顔を上げた。興奮のため、頬がわずかに上気している。近くで見ると、目に力のあるいい男だ。不二は微笑んだ。
「今日は国光も忠興もいないんだ。今朝、出かけちゃって。」
「はっ、それがしも聞き及んでおりまする。三浦の本家にて、祝いの宴につかれるため先にご出立なされた由。」
雅兼の答えに不二は眉をひそめた。
祝いの宴とは何だろう。まさか、もう結婚式とか。
胸がざわめいた。そんな話は聞いていない。自分に一言もなく、国光は結婚するのだろうか。ずきん、と走った痛みに、不二は顔をゆがめた。だが、雅兼の口から出た言葉は、思いも寄らないものだった。
「御渡り様が本家へ渡らせ給うとのこと、一族、喜びにたえませぬ。ましてこの雅兼、御渡り様を本家までお送り申し上げる大任の栄に浴し、感に堪えませぬ。小和賀の誉れと存じ奉り候。」
「…え?」
今、この男はなんと言った。自分が本家へ行く?三浦に自分を連れて行くと言ったのか?
不二は呆然と目の前の男を見つめた。雅兼は喜びも露わに祝いの言葉をつづっていく。
「榎本殿は本家にて御渡り様をお待ち申し上げるとか。三浦は少し遠うござりますゆえ、すぐの御出立がよいかと存じ上げ奉る。」
不二は言葉が出なかった。頭の中は真っ白だ。この館を、国光の側を離れるなど、考えたこともなかった。
国光…
その男は今、ここにはいない。いつも全身で不二を守ろうとする、漆黒の瞳の男。不二はただ、何も言えずに身を強ばらせるばかりだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
不二君、またまたピ〜ンチ。国光のいない間に連れ去られるんでしょうかねぇ。後半、サクサクいけ〜っ。
あ、ところで、本気にしてる人はだ〜れもいないでしょけど、小和賀雅兼なんて嘘八百ですからっ。ざんねーんっ(って、一人でギター侍やってんじゃねぇ、オレ)