「おお、そうじゃそうじゃ、上手でござりますぞ。」
野太い声が館の敷地内に響く。忠興だ。上機嫌で馬の轡をとっている。
「御渡り様はまっこと筋がよい。これならばすぐに駆けさせることもできましょうよ。」
不二は館の庭で馬に乗る稽古をつけてもらっていた。庭といっても何が植えてあるわけでなし、だたっぴろい広場のようなものである。初心者の稽古には十分な広さだった。
不二はおっかなびっくり馬の背にまたがっている。青学のジャージ姿だ。別に馬の稽古だからジャージにしたのではない。国光と気まずくなってから不二はほとんどジャージのままでいた。直垂を着せてもらうのは好きだが、ややこしくて一人では着られないのだ。秀次はもちろん、忠興も着替えを手伝うと申し出ていたが、なんとなく気がのらずジャージにしていた。
不二はもう五日間、国光と口をきいていなかった。いや、ほとんど顔をあわせていない。国光は徹底して不二を避けていた。
夜の浜辺に出た翌朝の、忠興達がおこした騒動の時にすら、国光は姿を見せなかった。不二の世話一切は秀次が取り仕切っている。日課になった弓の稽古の時にちらっと見かけることはあるが、不二が国光に気づくとふいっと身を翻して姿を消した。
こうなると不二も意地である。館内を歩き回り郎党や下人達に声をかけたり、庭で忠興相手に武芸を教えてもらったりと、派手に動き回る。そして五日目の今日、思い立って馬の稽古を頼んだのだ。秀次は危ないから、と渋ったが、忠興は快諾した。このところ、国光が不二に関わらないせいで忠興の独断場となり、上機嫌だった。
鎌倉時代の馬は、不二が見慣れたアラブ種の馬よりも背が低く、ずんぐりむっくりしている。が、やはり馬は馬だ。背に上ると結構な高さがあった。しかもグラグラ揺れる。不二は馬の背でカチコチになっていた。
「怖がってはなりませんぞ。馬はよう人の気持ちがわかりまする。」
「そそそそんなこといったってっ。」
忠興はにこにこ相好を崩したまま轡を引いた。必死で手綱を握りしめている不二が可愛くてたまらない、といった風情だ。案の定そこかしこに集まって眺めていた郎等達から野次がとんだ。
「叔父貴殿ーっ、にやけて馬に蹴られても知らんぞぉーっ。」
「真面目にお教えなされよー。」
「ええっ、うぬら、見物する暇があれば働かぬかーーっ。」
忠興が一喝するが、郎等達は楽しげに笑うばかりで動く気配はない。皆、御渡り様の姿を見られるのが嬉しいのだ。
「うわうわ、忠興、歩くと揺れる〜っ。」
「そりゃあ馬でござりますからなぁ。」
かっかっと笑いながら、忠興はゆっくりと馬を歩かせた。必死で不二はバランスをとる。よくも皆、軽々と馬を走らせることができるものだと不二は改めて武士達の技量に感心していた。
国光なんか、僕を抱えて手綱は片手でさばいていたっけ。
ふと、不二は国光に抱えられて馬に乗っていた時のことを思い出した。五日前までは、暇さえあれば国光は不二を前に抱き込んで馬を駆けさせていたのだ。浜辺だのでこぼこの山道だのを全力疾走させたときは、お尻が痛くてたまらなかったが、こうやって自分で手綱を持ってみると国光のやったことは神業にも思える。自分を抱き込む国光の腕の感触がよみがえり、不二の胸がずきんと痛んだ。
国光…
「それでは御渡り様、少し早く歩いてみますぞ。手綱をお放しめさるなよ。」
かっぽかっぽと馬は軽快に足を速める。
「わわわわっ。」
不二は物思いから我に帰った。あれこれ余計な事を思い煩う余裕などなくなる。
「うわわっ、忠興〜っ。」
それからしばらくは、不二は馬に集中せざるをえなくなっていた。
不二のお尻が痛くなってきた頃、やっと忠興が轡を放し、なんとか一人でカポカポ歩けるようになった。と、館の縁側から声がかかる。
「また忠興めが御渡り様を独り占めしておるわ。」
朝比奈義秀が腰に手をあて豪快に笑っている。
「義秀。」
不二は驚いて目をみはった。
「来てたんだ、義秀。」
不二は嬉しそうに笑いかけ、それからはっとした。義秀の横には秀次と、それから国光がいた。国光は相変わらずの仏頂面で、不二の心臓がどきんと飛び跳ねる。黒い瞳がまっすぐに不二を見つめていた。
「御渡り様、馬の稽古でござりましたか。」
朝比奈義秀は縁から降りると履き物もはかず、素足で不二に近づいてきた。
「あ、うん、でもお尻が痛くなってきたから、もう降りるよ。」
忠興が手を伸ばす前に、義秀がひょいと不二を馬から抱き下ろす。案の定、忠興は義秀にかみついた。
「こっこりゃ何するぞっ。不敬であろう。」
「喚くな忠興。こうせずばどうやって御渡り様を馬から降ろせるのじゃ。」
義秀はふん、と鼻で笑うと不二の両手をぽんぽんとさすった。
「御渡り様、今日はこの義秀がよいものをお持ちいたしましたぞ。」
ちろっと忠興を横目で見て、義秀は勝ち誇ったような顔をした。
「甘い菓子じゃ。塩羊羹ではのうて、ちゃんと甘うござりまする。」
いかめしいひげ面をくしゃっと崩し義秀は笑った。
「たんと召し上がられませよ。」
「ええ、この義秀めが、図々しきこと甚だしっ。」
忠興は不二の両手を握ったままの義秀の手をはたいた。相変わらずの子供っぽいケンカに不二は思わず笑いを漏らす。その時、縁の上に立っていた国光が口を開いた。
「伯父上、それがしは部屋へ下がります故、用向きのあらば秀次を。」
不二が顔を上げると、国光はふっと目をそらしそのまま踵をかえす。
「とっ殿っ。」
秀次が慌てたように後をおう。不二は知らず、唇を噛んだ。
なんだよ…
涙が出そうになる。それがまた癪で、きゅっと口元を引き結んだ。
なんだよ、自分が悪いくせに…
「なんじゃあ、国光、愛想のない。」
義秀が国光の背にむかってドラ声をあげた。
「国光、わしぁ今夜、泊まってゆくからの。久しぶりに飲もうぞ。」
国光は肩越しにちらと後ろを見やった。
「膳をととのえさせまする。」
そしてそのまま歩み去る。不二はじっとその後ろ姿を眺めた。
「御渡り様。」
義秀に握られていた手をぽんぽんと叩かれ、不二は目を瞬かせた。無骨な大男が優しい目で不二を見ている。
「菓子を食べましょうぞ。馬の稽古でお疲れじゃろう、のう。」
義秀の横では忠興が困ったような顔でやはり優しく不二を見ていた。不二は微笑みかえす。
「…そうだね…うん、一緒に食べよう。」
気をとりなおして不二は義秀に手をひかれ、上がり口に向かう。
バカ国光、絶対口なんかきいてやるもんかっ。
胸の痛みとともにむかっ腹も立ってきて、不二はエイヤッ、と気合いを入れた。
☆☆☆☆☆☆
奇妙な宴会になった。
上座正面に敷かれた畳には当然ながら不二が座り、一段下がった床の上、不二の右隣に当主国光が、向かい合わせに義秀が座った。国光の横には秀次が控え、義秀の横には忠興が陣取っている。
内輪の食事なので部屋の中にはこの五人だけである。手酌で酒をあおりながら、義秀と忠興は武芸の腕自慢を競い合っている。不二はにこにこ笑いながら二人の話に相づちをうったり、たまに質問して喜ばせたりしていた。ただし、ちら、とも国光のほうをみない。国光は国光で、むっつり黙り込んだまま酒をあおっていた。
「でのう、御渡り様、わしがそこで大音声あげるや蜘蛛の子散らすように逃げ去りおって。」
「そりゃ義秀殿、おぬしが破鐘のごとき声に耳がつぶれたのじゃろ。」
義秀の武勇談にすかさず忠興が茶々を入れる。不二は声をあげて笑った。国光がぐいっと杯をあおる。
「殿、少し食べられねば。酒だけではお体に障りまする。」
横に座る秀次が小声でたしなめるが、国光は不機嫌な表情のままそれを無視した。その時、すっかり出来上がった義秀が酒で赤らんだ顔をずいっと国光に向けた。
「国光、何を辛気くさい酒飲んどる。わしの話を聞いておらなんだかぁ。」
国光は眉間に皺を寄せたまま、またぐいっと杯をあおった。
「伯父上の話に聞き惚れておりました。」
とりつくしまもない。義秀が渋い顔をした。
義秀も忠興も単純明快、直情豪快な板東武者だが、馬鹿ではない。理由はともかく、不二と国光が気まずくなっていることくらいわかっている。だが、仲をとりもとうと義秀が居座って設けた宴会でも、まったく歩み寄る気配はなかった。
ふっと義秀が悪戯をおもいついたような顔になる。酒くさい息をわざと国光のほうへ吐きながらにぃ〜っと口元を上げた。
「そうじゃ、明日は相撲をしてみましょうぞ、御渡様も御一緒に、のう、忠興。」
酒の杯をもったままポカンとした忠興もハタと何かに気づいたように同調する。
「おぉ、おぉ、よきかな。御渡り様はお体を動かされるのがお好きじゃ。無聊も慰められましょうよ。」
訝しげに国光が顔を上げた。それに義秀はからからと笑ってみせる。
「国光、お主も御渡り様と相撲がとりたいか。」
貝の汁を吸っていた不二がぐっとむせた。国光が眉を寄せる。
「ちょっちょっと、義秀っ。やだよ僕。」
不二はなるべく国光に顔を向けないように言った。
「僕なんかが相撲とったら、ふっとばされちゃうじゃない。」
義秀は豪快に杯をあおりながら不二のほうへ身をのりだした。
「ご心配めさるな。この義秀がついておりまする。国光なぞ一ひねりじゃ。」
「こりゃ義秀殿っ、御渡り様と一緒に殿をねじ伏せるはこの儂であろうに。」
真っ赤な顔で忠興が吠えた。
「おぬしが何の助けになろうぞ、忠興。この義秀こそが御渡り様をお助けするのじゃ。」
不二がぷーっと吹き出した。
「何それ、義秀も忠興も、僕と組むの?二対一じゃ相撲にならないよ。」
義秀が膝をバシンと打って国光の方へ顔をつきだした。
「そうじゃ、二対一の相撲でよいのじゃあ。国光、御渡り様に指一本触れさせぬゆえ覚悟せい。」
国光の目が剣呑な光を宿した。ちらとそれを横目で見た義秀は、しかし全く気にしない。大仰な仕草で今度は秀次に体を向けた。
「秀次、ぬしが国光に味方せい。ならば二対二じゃ。」
それを受けて忠興が杯をつきだした。
「ただし、我らが国光を負かすまで、大事に御渡り様の御手を取って脇に控えておれよ。」
いきなり矛先が向いて、秀次はぎょっと体を揺らした。
「そっ某がでござりまするか。」
律儀に返事をした秀次は次の瞬間、それを心の底から後悔した。にやにや笑って義秀が言ったのだ。
「おぬし、御渡り様の白き御手が好きじゃと、そう忠興に言うたそうではないか。」
「なっ…そっそれはっ…」
秀次は目に見えてうろたえた。国光がじろっと秀次を睨む。
「あっ、いやっ、そっそれがしはっ。」
秀次は真っ青になった。射殺しそうな国光の視線にたじろいで、尻が円座からずり落ちている。
「恥じることはないぞ、秀次。御渡り様の御手は清らかであられるからのぅ。」
ありがたや、と忠興が不二を伏し拝む。義秀もそれにならって伏拝みはじめた。真っ赤な顔の酔っぱらいが神妙な顔で伏し拝む向かいで、秀次は赤くなったり青くなったりといそがしい。
あああ〜、間抜けで楽しい図かもっ。
不二はげらげら笑い出した。義秀も楽しげに大きなからだを揺する。
「御渡り様、お笑いになるとは酷うござりまするぞぉ。」
そうして義秀と忠興は、不二の手のすばらしさについてとうとうとと語り合いはじめた。合いの手で同意を求められる秀次は身の置き所なく縮こまっている。
「そんなに秀次をいじめたら可哀想だよ。じゃあ義秀、忠興、僕の手、褒めてくれたからお礼にお酒、注いであげる。」
ひとしきり笑った不二は義秀の徳利を取ると二人を手招いた。
「おおぅ、光栄至極に存じまするーっ。」
義秀と忠興は不二の正面に陣取り、酒を注いでもらってはありがたや、ありがたやと唱えている。国光が乱暴に酒の徳利をつかんだ。酒を杯に注ぎぐっと飲み干す。義秀と忠興はますます盛り上がり、国光は一人黙ってぐいぐいと酒を呷った。そして秀次はひたすら冷や汗を流していた。
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秀次君、受難。そして仲違いは続く…お酒は二十歳になってから飲みましょうね、国光v