翌朝、泣きはらした目でぼうっとしていると、秀次が水の入った盥と手ぬぐいを持って入ってきた。

「御前失礼つかまつりまする。」

相変わらず律儀に平伏して、秀次は不二の前に盥を置いた。

「・・・国光は?」

不二よりも早く起きる国光は、大抵衣服を改めた後、朝一番に盥を持った郎党をつれて顔を出す。だが、今朝は秀次だけがやってきた。夕べの態度から、なんとなく国光は来ないだろうとわかってはいたが、実際にやられると腹が立つ。不二がむっつり尋ねると秀次が恐縮した。

「今日は多忙ゆえそれがしがお側にて御仕え申し上げよとの仰せにござりますれば・・・」
「・・・ふ〜ん、多忙ね〜。」

もごもごと口ごもる秀次を不二は一瞥すると、後は黙ってばしゃばしゃ顔を洗った。手ぬぐいを受け取りながらぼそっと呟く。

「ウソばっか。」
がばりっ、と秀次が床に額をすりつける。その慌てぶりに不二は苦笑した。

「ごめん、秀次が悪いんじゃないから。」

それから、いつも部屋に用意されている紙を数枚握って立ち上がった。秀次があとに続こうとするのを、トイレだよ、と断ってぱたぱたと廊下に出る。数人の郎党が廊下の脇に控えており、がばっと平伏した。

「?」

そのまま不二はトイレへ続く廊下を歩いた。すると、廊下のあちこち、庭先でも郎党達が平伏している。なんだか今日は人が多いな、と首をひねりつつ、不二はトイレに入った。
毎日のことだけにトイレに入るたび、元の世界が恋しくなる。

鎌倉時代のトイレって、心にもお尻にも負担が大きいよ・・・

日本のトイレが水洗化され便座に「お尻洗い」までくっついてきたのはここ十数年のことなのだが、その十数年しか生きていない現代っ子にはやはり鎌倉時代のトイレと紙は辛かった。

だからって「おまる」は絶対イヤだし。

金銀蒔絵の特注おまるが届いて以来、忠興達の「おまる攻勢」は日々激しさを増していた。「便所ではのうてこれをお使いくだされ。」と毎朝飽きもせずやってくる。

あれ?

そこでハタと不二は思い至った。

今日は忠興、まだおまる持ってこないな…

そういえば夕べ随分取り乱して泣いていた。泣きすぎて朝寝坊でもしたのだろうか。
首を捻りながら不二はトイレから出た。ざざっと音を立ててトイレの前に居並ぶ郎等達がひれ伏す。

何これ…

さすがに驚いた不二はぽかんとその場に立ちつくした。人が多いのではなく、これはまるで…

「…あのさ…」

一番近くにひれ伏している郎党に向かって不二が口を開こうとしたとき、秀次が手ぬぐいを捧げて進み出てきた。

「御渡り様、これを。」
「あ…」

不二はつくばいで手を洗いながら秀次に囁いた。

「秀次、何か、監視されてる気分なんだけど、これって国光?」

秀次は両手をぶんぶんと振る。

「めっめっそうもござりませぬ、けっして殿はかような仕儀は…」
「ふ〜ん、やっぱ監視なんだ。」
「いっいえっ、けしてっ。」

慌てる秀次を横目で睨むと、不二は足音も荒く部屋へ向かった。足を縺れさせるように秀次が後を追ってくる。そして部屋へ入った不二は、また目を剥いた。

「なっ何これーっ。」

部屋の中にはすでに朝食が運ばれていた。だが、その朝食が昨日までとは段違いだ。

塗りの膳が三つも並んでいる。中身は地鶏の白焼きに姫サザエとトコブシの煮物、結び昆布に烏賊、山芋の蒸し椀、タケノコと山菜の炊き合わせ、鹿肉、地魚の焼き物数種類、小豆入り玄米ご飯、そういったものが盛りつけてあった。三つの膳以外に、野菜のたっぷり入った羮椀と折敷きの上には干した柿とクルミまである。そして料理の横にドンとおかれた白磁の徳利。

朝っぱらから酒だよ…

宴会でも始まりそうな朝食に不二が思考を停止していると、後ろから秀次が恐る恐る声をかけてきた。

「お…おそれながら…」

はっと我に帰った不二は、もう一度目の前の宴会料理を眺める。フツフツと怒りがわいてきた。国光が夕べのことをどう思っているのかは知らないが、いやらしいにもほどがある。自分では何も言わず、郎党どもを監視よろしく周りに配し、朝食はやたらと豪華、これで何が伝わるというのだ。こんなセコイ男だとは思わなかった。不二は声を荒げた。

「秀次っ、下げてよ、こんなものっ。国光がどういうつもりか知らないけどねっ、だいたい…」
「殿ではござりませぬっ。」

秀次が足下にひれ伏した。

「殿は、殿はこのことをご存じありませぬ、これらの手配はすべて…」
「すべて誰?」

秀次の体がびくっ強ばった。不二は無機質な声で再度尋ねる。

「誰さ、こんな馬鹿げたこと命じたの。」

がばりと秀次は、顔だけあげて必死で訴えた。

「悪意あってのことではございませぬ。御渡り様を大事に思うがあまりのこと、忠興様は…」
「忠興?」

不二は首をかしげた。これらのことは国光の命ではなく、忠興のしたことだというのか。だがいったい何故。

「忠興が?」
「さ…左様で…」

温度のない不二の声に身の置き所なく秀次が縮こまった。

ぷちっと不二の中の何かが切れる。国光とのことで気分は最悪、トイレはゆっくり出来ないし、あちこちに畏まる郎等達の視線は鬱陶しい。そして今度は忠興。

「忠興ーーーーっ。」

廊下に向かって不二は大音声を上げる。どうせ近くに控えてこっちの様子をうかがっているに違いないのだ。

「たーだーおーきーーっ、ただおきっ、」

案の定、どたばたと慌てた足音がして、忠興が飛んできた。

「忠興っ。」
「ははっ、御前にっ。」

仁王立ちの不二の前に忠興は大きな体をひれ伏させる。忠興の後ろには、呼んでもいないのにわらわらと郎党どもがついてきて同じように平伏した。不二はきっとまなじりをつり上げて忠興を睨んだ。

「忠興っ、これどういうことか説明してくれるんだろうねっ。いきなり監視してみたりこんなご飯もってきたりっ。」
「かっ監視など、滅相もございませぬ。」

忠興がひげ面を青くして見上げてきた。だが、キレた不二は聞く耳もたない。

「監視でしょうっ。朝っぱらからトイレの前まで、あれが監視じゃなくなんだって言うのっ。」
「御渡り様が海へ帰られると…」

見上げた男の目から大粒の涙がぼろっと零れた。

「海へ帰られると仰せじゃから…」

ぽろぽろと涙をこぼして忠興は泣き始めた。後ろに控えた郎等達からも嗚咽やすすり泣きの声が起こる。おいおい泣き出す侍の一団を目の前にして、不二はあっけにとられた。それはそうだ、筋骨たくましい無骨な男どもがこうもあけっぴろげに泣くなど、不二の時代ではあまり見られない光景だ。

「…えっと…」

すっかり毒気を抜かれ、うろたえる不二の足下で忠興がすすり上げながら言った。

「儂は嫌じゃ、御渡り様がおらねば榎本はさみしゅうなる、ここにおって下され。帰るなど仰せらるるな。」

子供のような物言いをする。困り果てた不二が脇に控える秀次を見ると、やはり困り顔で不二を見返した。

「秀次…これって…」
「その…夕べ御渡り様が海で泳ぎたかったと仰せになられたので…」
「………え?」

確かに、袴をはいていない言い訳に海で泳ぎたかったと言った覚えがある。その後なんだか大騒ぎが起こったのだ。国光までいきなり帰るのか、とかなんとか変な事を聞いてきて…

「もしかして、僕が海に帰るって勘違いしたわけ?」
「左様かと存じまする。」

秀次がわずかに苦笑した。不二はがくっと脱力する。そういえば、夕べは国光のことで頭が一杯で他に気が回らなかった。秀次を連れて部屋へ帰ろうとした自分の後ろで、やはり忠興達が泣いていたような気がする。

「で、いなくなるのが心配で側にいて、引き留めるためご馳走用意したってわけか…」
「お…おそらくは…」

秀次が恐縮する。不二ははぁっとため息をついた。
なんという思考の飛躍、そしてこの短絡的な行動、おいおい泣いている忠興や郎等達の背中を眺めて、不二はなんだかなぁ、と呟いた。と同時に、気持ちがひどく穏やかになってくる。床に額をこすりつけて泣いている忠興の前に膝をつくと、不二はその背中をぽんぽんと叩いた。忠興がぐしょぐしょの顔を上げる。

「ありがと、忠興、皆も…」

不二は笑った。

「大丈夫だよ。僕、帰ったりしないから。」
「ほっ本当にござりまするか…?」

不二は手に持っていた手ぬぐいを忠興に差し出すと、こくりと頷いた。

「ここにいるよ。でも…」

ぎくっとまた体を強ばらせる忠興に肩をすくめてみせる。

「僕、あんまり御利益とかないんだけど、それでもいいかな。」

目を大きく見開いていた鎌倉武士は、すぐに相好を崩した。

「御渡り様はおってくださればよいのじゃ。」

のう、そうじゃろう、と後ろを振り返る忠興に、郎等達もそうじゃそうじゃと声を上げた。顔は涙でくしゃくしゃのくせに、もう笑いが起こっている。

今泣いたカラスがもう笑うってやつ…

不二は心底、この人々を好きだと思った。それから、ふと思いついて白磁の徳利と塗りの杯に手を伸ばす。

「じゃあさ、どこにもいかないってことで、このお酒、皆にあげる。朝だけど少しだからいいでしょ。」

わいわいと郎等達は嬉しそうに酒を飲み回した。それから安心したように退出していく。

「忠興と秀次は一緒にご飯食べよう。僕一人じゃ食べきれないからね。」

ただし地鶏と鹿肉はキープ、と案外せこい膳の配分をやった後、不二は恐縮する二人を促して朝食にした。

朝からまったく…

しかしこの大騒ぎのおかげで気分は浮上している。そして、これだけの大騒ぎがあったにもかかわらず、ちらとも顔をみせない国光にムカつきを新たにする。

夕べ何であんなことしたのか、納得するまで許してやらないんだからねっ。

地鶏を噛みきりながら心の中で怒りの拳を握ってみるが、胸にトゲが刺さったような感覚は消えない。苛立ちがつのるばかりで、不二は自分でも国光の何に腹を立てているのかよくわからなかった。


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ま、嵐の前の静けさってことで。さあて、いよいよ後半突入でがんばろう。っつーか、がんばれ、国光。不二とこのままじゃいちゃいちゃ出来ないぞ。裏なのにさ(ヲイ)