不二は走った。必死で走って、館の上がり口に飛び込むと、そこにいた郎党達がぎょっとする。

「おっ御渡り様っ。」

不二はへたっ、とその場に座り込んだ。

「こはいかにっ。」

不二の様子に驚いた郎党達は、神様にうかつに触れるわけにもいかず右往左往している。そこへ、板張りの廊下をどすどすと鳴らして、忠興と秀次が飛んできた。

「御渡り様っ、いかがなされましたっ。」
「こはいかなることぞっ。」

郎党達や二人の驚きの視線が自分の下半身に注がれているのに不二はやっと気づいた。

「・・・あっ。」

不二は慌てて直垂の前を押さえた。直垂の長い裾のおかげで、ふんどしと大事な部分は隠れていたが、すらっとした足がむき出しだ。忠興の顔が強張った。

「御渡り様・・・」
「あっ、いや、これはっ。」
「殿はっ、殿はいずくに・・・何がありましたのかっ。」

その殿が不埒な行為に及んだんです、と言うわけにもいかず、不二は焦った。

「そのお姿はっ。」
「あの、あの僕、その・・・」

言葉に詰まって咄嗟に叫んだ。

「僕、泳ごうと思ってっ。」
「夜の海で・・・でござりますか・・・」

秀次が確かめるように言った。不二はぎくっとなる。こればっかりは誤魔化しとおさなければ。不二はこくこく頷いた。

「そう、そうなんだけど、急に泳ぎたくなったっていうか、夜の海ってすごく綺麗で、それでねっ、」
「殿は何と・・・」
「あ・・・国光・・は・・・僕の袴持っててくれて・・・」

なにか見透かすような秀次に不二はますます焦る。だが、最後まで言い訳する必要はなかった。突然がばりっ、と忠興が土間に伏したのだ。

「御渡り様、海へ帰られると仰せられますや〜っ。」
「へ?」

不二がきょとんとした。

「・・・海へ帰る?」
「なにとぞ、なにとぞ、御留まりくだされよ、海へ帰るなどと仰せになられますな〜っ。」

忠興は号泣せんばかりに声を震わせ額を土間に擦り付けた。他の郎党達も真っ青になる。次々と土間にひれ伏し、不二に懇願しはじめた。

「御渡り様、お願いにござりまするーっ。」
「榎本へ御留まりくだされませーっ。」
「御渡り様ーっ。」

泣き出すものまでいる。ただ一人、秀次だけが難しい顔をしたまま戸口に目をやっていた。

「あの、だから、海へって・・・あのねぇ・・・」

混乱する忠興達に不二があわあわしていると、戸口に国光が現れた。不二の袴を手に握っている。不二の心臓がどきん、と鳴った。国光は不機嫌丸出しの顔つきだ。ちら、と不二を見て、ムッとした顔のままぷいと横を向く。

ななななに、あの態度ーーーっ。

悪いことを仕掛けてきたのは国光だろうに、まるでこっちが悪いとでも言いたげな態度だ。むかっ腹のたった不二はギッと国光をにらみつけた。国光は知らん顔だ。そこへ、忠興が転がるように詰め寄った。

「殿っ、今まで何をしておられたのじゃっ。この一大事にっ。」

血相をかえた忠興に国光が眉を顰めた。

「なんだ、叔父貴。」
「御渡り様が海へ帰ると仰せなのじゃーーっ。」

さすがに国光の顔色も変わった。ずかずかと不二の前までやってくる。眉を寄せたままじっと不二を見てくるので、負けじと不二も睨み返した。

「帰るのか。」

ぽつっと国光が言った。相変わらずの仏頂面だ。

「かっ帰らないけど・・・」

ムスッと不二が答える。

帰れるのならとっくに帰ってるよ、

そう言いたかったが、周りが悲嘆にくれているので不二は黙っていた。

「・・・そうか。」

国光は不二の袴を投げてよこすと、ふいっとまた横を向いた。

「叔父貴、帰らんとの仰せだ。」

そのまま国光は土間から上へあがり、不二には目をやらず秀次に声をかけた。

「今夜はお前が御渡り様の側へ控えていよ。」
「殿・・・」

困り顔の秀次に国光はぼそっと言い足す。

「おれはやることが多い。御渡り様を御寝所へお連れ申せ。」

うっわ、そうきたか〜〜〜っ。

不二はカッと頭に血が上った。暗がりを怖がった最初の夜以来、国光は不二の寝所で隣に夜着を敷き、一緒に休んでいたのだ。それを、今夜は秀次に控えていろという。

あんなことしておいてーーっ。

あんな行為に及んだからこそ一緒の寝所はマズイのだ、というふうには頭は回らなかった。国光の態度は不二にはただのあてつけにしか思えない。

「あ〜っそ。いいよ、僕もその方がいいかもーっ。」

すくっと立ち上がり不二は足を袴に突っ込んだ。不二の言葉に国光がまたムッとしたようだった。じろっと睨んでくるのを不二も睨み返す。袴の紐を結んでいないので手で押さえたまま、足音高く廊下に上がった不二は、秀次ににっこり笑って見せた。

「行こう、秀次。あ、それから着替えを頼めるかな。」

汚れちゃったからねーっ、と国光を横目で睨むと、国光は口をへの字に曲げたままぷいっと踵を返して行ってしまった。不二もむぅっと口元を曲げて、自分の寝所へドタドタと向かった。腹が立って腹が立ってしかたがなかった。秀次が慌てて後を追う。土間には忠興以下、まだパニック状態の郎党達が取り残されていたが、カッカきている不二の頭からそのことはすっぽり抜け落ちていた。




☆☆☆☆☆☆




まさか秀次を横に寝かせるわけにも行かず、灯りをつけたままにしてもらって不二は寝所で一人になった。板戸を隔てた隣の小部屋に秀次は控えている。夜着にくるまって不二は横になった。

一人になってぎゅっと目をつぶると、ぐるぐる頭の中にいろいろなことが浮かんできて渦を巻き始める。

圧し掛かってきたときの国光の顔、掴まれた腕の痛み、丸い月、波の音、体を弄ってくる手の感触・・・

ぶるっと体を震わせて不二は夜着の中で丸まった。なんだか、頭の芯がしびれたように麻痺している。

国光の顔、手塚の顔、どれがどれなのか判然としない。不二はテニスウェア姿の手塚を思い出そうとしたが、いつの間にかその姿は直垂に太刀を佩いた国光に変わってしまう。不二はごろりと寝返りを打った。手塚を思い出そうとする。桜の中で佇んでいた手塚、だが、黒い学生服の手塚はいつの間にか山道の先で自分を見つめる国光の姿になり、湯浴みをしたあと、髪をおろして立つ国光の姿に変わった。月明かりを受けて立つ国光、青白く染まった世界、じっと自分を見つめる国光・・・

不二は目を開けた。シンとしている。遠くに海鳴り、ゆらゆらとひょうそくの炎がゆらめいていた。隣には誰もいない。

いつもなら・・・

不二はぽっかりとした板の間を眺める。いつもなら不二が目を開けると、横に国光の寝顔があった。畳を敷けばいいのに、床に一枚夜着をしいて国光は不二の隣で眠っていた。端正な横顔を眺めていると、気持ちが落ち着いた。たまに、眠れないまま夜中に不二が見つめていると、国光も必ず目を開けた。目を覚ました国光はいつも微かに笑って言う。

眠れぬのか、不二・・・

そして不二の手を握るとそのまま目を閉じて眠る。はじめは手を握られてびっくりした不二だったが、国光の手が温かくていつもすぐに眠くなった。国光の手は温かい。温かい手が不二の髪を梳く。不二の手を握る。不二を抱き寄せる。いつも不二を安心させる国光の手、それなのに・・・

不二は夜着を握る手に力を込めた。同じ国光の手が不二の体を弄り、人に触らせたことのない部分にまで触れてきた。

なんで・・・

涙が出てきた。胸が痛くて、どうしようもなく胸が締め付けられて涙がこぼれた。

国光の馬鹿っ。

夜着の中で不二は声を殺してただ泣いた。



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久しぶりの更新が短くてすまねぇっ。すぐに続きを〜。のまえにお礼ssだってばよ。