国光が帰ってきたのは、もうとっぷりと日の暮れた時間だった。

とっくに夕食を食べ終わってい不二は実は少し拗ねていた。いつもなら午後、国光は必ず不二を馬に乗せて外へ連れ出してくれる。それなのに今日は一日中ほったらかしだ。だから駄々の一つも捏ねてみようかと不二は国光の帰りを待っていた。


馬の嘶きと郎党どもの騒ぐ声で国光の帰宅は知れた。秀次や忠興と何やら話す声が足音とともに近くなってくる。文句の二つや三つ言ってやろう、そう意気込んでいた不二は、国光の声にほっと力が抜けるのを感じた。いくら皆が大事にしてくれても、国光がいないと自分はどうも落ち着けないらしい。


手塚と同じ声だからかなぁ、声聞いただけで安心するなんて…


それがなんだか癪に触って、やっぱり文句をいってやろうと不二は口元を引き締めた。足音がすぐそこに聞こえ、国光が部屋に入ってきた。

「国光、遅か…」

最後まで言う事が出来なかった。ハッと不二は息を飲む。国光はひどく疲れた顔をしていた。身に纏う空気もどことなく強ばっている。

「…国光…?」

憔悴した顔で、それでも不二を見て国光は目元を和らげた。

「すまぬ、遅くなった。すぐに湯あみの支度をさせよう。」

秀次に合図するのを不二は慌てて止めた。

「あ、いいっ、今日はいいから、秀次も行かなくていいから。」

バタバタ手を振ると秀次が困ったように立ち止まった。国光がどかりと不二の側に腰をおろす。

「どうした。不二は湯あみを楽しみにしているではないか。」

怪訝な顔をする国光を不二はじっと見つめた。どうしたのだろう、いつも生気に溢れている国光に力がない。国光の手に不二は思わず手を重ねた。

「いいんだってば。今日は汗、かいてないし。」
「弓矢の稽古で不二は汗だくだったぞ?」
「う…」

不二は言葉に詰った。確かに国光のいうとおり、午前中汗まみれになったのだ。昼食前に湿ったテニスウェアを脱ぎ、今はジャ−ジ一枚だった。だが、不二は疲れを滲ませている国光に余計な手間をかけさせたくない。困った不二は無意識に国光の手をぎゅっと握りしめた。

「ははぁ。」

突然、国光がからかうような笑みを浮かべた。

「さては不二、おれがいなくて寂しかったか。それで拗ねたのだな。」
「ばっ…」

馬ッ鹿じゃないのっ、と叫ぼうとして、しかし言葉にならず不二は口をぱくぱくさせる。確かにさっきまで拗ねていたので否定はできない。国光は不二の手を握り返し、自分の方へ引き寄せた。

「うわっ。」

不二はバランスを崩して、国光の膝にもたれかかる格好になる。

「ならば詫びだ。今宵は不二の背中を流してやろう。そうだな、おれも汗をかいた。一緒に湯あみをするか。」

不二は茹蛸のように赤くなった。
寺で風呂を使って以来、国光は毎晩、不二のために湯を沸かしてくれていた。はじめは体を拭くだけだったが、二、三日していきなり大きな盥がやってきた。秀次に聞くと、国光が急かして作らせたのだとか。
部屋に盥を据えて湯を張った。小さいながら、立派なお風呂だ。湯を張った後の世話は国光だった。といっても、人払いをして廊下に控えるだけなのだが。
見ないでよ、と不二が念おしして、笑いながら国光が庭の方を向くのが毎晩のことだった。男同士なのにと思いはするが、どうも国光相手だと気恥ずかしい。それが一緒に風呂などと。
あ〜、う〜、と赤い顔のまま焦る不二に国光は肩を揺らした。

「いや、すまぬ。戯れ言が過ぎたか。」

くつくつ笑いながら国光は不二の体を起してやる。不二は少しほっとした。秀次に指示しようとする国光の手を再度握り、引っ張った。

「…不二?」
「だって国光、疲れてるじゃない。」

国光が驚いたように目を見開いた。不二は俯き加減に言う。

「疲れてるんでしょう?だったら国光、自分のことやって。ちゃんとご飯食べてさ、休まなきゃ。」

僕のことはいいから、と不二が笑うと、国光がなんとも言えない顔をした。しばらく不二を見つめていたが、その肩をポンポンと叩き
柔らかい目をした。

「不二が湯を使った後、おれも汗を流したい。だから気にするな。」

察した秀次がスッと退出した。湯の用意をさせるのだ。

「…国光…」
「だが、おぬしの湯をおれが使うと皆に恨まれるな。」

まぁ、たまにはいいか、とひとりごちる国光に不二は首を傾げた。

「なんで君が恨まれるわけ?…ってか、君、僕の残り湯、使う気だったの?それって汚いでしょっ。」

焦りはじめた不二を国光は面白そうに見た。

「なんだ、不二は知らなんだか。おぬしが湯を使ったあとはな、浄めの湯だと皆、ありがたがって使うておるぞ。一晩に五人と言うておったか、順番を決めてな。」
「なっ。」

不二は卒倒しそうになった。

自分の入った残り湯が浄めの湯?いや、浄めって汚いだろう、絶対汚い、それがなんで浄め…

目眩がした。どうりで盥を下げる時、何やら大事そうに運んでいたはずだ。本当に鎌倉人、あなどりがたし、である。

がくっと脱力しているところに、件の盥が運ばれてきた。心なしか湯を運ぶ郎党達の目が輝いている。おそらく今日「浄めの湯」を使う順番が回ってきた者達なのだろう。そこへ国光が声をかけた。

「今日は湯を下げるにおよばぬぞ。御渡り様の後、おれが使う。」
「なんと〜〜っ。」

悲鳴に近い声があがった。じろりと国光に睨まれ、郎党達はしおしおと引き下がる。その打ち萎れように不二は複雑な気分だった。

「…僕の残り湯なんて、捨てればいいのに…」
「御渡り様だからな。」

国光は廊下に出ると外の方を向いて座った。いつものことながら盥は衝立で四方を囲われている。その影で服を脱いでいると、ぼつりと国光が言った。

「よい月の夜だ。」

衝立の間から国光を見ると、廊下の柱にもたれて国光は空を見上げている。

国光…?

青白い月に照らされた国光は静かだった。不思議と胸が掻き乱され、慌てて不二は目をそらした。湯に入ってもなかなか治まらない動悸に不二は途方に暮れていた。





☆☆☆☆☆☆





「ちょちょちょちょっとっ。」
「なんだ?」

不二の目の前で国光はするりと直垂を脱ぎ捨てた。

「こっここで脱ぐわけっ?」
「脱がねば湯を使えまい。」

下に着ている単衣の着物を脱ぐと、褌ひとつだ。だが、躊躇いなく国光はその姿になった。

「わぁっ。」

叫んではみたものの、引き締まった逞しい体躯に不二は目をそらせなくなる。
刀剣や馬で鍛えられた体はスポーツで鍛えられた体とはまったく違った。武骨で力強く、そこへ当時の褌、つまり首から紐で吊るしたような褌をしているものだから、見ようによっては裸体にサロンエプロンだ。

つまり「裸エプロン」状態の国光に不二の目は釘付けになっていた。ただ、裸エプロン状態とはいえそこに猥雑な感じは微塵もなく、鍛え上げた体に男性的な色気が漂う。思わず不二はその体に見愡れた。

「どうした?不二。」

ぼんやり見つめていたらしい、声をかけられ不二はハタと我に帰った。国光と目があう。

「わ〜〜〜〜っ。」

今度こそ不二は真っ赤になって廊下に飛び出した。柱の影に縮こまる。心臓が爆発しそうだ。

「おかしなやつだ。」

国光が苦笑するのがわかった。うろたえた不二は言い返すことなどできない。国光の湯を使う音を聞きながら、不二はドギマギ騒ぐ胸を押さえた。

落ち着け、落ち着け僕、落ち着くんだ不二周助っ。

夜風が火照った頬をなでる。座り込んだ不二はぎゅっと胸の前で手を握る。

手塚と全然違う体だった…

部室で着替えるので手塚の上半身は見慣れたものだった。合宿の風呂で全裸だってみたことがある。片思いの相手の裸体にドキドキしたが、今ほどの衝撃は受けなかった。

国光は全然違う…

手塚と国光が全く違う事がショックだったのか、単に国光の裸体の色気に衝撃を受けたのか、不二は自分の混乱の理由が全くわからなかった。






しばらくすると、衣擦れの音がして国光が湯から上がったのがわかった。不二の座る縁側とは違う方向からザバリと湯を庭に流す音がする。あの大きな盥の湯を一人で抱えて捨てるのだから、とんでもない膂力だ。

驚いて振り向いた不二はまた息を飲んだ。そこに立つ国光は髪を洗ったのだろう、いつもの折烏帽子はなく、結い上げた髪をおろしている。肩まで届くつややかな黒髪はクセがあり、毛先があちこち跳ねている。
まるで手塚の髪のように、手塚そのもののように。

「手塚…」

国光と手塚は全く違うと今、思い知ったばかりだというのに、目の前に手塚国光そのもののような榎本国光が立っている。不二は震えた。混乱して何がなんだかわからない。

「不二?」

座り込んだまま呆然と見つめてくる不二の様子を不審に思ったのか、国光が盥を置いて不二の側に寄った。

「どうした、不二。」

黒い瞳が気づかわしげに覗き込んできた。国光の手が不二の頬に触れる。温かい手、不二が眠る時、必ず髪を梳いてくれる温もり、ふっと不二の体から力が抜けた。

「…なんでもない…」

不二は国光の腕に体をあずけた。

「不二?」
「なんでもないよ…くにみつ…」

抱き込まれるような形になっても不二は抵抗しなかった。何も考えたくない。ただ、国光の腕の中は心地よい。黙って頬をすり寄せると、抱き込む腕に力がこもった。

「不二…」

掠れた声で国光が名前を呼んだ。

「…ん?」

抱きしめられたまま不二はぼんやりと答える。

「不二…今宵は望月だ…」

国光は耳元に囁いた。

「月を…月を眺めにゆこう…」

不二はただ、国光の胸に顔をうずめた。


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こらこらこら〜、不二君、それじゃ国光が勘違いするでしょ〜にっ。ただでさえプレッシャーで疲れてンだから
ってことで(何が)サクサクサクっといってみよ〜