不二は盃を取り上げた。そしてぐいっと一息に飲み干した。


まっまっまっずーーーーっ


口から噴き出さなかった己を誉めてくれ、
目を白黒させて何とか飲み込むと、ほっとしたような雰囲気が流れた。不二もついにっこり微笑んでしまう。

「ありがたき幸せ…」

感極まったのか震えながら国忠が平伏した。一族郎党達も次々に祝ぎ言葉を口にする。平伏したままの国忠がすっと息を吸った。

「方々、今宵御渡り様の御恩寵をいただき我が榎本も安泰じゃ。この良き日にわしは隠居し、国光に家督を譲る。幸いここには本家三浦の方々もおられるの。さても祝うてくだされ。」

さすが榎本水軍をたばねてきただけの男である。自力で歩けない程病が重いというのに、腹の底に響くようなすごみがあった。

「国光。」

父親に名を呼ばれ、ははっと答えた国光は盃にまた酒を注ぐ。そして盃をのせた三方を不二の方へ恭しく捧げた。要するに、家督をついだ国光の酒を飲んでくれ、というのだ。

マ…マジ…?

国光の目は真剣だ。

飲むのか、このまずいモノをまた飲むのか。

さすがに量はさっきの半分程だが、飲み干すには勇気がいる。ちらっと不二は国光の顔をうかがった。目が恐い。

断るのはもっと勇気いりそう…

事情のわかっていない不二にも、この場で国光の捧げる酒を飲まなければまずいことくらい理解できる。不二ははじめて、乾汁を飲まされる部員達の苦悩を身をもって知った。

これからは皆を乾汁からかばってあげよう、力の及ぶ限り。

青学テニス部員が聞いたら涙を流して感謝しそうな決意も新たに、不二は国光の盃を飲み干した。まずさでくらりとくる。さっき飲んだ酒がまわってきたのか体がかぁっと熱くなってきた。

み…水…

国光に水を頼もうと口を開きかけたその時、突然三浦胤義が間に割って入って来た。

「榎本に渡られた御使い様なれば、本家にとっても御使いであろうぞ。」

胤義は三方を国光からひったくるように取り上げると大徳利から酒をなみなみと注いだ。それから不二ににじり寄り、三方を捧げる。

「当主三浦義村が名代として参りました三浦胤義にござります。御渡り様には是非にも本家の盃を受けてくださりますよう願い奉る。」

ずいっと三方を突き出されて不二は顔を顰めた。

こんなまずいもの、そう何度も飲まされてたまるか、だいたい、こんな嫌味なオヤジの酒を飲む義理はないっていうの。

しかも体がほうほう熱をもっている。喉が乾く。水が欲しい。

「本家三浦の盃を…」
「国光、水くれないかな。」

すかさず国光が水の入った碗を捧げた。どうやら水を欲しがると踏んで用意していたらしい。くらくらする頭を振って不二は水を受け取りごくごく飲み干すとほっと息をついた。無意識に国光へ笑みをこぼす。すっかり無視された胤義は真っ青になった。そこへ追い討ちをかけるような忠興叔父の声が飛ぶ。

「お気を悪くなされるな、本家殿。なにせ榎本に渡らせられた神様だからのう。いかに本家殿といえど、盃を受けるわけにはいかんのよ。」

がっはっはっ、と高笑いまで付け加わった。胤義は怒りで真っ赤になる。険悪な空気が流れた。だが、酔いがまわってきた不二はふらつく体を支えるのに精一杯だ。ぼうっとする不二の視界に胤義のゆがんだ口元が映った。

「これは失礼つかまつった。傍流の跡目相続ごとき、本家がのりだすまでもなかったわ。いや、国光が心もとないとは申しておらんぞ。三浦本家ならばいざ知らず、榎本を束ぬるくらいは出来ようぞ。のう、国光。」

いらぬ親心じゃ、許せ許せ、と胤義はうそぶいた。国光は黙っている。調子づいた胤義はわざとらしく膝を打った。

「そういえば、国光、今年でいくつになった。」
「十八にござりますが。」
「ならば子が何人かおろう。幾人なした。もうすぐおぬしの婚儀じゃ、妾腹の子はそれ、立場をわきまえさせねばならぬからの。」
「それがし、そのような女も子も持ってはおりませぬ。」

淡々と答える国光に、胤義は嫌味な笑みを浮かべた。

「おお、ぬしゃ希代の奥手であったな。忘れておったわ。」

カカカ、と胤義は笑った。

「それ故、我が兄、義村が奔走したのじゃ。本家の力なくば京より姫君を迎えることなぞ出来まいて。」
「その節はお手数かけ申した。」

国光は軽く一礼する。不二は向かっ腹が立ってきた。なんで国光は、皆は反論しないんだ。この嫌味な男が国光を馬鹿にしているじゃないか。

「じき京女を抱けるぞ、国光、楽しみじゃろう。」

胤義の目が嫌らしく光った。

「おぬし、うまく抱けるか?ちとこっちの女子で稽古をつけたらどうじゃ。」

不二の頭にかっと血が登った。国光が馬鹿にされたのが頭に来たのか、女を抱くというのに腹が立ったのか、自分でもわからない。しかし、酒でキレかけていた理性の糸が引きちぎれるのには充分だった。

「それともなにか、馬にはのってもおなごにのったことはないか、国光。」
「君、下品だね。」

すくっと不二は立ち上がった。よろけそうになるのをなんとか踏ん張る。ぎょっと皆が不二を見上げた。不二は胤義を睨み付ける。

「下品な男は嫌いだな。」

御渡り様、目が据わっておる…

国光以下、榎本の郎党ども全員がそう思った。

しかし相手は神様、止める術はない。いや、ただの酔っぱらいならよけいに止めることなぞ不可能だ。

固唾を飲んで皆が見守る中、不二は懐から携帯を取り出し胤義に向けた。

「天誅っ。」
不二の怒声とともに眩い光が炸裂する。
何のことはない、携帯のフラッシュなのだが、はじめて見る鋭い光に全員が硬直した。不二がくすっと笑う。

「結構よく撮れてるよ、ほら。」

くるっと向きをかえた携帯の液晶画面には胤義のひきつった顔がアップで写っていた。

ひっ、とあちこちで悲鳴がもれる。当の胤義は顔面蒼白だ。不二はクスクス笑いを止めない。青学テニス部員なら誰でも知っている、そして誰もが恐れる、キレかけたときの不二先輩だ。

不二はその切れ長の目を胤義にひたと当てた。口元に浮かぶ笑みは壮絶だ。不二周助、伊達に天才の名を欲しいままにしてきたわけではない、しかも今は神様で、おまけに酔っ払いだ。その天下無敵の不二がにっこり笑った。

「これ、どうしちゃおうか。」

ひいぃっ、と潰れたような悲鳴が上がる。歴戦の武士達は竦み上がった。写真など知らない鎌倉人達にとって、一瞬のうちに姿を写した不二の携帯は恐ろしい神器に他ならない。そしてそれを操る不二はもっと恐ろしい。見目が細く優しげなだけに、畏怖はひとしおであった。
がばりっ、と胤義が不二の足下に這いつくばった。

「おゆっおゆっお許しくっくださっ…」

がくがくと震えている。言葉が続かない。竦み上がっていた郎党達も次々に這いつくばった。とばっちりで胤義のように魂を抜かれてはたまらない。

「ふふふっ。」

神様、その実、ただの酔っぱらいは楽しそうにその光景を眺めた。つんつんと足先で胤義を突つくと、恐怖でひゅーひゅーと喉をならした。気を失わんばかりになっている。つっと国光が不二の足下ににじり寄ってきた。

「御渡り様、御不興の段は平に御容赦あそばされますよう願い奉る。これは我が榎本にとりましても大事な本家の名代、このものの魂を御返し願えませぬか。榎本の当主、国光願い奉る。平に、平に願い奉る。」

平伏しながらちらっと見上げてくる目が、いい加減許してやってくれ、と言っている。

そっか、写真に魂とられたって思ったんだ…

可笑しくなって不二はクスクス笑った。

「ふ〜ん、国光がそこまで言うなら、しょうがないかなぁ。」

不二は携帯を操作して画像を消去した。ピピピッという電子音にもののふ達はまた震え上がる。

「はい、魂返したよ。」

胤義は這いつくばったまま腰を抜かしている。蒼白のまま不二を仰ぎ見る目は虚ろだ。にこぉっ、と不二は凶悪な笑みを浮かべた。

「国光を〜、またいじめたら〜…」

だんだん不二のろれつがまわらなくなってきた。足下がふらつく。ぐらぐら世界が回る。

「また魂〜取っちゃうからねぇっ、わかったぁっ。」

ぐらぁっと体が傾いだ。

「御渡り様。」

不二の状態に気付いた国光がはっと体をおこした。

「ふふっ、国光〜〜。」

不二は国光に向かって両手を伸ばした。慌てて国光が不二を抱きとめる。

「国光、眠い〜〜。」

不二は国光の首に両腕を巻き付けて微笑んだ。

「国光〜、連れてって、国光が連れてくんだよ〜。」

甘えるように不二は額を国光の胸に押し当てる。国光もふっと笑みを浮かべ、そしてひょいと不二を抱き上げた。

「御渡り様を御寝所にお連れ申し上げる。方々、あとは無礼講だ。遠慮のう楽しまれよ。」

腰を抜かしたままの胤義も、それに付き従ってきた三浦の姻戚達も、ぽかりと口を開けたまま二人を見送った。不二の甘い笑みにあてられたのか、広間はしんと静まりかえっている。

だが、当主の背中が広間から消えたとたん、榎本の一族郎党達がどっと沸き立った。めでたいめでたい、いやそれにしても御渡り様の霊験あらたかなことよ、と口々に囃し立てる。いつの間にか国忠の背を支えた忠興が、一際大声でよばわった。

「見たか兄者よぅ、国光の当主ぶりの見事なことよ、御渡り様の覚えも目出度い、これで榎本も安泰じゃぞぉ、よかった、よかったのう、兄者ぁ。」

武骨な男の目に涙が滲んでいた。わいわいと皆酒を飲み騒ぎはじめる。榎本一族の隙間をぬって、こそこそと胤義達が広間を抜け出したが、気に止めるものは誰もいなかった。





☆☆☆☆☆☆





不二を抱いた国光は松明の焚かれた廊下を渡り寝所にしている部屋へ向かった。不二は国光の首に手をまわし、胸に顔を押し付けたままぼうっとしている。飲みなれない酒ですっかりまいった不二は、夜着に横たえられても目を閉じたままじっとしていた。

なんだか今日も目まぐるしかった…

くらくらして目が開けられない。
自分を寝かして国光は広間へ戻ったのだろうか。戻っているだろう。なにせ正式に当主になったのだ。当主なら宴の席に出なければならない。広間の方からだろう、どっと上がった笑い声が聞こえる。

国光…

ふっと、額に何かが触れた。誰かの指、それは優しく髪を梳く。何度も何度も優しく触れる。

「…国光…?」

目を閉じたまま不二は名前を呼んだ。ふっと笑う気配がする。不二も笑った。

「国光…」
「…なんだ?」

今度は返事があった。指は優しく不二の髪を梳いている。

「ね、今夜、僕、国光の役にたったかな…」
「おぬしのおかげで助かった。礼をいう。」
「…よかった…」

不二はほっとして息をついた。国光は不二の髪を梳いてやる。

「おぬしの天誅に皆肝を冷やしていたぞ。」

不二は胤義の顔を思い出した。真っ青になって震えていたっけ。

「あんなのただの写真だよ。今度国光も撮ってあげるね。」
「…いや、いい…」

国光が躊躇したのが可笑しくて、不二はふふっと笑い声をあげた。

「あのね…国光…」

目を開けられないまま、不二はぽつぽつ言葉をこぼした。

「僕、色々迷惑かけちゃうけど、我が儘言うけど…」
「ん?」

髪を梳く手が頬へ降りてくる。優しく撫でられ、不二はくすぐったくて首を竦めた。

「落ち込むの、やめたんだ。元に戻るまでしばらくこの世界でちゃんとやっていきたいから…」

ふっと国光の手が止まる。それが寂しくて、不二は無意識に頬をすり寄せた。

「国光の側にいていい?」

国光の両手が不二の頬を包んだ。

「案ずるな…不二はおれの側にいろ…」

国光の手は温かかった。不二はとろとろと眠りに引き込まれながらにこっと笑う。

「ん…」
「おれの側に…」

最期に国光が何か言ったようだったが、その言葉は半ば眠りについた不二の耳には届かなかった。


☆☆☆☆☆☆☆☆
酔っぱらい不二君、居直りました。次はちょ〜っとラブ度あげるってばよ。 この時代のどぶろくは現代で売っている「にごり酒」とはくらべものにならないくらい、飲みにくいらしいです。不二君、がんばった。