もそもそと不二は箸を動かしていた。行儀が悪いとはわかっていたが、『教育委員会監修、郷土の歴史と文化』を片手に不二は昼食をとっている。

部屋でメソメソしていたら、秀次が膳を運んできたのだ。不二はもう少し泣いていたかったのだが、泣き顔を見られるのも癪で慌てて本で顔を隠した。 そしてそのまま読みながら食事をとるはめにおちいっていた。

今、口に運んでいるのは芋、といってもジャガイモやさつまいもではない、よくわからないものを蒸すか煮るかしたものだった。それ以外にも、貝の煮たものやゴマをまぶした小魚が膳にのっている。

あ〜、これって、素材の味が生きてますって奴だよねぇ…

不二はしみじみと噛みしめた。出汁と塩味以外は食材の味なのだ。それでも、朝食よりはずいぶんと食べやすかった。

噛むのに時間がかかるので、その間、本に目を落とす。折よく『鎌倉時代の食事』という項目があった。


『この時代はまだ昼食の習慣がなく、1日2食が基本でした。しかし、武士や農民など、体を激しく使う人々は、空腹になると軽く何かを食べていたようです。』


…マジ…?


不二は本から顔をあげて秀次を見た。秀次は邪魔にならぬようにと少し下がって控えている。

「あ…あの…秀次。」
「ははっ。」

不二が声をかけると、秀次はいつものごとく平伏した。何度もされていることなのだが、どうにも落ち着かない。だが、とやかく言っても始まらないので、不二はそのまま話しかけた。

「秀次はお昼御飯、食べた?」
「…お…おひるごはん…にござりますか?」

だめだ、通じてない…

不二は質問を変えた。

「これ、誰が用意しろって?」

膳を指差す。秀次が恭しく答えた。

「はっ、殿が出かけられます折、御渡り様はおそらく召し上がられるだろうと下女共に申し付けましたる由、また、よく煮込んで柔らかくするよう念をおされたとのことでござります。」
「国光が…?」

不二はぽかんとした。朝食の時、人が四苦八苦していたのを可笑しそうに眺めていた男の顔を思い出す。

面白がっていた癖に…

なんだか、胸がじんとしてきた。

気、使ってくれたんだ…

国光の気遣いが嬉しかった。本を閉じて、不二は膳に箸をのばす。口元に自然と笑みが浮かんだ。

「秀次。」

にこっと秀次に笑いかける。

「ありがとう、って伝えて。国光に…それから、これ、作ってくれた人達にも。」

秀次はしばらくぽかっと口を開けたまま不二を見つめていたが、はっと我に帰り真っ赤になって平伏した。

「もっもったいなきお言葉、いたみいりまするっ。」
「うん、君もありがとう。」

ますます這いつくばる秀次にくすっと笑いをこぼすと、不二は煮付けた貝を口に放り込んだ。塩味だけれど、素直においしいと思った。




☆☆☆☆☆☆☆




昼食を食べ終わった不二はやることもなく、部屋でごろごろしながら『郷土の歴史と文化』を読んでいた。『人々の暮らし』だの『当時の武士の生活』だの、いちいち、わ〜、本に書いてあるとおりだ〜、などと感心している。

書いてあるとおりもなにも、不二が体験している姿が真実なのだから、よく調査してある本のほうを誉めるのが筋なのだが、どうもピントがずれていた。


空が茜色に変わる頃、館の中が慌ただしくなった。不二が部屋を出てみると、なにやら皆がばたばたと走り回っている。侍姿の郎党達以外にも、下働きの者なのだろう、粗末な身なりの男女が広間と思しき部屋へ何かを運び入れていた。

「不二。」

呼ばれて廊下の玄関口の方をみると、国光だった。手に今朝洗った不二のジャージを持っている。

「国光、帰ってたの?」
「不二、すまぬがお主に頼みがある。」
「…?」

出会ってから常に余裕のある態度の国光が、今は妙に切羽詰まった顔をしている。不二が首を傾げていると、どたばたと足音荒く忠興が駆けてきた。

「若殿、いきなり無理じゃ。御渡り様をお迎えするにはそれなりの準備が必要じゃというに。」
「だから、おれの婚礼用に揃えたものがあるだろう。あれを使うよう申し付けた。」
「ありゃ婚礼用ですぞ。京の姫君を嫁にお迎えするため特別に…」
「叔父貴、御渡り様と嫁とどっちが大事だ。」
「うっ…そりゃあ…若…」

言葉に詰まった忠興に国光は厳しい顔を向けた。

「三浦の本家が御渡り様に興味を持った。」

忠興の表情が強ばる。国光は続けた。

「いいか、叔父貴。雛の節句に瑞兆があったのだ。ゆえに我ら榎本は一月かけて海神様の御使いを迎える支度を整えた。あくまで御渡り様は我ら榎本水軍にお渡り下された、今宵はその、榎本の祝いの宴だ。内輪の宴ではあるが、御渡り様に目通り申し上げたき輩あらば、我ら榎本は拒むにあらず。」

忠興が口を引き結び頷いた。

「委細承知。」

それから踵を返し、早足で広間へ向かう。その背中を見送った国光は不二にジャージを渡した。

「これに着替えてくれ。今夜はお主のための宴だ。何もいわずともよい。ただ、父の盃だけ受けてくれぬか。」
「あの…国光…」

事情がのみこめずきょとんとする不二に国光はやっと微笑んだ。

「いや、たいしたことではない。案ずるな。」

後で秀次に呼びに来させる、そう言い残すと国光も慌ただしく広間の方へ行ってしまった。




☆☆☆☆☆☆




庭には明々と松明がたかれ、広間にも煌々と灯りがともされていた。

不二は上座の一段高くなった畳の上に座らされていた。目の前には塗りの膳がいくつもならべてある。注連縄のまかれた白い大きなとっくりみたいなものまで並んでいた。

ジュース…なわけないか…

ずらりと下座に居並ぶ強面達の顔を眺めて、不二は嘆息した。彼らの前の膳は、塗ではなく木目のみえるものだった。

国光は不二の畳の少し下がった左脇に控えるように座っていた。いつになく見事な衣装を身につけている。

えっと、武士の正装、とかいって本にあったよね…

不二は昼間よんだ『郷土と歴史と文化』の挿し絵を思い出していた。普段着の直垂と違って、平安時代の男のような格好だ。

本当に、本に描いてある通りだよ…

不二はまじまじと国光を眺めた。脚まですっぽりおおうような袴は歩きにくそうだ。黒っぽい地色に銀糸の刺繍がほどこしてある衣装は国光によく似合っていた。

こっちのほうがよっぽど神様っぽい服じゃない。

ジャ−ジ姿の不二はそう思う。実は夕方、せっかく着た直垂を脱ぎながら不二はちょっともったいないな、と思っていたのだ。

神様ならばこの時代劇みたいな衣装の方がよほど神様っぽいのに、国光はジャージを着ろという。金糸の刺繍が気に入っていた不二は脱ぐのが残念だった。

まあ、この時代にはないからね、ジャージなんて。

レギュラージャージの下は、当然青学高等部のテニスウェアだ。乾きやすい素材でよかったと今更ながら不二はスポーツウェアの性能の良さに感心している。しかし…

パンツ、どうしよう…

昨日からはいているので、流石に今夜は着替えたい。なんだか厳粛な宴らしい今、考えることではないのだが、切実な問題である。だが、この時代にパンツがあるはずもなく。

もしかしてふんどし?でも僕、ふんどしなんて締めたことないし…

ちらっと国光を横目でうかがった。流石にこればかりは国光を頼るわけにはいかない。男同士ではあるが、すっぽんぽんのところに国光にふんどしを締めてもらうなんてとてもできない。しかも、国光は恋しい手塚と同じ顔なのだ。

性格は結構違うみたいだけどね。

今朝、寝ぼけた自分を抱きしめたまま楽しげにからかってきた国光の顔がふと浮かんだ。どきん、と心臓が跳ねる。

む…むかつくんだから…

赤くなりそうな頬を一叩きすると、国光が怪訝な顔で不二を見た。

あれ、そういえば…

さっき国光は『おれの婚礼』とかいっていなかったか。

国光って、結婚…するのかな…

今が鎌倉時代ならば、国光の年で結婚しないほうがおかしいだろう。むしろ遅すぎるかもしれない。

国光が結婚…

胸の奥がずきっと痛んだ。そのことに不二は戸惑う。ちらっとまた、国光の顔を見た。手塚と同じ顔だけれど手塚ではない男。なんだかもやもやしてくる。

手塚じゃないのに…別に手塚が結婚するわけじゃないんだから…

広間へ消えた国光の背中を思い出して、不二は何故だか泣きたい気分になってきた。どうも、この時代に来てからの自分は涙もろくなっていていけないと思う。唇を噛みしめて俯いた時、騒々しい物音と大声が聞こえてきた。

「国忠殿はいずれへおわす。国忠殿。」

どかどかと男が広間へ入ってきた。

年の頃は忠興叔父と同じくらいだろうか、ただひょろりと痩せて、細面に細い目が小狡そうに光っている。不二が見ても上物とわかる派手な直垂を身につけたその男の後ろには、やはりそれなりに身なりの好い男達が数人、付き従っていた。

男はじろりと辺りを聘睨し、それから上座の不二をじろじろ眺めた。

なっなんだ、コイツ。

不躾な視線に不二は向かっ腹が立ってくる。男はふん、と鼻をならすと、座についている榎本の人々をかきわけ、当然のように上座へきた。そして国光の向いにどかりと座った。

なになになにーっ、何だよ、こいつはっ。

あまりに図々しい男の態度に呆れた不二が国光を見ると、驚いたことに国光は両拳を床について一礼している。

「これは胤義殿。本家三浦がわざわざ我らが内輪の宴におこし下さるとは、いたみいります。」
「おお、国光。久しいの。息災にしておったか。」

胤義とよばれた男は、どうやら榎本の本家筋らしい。わざと国光を見下したような言い方に不二はカチンときた。

「ときに、国忠殿はいかがした。国光、そこは国忠殿の席ではないか。」
「父上は病床に臥せっております故、今はそれがしがつとめおります。」

威圧的な胤義に国光は顔色一つ変えない。えほんえほん、と下座より咳払いが聞こえた。忠興だ。胤義は不快そうに眉を顰めると、今度は不二に目を移した。品定めするような目つきだ。

げ〜っ

不二は逃げ出したくなった。オヤジに見つめられる趣味はない。
ほうっとため息のようなものが聞こえ、不二は鳥肌がたった。

「これはまた、美しいのぅ。」

ぎゃ〜〜〜〜っ

心の中で悲鳴をあげる。だが、広間に入る前、何があっても黙って座っていてくれ、と国光に頼まれているのだ。当の国光はじっと黙って表情が読めない。

「これがかの神の御使いか。確かに、人外の美しさじゃわい。」

人外はオノレじゃ、ぼけぇぇっ。

心で罵り、不二はひたすら目をそらした。この世界にきてから、むさくるしい野郎の熱い視線に晒されてばっかりだ。たとえそれが信仰からくるものでも、ムサいものはムサい。

しかし、この胤義の視線は何だ。体全体を舐るように眺めてくる。嫌悪が背筋を這い登り、不二は眉間に皺を寄せた。

「よきものを手に入れた。でかしたぞ、国光。我が三浦の運もこれで盛りかえすであろう。いつまでも北条ごとき新参者に大きな顔はさせぬわ。」

どれめでたい、酒じゃ酒、と胤義は大声をあげる。不二はムッとした。

手に入れるって何だよ、人をモノみたいに。

その時、国光の声が凛と響いた。

「暫しお待ちくださいますよう。胤義殿。祝いの儀式が始まっておりませぬ故。」

国光はまっすぐ胤義を見た。言葉は丁寧だが、射るような眼差しだ。

「そもそも、我ら榎本は水軍にて、海神を祭り日々信心いたしおるに、今月雛の節句の折り、東の空に瑞兆あり。何事やあらんと神事を行えば、吉日を選び神の御使い様が我が榎本に渡られるとの神託を拝す。さても三月二十九日、明け方の空に白き星輝き、海神の祠に向かいて流れたり。吉日とは今日なり、御使い様の渡られたるや、と身を浄め衣服を改め、飾り立てたる馬を引きて祠へ参じるに、御使い様のおわしましたり。」

うっわ〜〜、ウソつき。

不二は呆れた。

身を浄めって、君、汗臭かったじゃない、だいたい、飾り立てた馬を引いてって、乗ってきたでしょ乗って、しかもフツーの馬に。

国光は涼しい顔をしている。

「御使い様の御姿、四方に光を放ち、花の香り漂いたり。ありがたきかな、祠の御前にて御使い様より祝ぎ言葉あり。『これより我を御渡りの神として祭れ。さすれば榎本に大いなる幸もたらさん。』そう仰せられしゆえ、我ら御使い様を御渡り様と呼び申し上げ、ここに榎本一族あげて祝いの席を設けたり。ありがたきかな。」

国光は上座の不二に向かって深々と平伏した。それにならって一族郎党、みな平伏する。三浦胤義に付き従ってきた男達も慌てて平伏した。当の胤義は青くなってわなわなと震えている。

そりゃそうだよね…

不二はくすっと笑みをもらした。

神様は榎本のものでアンタ関係ないって言われたんだもんね。

くすくす笑いを噛み殺しながら、不二は胤義に言った。

「ね、君はお辞儀しないの?」

後輩へ対するように不二はにっこり笑った。神様でいるときには、テニス部の不二先輩で行こうと決めている。案の定、不二先輩の微笑みは効果絶大で、胤義はあたふたと平伏した。そこへ国光の鋭い声が飛んだ。

「秀次っ。」

からり、と奥の襖が開き、秀次が男を支えて現れた。まるで神官のような白っぽい直衣を身につけたその男は病持ちらしく、一人で歩くことが出来ないようだ。秀次に支えられてゆっくりと進みでてきた。

「御渡り様。」

国光が平伏したまま不二に言上した。

「これなるは我が父にして榎本水軍の長、榎本国忠にござります。」

国光のお父さん…

まじまじと不二は男を見つめた。年のわりに老いて見えるのは病のせいだろう。手塚の父親、国晴とあまりに違う。

手塚のお父さん、洒落た都会風のナイスミドルって感じだけど…

そこまで考えた不二ははっとした。

国光は手塚じゃないのに…

いつの間にか二人を重ねていたことに愕然とする。

「御渡り様…」

絞り出すような声で不二は我にかえった。白木の三方に大きな白い陶器の盃がのせられている。すでに秀次は後ろに控え、国忠が正面に平伏していた。国光が膝で進み国忠の腕をささえて、例の注連縄をはった大徳利を持たせていた。何やら白い液体が盃に注がれる。

もしかして…もしかしなくてもこれは…

嫌な予感に不二は国光を見た。神様が飲むものといったら酒と相場が決まっている。

「御渡り様に奉り候。」

国忠が三方を捧げ持ち、国光がそれに手を添えている。

僕、未成年なんだけど…

そりゃあ、部の皆とふざけてビ−ル飲んだこともある。正月にはお屠蘇に酒も飲んだ。しかしこの酒は…

まずそう…

どぶろく、という奴だ。酒のみならまだしも、高校生の飲めるしろものではない。

しかし、国光が目で『頼む』と言っていた。三方を捧げ持った国忠もひたと不二をみつめている。その横では平伏したままの胤義が憎々しげに榎本親子を睨み上げていた。不二は密かにため息をついた。

飲むよ、飲むけど、だったらこっそり何か先に食べさせてくれてたらよかったのに。

恨めしげに国光を睨む。不二は観念した。

国光、この貸しは大きいんだからね。

目でそう言うと僅かに国光が苦笑したのがわかった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ごめん、三浦胤義さん、あなたの事は名前だけで、どんな風体か、どんな人物だったかチェックもせず悪者にしてしまったよ。この人、三浦義村の弟ってだけで、全然調べてません。実在の人物ですけど、多分こんな人じゃないです。最初、義村の息子を名代にしようかな、と思ったんだけど、まだ十才くらいなんだよね。いくらなんでも十才じゃあなぁ…とにかく胤義さん、ごめんだってばよ。そのうち朝比奈義秀にも御登場願ったりする。恐れ多いことしちゃうなぁ〜〜。