「いやだーっ。」


廊下に不二の絶叫が響き渡る。


「おっ御渡り様、お静まりくださりませ。」
「今日のところはこれで御容赦願いまする。」

「いっやっだっ。」

「只今、御渡り様にお使いいただく品を特別に職人どもに申し付けておりまする故。」
「ささ、御渡り様、これへ。」
「これをお使いあそばされよ。」


「だからっ、何で僕がオマル使わなきゃなんないのーーーっ。」


とうとう不二はぶち切れた。

郎党達は平伏したまま、それでも周りを動かない。正面に平伏している強面の侍が何やら細工を施した箱型の椅子のようなものを捧げ持っている。その椅子の調度お尻のあたる部分には穴が開けられていた。

「いざいざ。」

穴開き椅子を捧げ持った侍はずいっと膝をすすめる。四十半ばのその男の脇に秀次が控えているということは格上なのだろう。だが、オマル捧げ持って何が「いざいざ」だ。

「国光ッ。」

不二はギッと館の当主を睨み付けた。一歩離れてまた傍観を決め込んでいた国光は肩をすくめた。


「忠興叔父、御渡り様はそれを使うのは嫌だと仰せられておるようだぞ。」
「若っ。不敬がすぎましょうぞ。御渡り様が我らと同じ便所であそばされるなどっ。」
「だがなぁ、本人が便所にいきたいと仰せられておる。」
「だからというて、左様でと便所にお連れする若の気が知れませぬっ。」
「便所じゃいかんか。」
「いけませぬーーっ。」


不毛な会話だ。便所便所とリピートされて目眩がする。しかし、不二の生理現象も限界が近い。


「あのさ、だいたい、その箱に僕がしちゃったら、その始末しなきゃいけないんだよ。大変でしょ、それって。」

誰だって人の汚物の始末なんて嫌だろう、しかもおっきいのなんて。そう言いたかったのだが、何故か皆の顔がぱぁっと輝いた。


「ありがたき幸せ。」
「身にすぎる光栄にござります。」


ちょっとまてーっ。


心の中で不二は絶叫した。いや、口にも出した。


「ぼっ僕のをどーするつもりっ。」
「ははっ、御渡り様のあそばされた物にござりますれば、」


畏怖と憧憬の込められた視線が不二に集まる。オマルを捧げ持ったまま、国光から「ただおきおじ」と呼ばれた男が至極真面目に答えた。


「館の一角を清め注連縄をはり、そこへ奉らん。」
「ぎゃーーーっ。」


そのまま不二は忠興を突き飛ばし、便所だと指差された場所へ駆け込んだ。あわあわと郎党達が後を追う。


「おっおんわたりさまぁ〜〜っ。」
「来たらだめっ。祟るよっ。」


ピタリと郎党達は動きをとめる。しん、と沈黙が落ちた。皆が便所を凝視している。そして再び不二の絶叫が響き渡った。


「くにみつっ、紙がないーーーっ。」
「誰ぞ紙をお持ちしろ。」
「国光でなきゃダメーっ。」
「若っ。」
「殿っ。」


国光は頭痛をこらえるように額に手をあてた。



☆☆☆☆☆☆




朝から不二はもうくたくただった。

携帯の目覚まし音、ウルトラマンのカラータイマーだったが、それに恐怖した郎党達に大騒ぎされ、トイレにいくといえばオマルを持ち出される。

そして、当然と言えばそうなのだが、窮して飛び込んだトイレはいわゆる「ぽっとんトイレ」。都会っ子で豊かな環境に育った不二にはそれだけでも倒れそうな衝撃だった。しかもトイレのなかに紙はなく、国光が持ってきた紙はお尻に負担のかかる固さだ。


皆、「大」の後、どーしてるんだ…


何かの本で、江戸時代の宿屋には荒縄がはってあって、泊まり客は「大」のあと、その荒縄に尻をこすりつけて紙のかわりにすると書いてあった。思い出して不二は目眩を感じる。


しかもなんか、手、洗ってないみたいだし…


一応、手水鉢とかなんとかいう石の何かはあった。中に水も溜っていた。そう、溜っていたけど。


「手、洗わないやつ、側に来ないでッ。」


便所から出てわらわらと再度集まってきた郎党達に不二は怒鳴った。もう、遠慮だの慎みだのといっていられない。

オマル持ち出して人のモノを「奉らん」とする奴らなんぞに負けてたまるか。

すっかりキレた不二に普段の温厚さは微塵もない。「おれ様」化した不二は足音も荒く部屋へ戻った。もちろん、国光を引っ張って行く事も忘れずに。




部屋へ戻っても所在がなかった。椅子やソファがあるわけでなく、板張りの床ではどこに座ればいいのか見当もつかない、というより、座りたくない。ただでさえお尻が痛いのに。

しかたなく不二はごそごそと上座の畳の上に這い上った。国光はその斜前の床の上にどかりと腰をおろす。不二がむっつり黙っていると、国光は膳を運ぶよう廊下に声をかけた。

「あれだけ怒れば腹も減っただろう。」
「君ねぇ、面白がってない?」

不二はムッと言い返した。

「こんなとこに来てね、僕は落ち込んでるの、絶望してるの、だのにオマルなんか持ってきて、もう、信じられないっ。」
「そう怒るな、あれで忠興叔父は真面目におぬしを敬っているのだ。少し融通のきかぬ御仁ではあるが。」


言われて不二は思い出した。目覚めた時国光にまず意見したのが鼻の下に立派な髭を蓄えたあの強面だった。


あの時も白湯じゃなく酒をだせとすっごく的外れな事言ってたような…


「…頭痛くなってきた…」

うんざりした不二に国光は苦笑をもらす。

「父上が病床にあるゆえ、叔父上もおれをもりたてようと必死なのだ。気を抜くとどこから付け込まれるかわからんからな。」


不二はふと、国光を見つめた。そういえば、年はそう違わないようなのに、国光は榎本水軍の長なのだ。一族を担う責務の大きさはどれくらいなのだろう。

「…君もけっこう、苦労してる?」

国光の目が和らいだ。

「案ずるな、おぬしを守るくらいの力は持っている。」

優しく見つめられて不二はどぎまぎした。


と、廊下から声がして、秀次が膳を運んできた。


「御渡り様、御前失礼つかまつりまする。」

恭しく黒塗りの膳を捧げ持って入ってくる。食べ物の匂いをかいで、流石に不二のお腹がなった。しかし、目の前におかれた膳をみて不二は固まる。


「………」
「…あの…御渡り様…」


おそるおそる声をかけてきた秀次に、不二は慌てて微笑んだ。


「あ、ありがと。うん、いただくよ。」


不二が箸をとると膳の上のものを眺めた。


ど…どれ…食べよう…


とりあえず、無難に汁碗を取り上げた。貝の汁で、塩味だった。空腹に暖かい汁が沁みる。ほっと不二は息をついた。

「おいしい。」

秀次が嬉しそうな顔をする。それが面映くて不二も微笑んだ。

しかし…

不二は次に食べる皿を決めかねていた。黒い漆塗りの碗に茶色い塊がのっている。どうやら米の飯のようだが、白くない。しかもぎゅっと楕円形に握られている。その上には何やら青菜のゆでたものと焼き魚がある。小さな皿にもられているのは塩と茶色いわけのわからないもの。意を決して、不二は青菜を口に入れた。


固い…


乾汁に鍛えられた不二の味覚は、灰汁の強い青菜の味には耐えられたが、それにしても歯ごたえがありすぎる。やっとの思いで青菜を飲み込み、もそもそと焼き魚を突ついた。小骨の多い魚を食べるのにまた一苦労だ。だが、空き腹にはかえられない。しかも側で秀次がじっと不二の食べる様を凝視している。

そういえば、国光の前にも膳がない。青菜をもごもご咀嚼しながら不二は尋ねた。

「ねぇ、君たちは食べないの?」
「いや、我らは後でいいのだ。」

不二は不思議そうに首をかしげた。

「え?一緒に食べればいいのに。」

国光が何か答える前に、秀次ががばりとひれ伏した。

「もったいなきお言葉ーっ。」

驚いた不二が目をぱちくりさせていると、国光が笑った。

「まぁ、そういうことだ、御渡り様。」

あ、と不二は気がつく。

自分は神様なのだ。ということは、この膳も特別なのだろう。


ぜ…全部食べなきゃ…


不二は案外と義理堅い。ぐっと箸を握ると、茶色いお握りらしきものを睨み付けた。そしてガブリと頬張り、目を白黒させる。とにかく、何もかも歯ごたえがありすぎるのだ。しかたなく、噛まずにごくりと飲み込もうとして、今度は喉に詰まらせた。


「むぐっ。」
「おっ御渡り様っ。」


慌てて秀次が白湯の碗を差し出す。一気にあおった不二は悲鳴を上げた。


「あちっ。」
「ああ〜っ、もっ申し訳ござりませぬ〜っ。」


ますます秀次は取り乱し、不二の膝に白湯がこぼれてまた悲鳴をあげる。堪えきれず国光が笑い出した。


「なっ何笑ってンのさっ。」
「殿っ、」
「ああ、すまぬすまぬ。」


国光はまだ笑いながら、不二の膳を秀次に渡す。

「秀次、飯は湯漬けにしてまいれ。それから汁のおかわりだ。御渡り様の着替えも用意せよ。」

それから不二に顔を向けた。

「まだ腹はふくれておらぬのだろう?」

くっくっとまだ笑っている国光を不二は睨むが、当たっているので何も言わなかった。




湯漬けにすると、何とか飯は食べられた。一番たべやすく、おいしかった汁をおかわりして、やっと不二は一息ついた。

「…で、あの人達、何?」

秀次を筆頭に若い郎党が数人、着替えの後ろに平伏している。

「おぬしの着替えを手伝う者たちだ。」

国光はこともなげに答えた。不二はがっくり肩を落とす。濡れたジャージは気持ち悪い。だから着替えるのに異存はない。だがしかし、何がかなしゅうて不二周助十七才、ごつい男達に着替えさせられなければならないのか。

「一人で着る。だから出てってよ。」

つややかな絹の直垂を手に持って、不二は皆を追い出した。


そして五分後、不二はつまらない矜持や独立心と決別する。


「国光ーっ。」
「だから手伝いの者を…」
「国光がやってっ。国光じゃなきゃダメだよっ。」


青学の仲間達が見たら卒倒しそうな程、不二周助が穏やかな己を完全に捨てた瞬間だった。




☆☆☆☆☆☆




午前中、不二は国光の後ろをついてまわった。

不二は紫がかったエンジ色に金銀の縫い取りのある直垂と薄水色の袴を着せられていた。廊下に控えていた秀次や郎党達がぼうっと見とれていたようだから、おそらく似合っているのだろう。折烏帽子は邪魔なので断った。 忠興「叔父」がとんできて、「このように粗末なもので恐縮至極」とかなんとか騒いでいるのを国光が苦笑いしながら宥めていた。

午後、国光は館の外の用に出かけることになり不二もついていきたがったが、二人で脱走した昨日の今日では許されるはずもなく、不二は自分の部屋に戻った。

正直、国光から離れるのは不安だった。異質な世界ですがれるものといえば国光しかいないのだ。

国光だけは不二を不二としてみている。神などではなく、異なった世界から来たただの人だと認識しているのだ。しかも、不二の世界の、恋しい男の顔をして。


「手塚…」


ぽつりと不二は呟いた。自分が過去へとばされたというのなら、一緒に居た手塚はどうしたのだろう。もしかしたら同じ世界にとばされているかもしれない。


そうだったらいい、でも無事でいてほしい、そして…


「会いたいよ…手塚…」


孤独だった。寂しかった。自分の居場所のない世界は辛い。


「手塚…」


こそり、と袂にいれた携帯が布に擦れる。不二は携帯を取り出した。携帯が不二と元の世界をつなぐ唯一のものに思えてくる。不二はバッテリ−残量を確かめた。散々目覚まし音を鳴らしたにしては、昨日とまったく変わっていない。不二はほっとした。それから少しためらって、自宅の電話番号を押してみる。何も反応がない。

「…当然だよね…」

自嘲気味に笑うと、ふと思いついて留守録ボタンを押してみる。なつかしい声が流れてきた。


『アニキー、明日から合宿だろ。オレ、三十日に家、帰るから。』

三十日って、今日か…

不二は微笑んだ。今日は弟が自宅に帰ってくる日。

「裕太、びっくりするよね。僕、鎌倉時代にきているんだよ。」

不二はボタンを押す。

『周助、帰りにス−パ−寄ってケチャップ買ってきて。切れちゃってるのよ。』

姉さん、結構年頃の男の子には恥ずかしいんだよ、その買い物。

『不二〜、今日の部活、お疲れにゃ。でさ、今夜電話してー。』

エージ、結局、合宿に持って行くゲームソフトの相談だったじゃない。何かと思ったよ。

『不二、出発時間が変更になった。七時半に校門前集合だ。…また明日。』

「手塚っ。」
手塚の声だった。そういえば、合宿の出発時間変更の連絡があったのだ。不二はリピートボタンをおす。

『不二、出発時間が…』

懐かしい声、手塚の声、

『…また明日。』

また明日…

「手塚…手塚手塚…手塚…」

不二は携帯に頬を寄せた。何度もリピートする。

『また明日。』

涙が流れた。胸が潰れそうだ。

「てづか…」

声を殺し、不二は携帯を胸に抱きしめて静かに泣いた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

衣食住、不二君、苦労してます。 この頃、貴人だけは紙でお尻、ふけたらしいですね。不二君、痔にならなきゃいいね〜(他人事)っつーか、なんかロマンからどんどんかけはなれていってるよ〜な気がしてるのはわしらだけ…?歯磨きもお風呂も大変だよ〜ん。(いや、そこまで書いたら埒あかなくなるんでやらないけど)