どうやって館に帰ったのか覚えていない。気がつくと馬から抱きおろされるところだった。家人や郎党達が大騒ぎしながら集まってきて、国光が困り顔で何か言っているのを不二はぼんやりと眺めていた。
それから昼間寝かされていた部屋へ戻される。ぼうっと座っていると、国光が膳を運ばせてきた。
「何か口にしたほうがいい。」
国光の声がするが、不二の耳にはどこか遠く聞こえていた。座っているのに何かおぼつかない。ゆらゆらと星空を漂っているみたいだ。
ふと、唇にひやりとしたものが触れた。わずかに開けた唇の間からそれは口の中に滑り込んでくる。そのまま不二は飲み下した。味も何も感じないが、ただそれは冷たくて柔らかかった。また唇に触れる。それを飲み込んで不二が目をあげると、国光の気遣わしげな顔があった。国光は木の匙で膳の上の白いかたまりをすくっている。
「口をあけろ、不二。豆腐だけでも食べるんだ。」
いわれるままに不二は口を開け、国光は豆腐を食べさせた。食べ終わると、国光は不二を一畳だけ敷いてある畳に寝かせ、夜着をかけた。
「次の間に秀次が控えている。入り用があれば声をかけよ。」
不二はぼんやり天井を眺めたままだ。国光は立ち上がろうとして、ふと、動きをとめた。国光は何か言いかけ、しかし言葉にはならずただ不二の髪を梳く。そして部屋を出て行った。
しんとしている。遠くに潮騒が響き、時折、馬達の咳く音や蹄を打ちつける音がする。静かだ。犬の声がする。静かで真っ暗な夜。
不二は横になったまま部屋を眺めた。昼間、開け放たれていた雨戸はきっちりと閉められ、部屋の奥も廊下も闇に沈んでいる。外灯の明かりも道路を走る車の音もない世界。
突然、心臓を掴まれるような恐怖が襲ってきた。静かすぎる夜、真っ暗な夜、不二の世界とは違う夜、不二の知らない夜。
「母さん…」
不二は小声で呟いた。
「母さん…母さん母さん…」
不二の呟きは闇に溶けて消えていく。呼んでもこの世界には存在しないのだ。母も父も、由美子も裕太も。不二の脳裏に家族の笑顔が、青学の仲間達の顔が浮かんでは消える。誰もいない。真っ暗やみに不二は独りだ。
「皆…どこ…」
誰もいない。誰も存在しない世界。
「ここ…来てよ…」
夢ならばいい。悪い夢を見ていて、うなされている自分を誰か起こしてくれればいい。合宿所のベッドで、青学の仲間が起こしてくれるのだ。もしくは家のベッドで、裕太が不機嫌丸出しの顔で自分を起こしてくれれば…
「誰か来てよ…」
祈るように不二は呟く。だが、誰が不二の側へ来てくれるというのだろう。これは夢ではない、ここは不二の世界ではないのだ。
「誰か…誰か…手塚…」
ふいに、手塚の顔に榎本国光と名乗る男の顔が重なった。不二はがばっと起き上がる。真っ暗だ。
「く…くにみつ…」
掠れるように名前を呼んだ。暗い、とても暗い。
「くにみつ…国光、国光、国光っ。」
悲鳴をあげるように不二は必死で名を呼んだ。隣の板戸がガラッと開けられ、秀次が飛んできた。
「御渡り様っ、いかがなされましたっ。」
だが、秀次の言葉は不二には届かない。うろたえる秀次には目もくれず、不二は身をよじるように叫んだ。
「国光っ、国光ーっ。」
涙が出てくる。恐い、恐い、恐い…
「国光ーっ。」
ドタバタと廊下で人の騒ぐ声、運ばれてくる明かり、だが、不二はもうわけがわからなかった。
「国光国光国光ーっ。」
しばらくすると、白い夜着をまとった榎本国光がやってきた。真直ぐ不二の側へ来ると横に膝をつき、その手をとる。
「どうした。」
宥めるように声をかけられ、不二はやっと我に帰った。見上げると国光の顔がある。そのまま不二は国光にしがみついた。
「国光っ。」
一瞬、国光はうろたえたが、すぐに優しく不二を抱き返す。その手がゆっくりと髪を梳いた。不二はしがみついたまま弱々しく訴えた。
「暗いよ、国光…」
「すまん、これからはずっと明かりを灯しておこう。」
「畳、固い…」
「うむ?」
「これじゃ寒いよ、国光…」
ポンポンと国光は不二の背中をあやすように叩いた。不二はしがみついて離れそうもない。国光は困ったように微笑むと、目で郎党達をさがらせ、不二を胸に抱き込んだまま夜着の中に横たわった。
「一緒に寝てやる。これなら寒くはなかろう。」
国光はそう言い、不二の髪をなでた。
「大丈夫だ、ずっとここにいる。」
穏やかに国光は不二の背をさする。
「大丈夫だ、不二…」
国光の腕の中は暖かかった。背をさすられながら、いつしか不二は眠りにおちていた。
☆☆☆☆☆☆
「おっおっおっ御渡り様ーーーっ。」
「とととと殿ーーーっ。」
「おっ起きてくださりませーーーっ。」
悲鳴とも怒号ともつかない騒ぎに不二と国光は飛び起きた。
「何事だ。」
国光は不二を胸に抱き込んだまま駆け込んできた郎党達に対した。不二をみて郎党達はがばりと平伏するが、その様子はただごとではない。真っ青になってガタガタ震えている者もいる。
こんどは何だよ…
まだ眠い目をこすりながらぼけっと郎党達を眺めていた不二だったが、自分が国光の腕の中にいることに気付いて慌てた。
「あっあれっ、僕、何で君、ここで…」
あたふたと逃げ出そうとする。しかし、国光はがっしりと不二を抱き込んだままだ。
「ちょっちょっと、離してってば、国光っ。」
もがく不二に、国光はしれっと答えた。
「何だ。お主がおれを呼んだのだぞ。」
「なっ…」
そういえば夜中に…
一瞬で青ざめた不二に、国光は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「共寝をしたというのに、そうつれなくするな。」
今度は不二の顔が真っ赤になる。
「ばっ…」
馬っ鹿じゃないの、と叫びかけた不二の声は切羽詰まった秀次の声に遮られた。
「殿っ、仲良う戯れておる場合ではござりませんぞっ。」
「仲良くって、君ねっ。」
「だから無粋だというのだ、お前は。」
国光はふっと笑って茹蛸のようになった不二をますます胸元に抱き込んでしまう。
「ぎゃ〜〜〜っ。」
「ぎゃあって、あのなぁ…」
「たっ祟りでございますっ。」
別の郎党が泣きそうな声で訴えた。それをきっかけにひれ伏す者たちは口々に訴えはじめる。
「おっ御渡り様、お助け下さいませ。」
「お願いにござりまする。」
「御渡り様っ。」
屈強なもののふ達が皆一様に脅え、震えている。駆け込んできた様子から敵襲ではないなとのんびり構えていた国光だったが、ここへきてはじめて眉をひそめた。
自惚れではなく、榎本水軍はこの一帯最強の軍団だと自負している。数こそ劣るが、それを補ってあまりあるつわもの揃いなのだ。本家三浦が一目置くのもそのためだった。その一騎当千のつわもの達がここまで恐怖を露に狼狽するとは尋常ではない。
「秀次。」
「とっとにかく、御神器をお祭り申し上げておる部屋へっ。」
国光は不二の腕をとって立ち上がった。
「ななな何?」
不二は目をぱちくりさせたまま国光に引っ張られる。不二が通ると、郎党達は平伏したまま縋るように見上げてくる。
「御渡り様、何とぞ何とぞ。」
げっ。
異様な光景に不二は逃げ出したくなった。髭をたくわえたごつい男達に縋られても恐いだけだ。
「不二。」
国光にうながされて、不二は渋々後ろについていった。
庭にも廊下にも、青ざめ平伏しているものであふれている。下働きの下男、下女など、見ているのが気の毒な程ぶるぶる震えて地面に伏していた。異様な静けさが辺りを包んでいる。時折ぶつぶつ経を唱えるような声がするだけで、しわぶき一つ聞こえない。館全体が恐怖に覆われているようだ。秀次が強ばった顔で振り向いた。
「こちらにござります。」
部屋をでて廊下を曲がると、なにやら音がする。
ピコーンピコーンピコーン…
耳になじんた音。
ピコピコピコピコピコピコ…
前を行く秀次がびくっと身を竦ませた。
「こっこれ以上はそれがしも…」
絞り出すように言うと、秀次が後ずさる。
ジュワッチ
「ひっ。」
秀次が耳をおさえて尻餅をついた。
ピコーンピコーンピコーン…
再び同じ音がはじまる。蒼白になった秀次が情けない声をあげた。
「面目次第もござりませぬ〜。なれど、そっそれがし、これより先には〜っ。」
ピコーンピコーンピコーン
不二は彼らの恐怖の原因を悟った。
これって僕の…
頭を抱えたくなった。国光と並んで音のする部屋へ向かう。
ピコピコピコピコピコジュワッチ
僕の携帯の目覚まし音だよ…
その携帯は白木の三方の上で和紙と榊の葉に飾られ恭しく奉られていた。
がっくり膝をつかなかった自分を誉めてもらいたい…不二は真剣にそう思った。
神棚のしつらえてあるその二畳程の小さな部屋は特別なのだろう、廊下から入った正面に一段高い床があり、そこに白木の三方が三つ、並べられている。一つには携帯、もう一つには宿から借りた「郷土の歴史と文化」の本、三つ目には祠で拾った小刀がのせられていた。
いずれも白い和紙の上で、まるで正月の鏡餅だ。御丁寧に榊の葉が白い壷に活けられ、塩と米と酒がこれまた白いかわらけに盛ってある。海神への素朴で敬虔な信仰に満ちたその部屋で、三方にのせられた携帯が点滅していた。
ピコピコピコピコジュワッチ
間抜けすぎ…
携帯は律儀にウルトラマンのカラ−タイマ−音を繰り返している。不二は目眩がした。あまりに間抜けな光景、しかし、館全体を恐怖のどん底に突き落としているのは紛れもなく自分の携帯なのだ。
元はといえば、この携帯の目覚まし音、姉の由美子が合宿に出る前、無理矢理いれたのだった。
「周助、今月のラッキーアイテム、ウルトラマンだから、携帯にいれておいてあげたわよ。」
にっこりそう言われた時はどうしようかと思ったが、周助のピンチを救うラッキーアイテムなのよっ、と主張する姉に反抗するのがめんどくさくてそのままにしておいた。
ラッキーアイテムって、ラッキーなのか、これがラッキー?ごっつい男達が恐怖に震え上がっている、これってラッキーなのか、いや、だいたい、「今月のラッキーアイテム」にウルトラマン持ってきた時点で間違っているよ、姉さん。ほら、そのせいなのか知らないけど、僕の携帯、お正月飾りになってカラータイマー音ならしてる…
ああ、でもそれが恐怖の根源なのは間違いない。不二は脱力しながら足元をみた。腰を抜かしたまま、それでも果敢に秀次が這いよってきている。秀次は震えながら懇願した。
「おっお怒りをお沈めくださいませ。」
いや、お怒りっていわれても
国光が困り顔を不二に向けた。
「不二、なんとかしてくれ。」
不二は三方から携帯を取り上げると目覚ましを切った。目に見えて秀次がほっと力を抜く。
ああ、姉さん
力がぬけたまま不二は姉に語りかけた。
なんだか気がぬけちゃった…
違う世界に、おそらくは過去に飛ばされてしまって、このありえない現実に打ちのめされていたのだけれど、ホントにホントに、どうしていいかわからないくらい絶望していたのだけれど。
「ねぇ、国光。」
ジュワッチ、に腰を抜かしてる侍みてたら…
「携帯と本、返してもらってもいいかな。」
「ああ、もともとお主のものだ。」
不二は無造作に携帯と本をジャージのポケットに突っ込む。
なんとかなるでしょ、って気分になってきちゃった…
「不二、刀はどうする。」
国光にいわれて不二はムスッと答えた。
「そんなのいらない。」
この刀が悪いんだ、この刀がっ。
八つ当たり君に刀ののった三方を不二は睨んだ。
「あげるよ、君に。」
「おおお〜っ。」
国光のかわりに秀次が雄叫びをあげた。
「殿っ、御渡り様から刀を賜るとは、これで我ら榎本水軍は益々勢い増しましょうぞ。」
こうしちゃおれん、とさっきまで震えて腰を抜かしていたとは思えない身のこなしで秀次は駆け出した。どうやら皆にふれまわる気らしい。
朝っぱらから不二はどっと疲労を覚えた。同時に空腹も。トイレにも行きたくなってきた。
そういえば、昨日は何も食べずトイレにもいかず、よく平気だったと思う。やはり何もかもがおかしかったのだろう。寝る前に国光が何か食べさせてくれた気はするが、ぼうっとしていて記憶は曖昧だ。
とにかく、昨日は昨日、今日は今日、まずはトイレに駆け込みたい。
「あ、あのさ、国光。」
「ん?」
この水軍の長はさっきから面白そうに傍観していた。
他人事だと思って、いや、他人事なのだけれど、こんなに自分が切羽詰まっているっていうのにムカツク奴。
これも不二の勝手な八つ当たりなのだが、当面、目の前の切羽詰まった状況を解決しなければならない。
「あのさ…トイレ、どこ?」
「………」
沈黙が流れる。嫌な予感がした。念のため、不二は繰り返す。
「だからさ、トイレなんだけど。」
「といれ とは何だ。」
「………」
本当の意味で、不二の試練は始まったばかりだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆
けしてお笑いを目指しているわけでは…切ないラブストーリーになるのだ、せ・つ・な・いっ。あ〜〜、なんか視線が冷たいってばよっ。