不二が僅かに身じろぎした。はっと手塚は我に帰る。
いつのまにか風はおさまり、夜の大気に漂う梅の香りはほのかだ。夜の梅林を照らす灯りはテニスコートから射してくる外灯だけで、花々は薄暗く闇に沈んでいた。
手塚はまだ不二を抱きしめていた。手塚の腕の中では、不二がもぞもぞと動いている。手塚は不二の顔を覗き込んだ。
「不二か?」
「…う…うん。」
バツの悪そうな顔をしている。手塚はじっと不二の目を見つめた。不二がかぁっと頬を染める。
「あ…あんまり見ないでよ、恥ずかしいじゃない。」
不二周助に間違いなかった。女の影は片鱗もない。手塚は心底ほっとした。
「…よかった…」
不二の首筋に顔を埋め、手塚は息をついた。
「よかった…不二…」
「あ…あの…」
戸惑ったような声、手塚はハタと今の状況に思いいたる。
「あっ、そのっ、すっすまんっ。」
慌てて不二から体を離そうとした。しかし、膝立ちのまま長時間動いていなかったせいで、上手く動けない。
「すまな…っっつ…」
急に動いて手塚は膝の痛みに呻いた。情けなく尻餅をつき、両手で体を支えたまま、手塚は天を仰いだ。
これで終わりだ…
不二は戻って来てくれた。それでよかった。しかし、我を忘れて不二に触れた。しかも告白までしてしまったのだ。もう側にいることはできないだろう。手塚は安堵とともに、胸の奥が切なく痛むのを感じた。諦めなければならない。
終わりだ…
瞑目する手塚の手に、温かいものが触れた。不二の手だ。驚いて手塚は不二をみた。不二はおずおずと口を開く。
「あの…ありがとう…手塚。」
手塚は微笑む。こんな自分にまだ優しい言葉をくれる不二、それで充分だとおもった。それなのに、不二は手塚ににじりよってくる。夜目にもわかるほど、頬を紅潮させていた。
「えっと…あの…手塚…さっき君、僕の事…すっす…」
そのまま不二は俯いてしまう。重ねた手が僅かに震えていた。手塚は俯く不二の項を切なく見つめた。
優しい不二、友情を、信頼を裏切られた気持ちだろうに、最後通牒をつきつけることができないのだ、どこまでも心の優しい不二、こんなおれにまだ情をかけてくれている…
手塚の胸が千切れそうに痛んだ。しかし、逃げ出すわけにはいかない。これが不二の側にいられる最期ならばなおさらだ。手塚は重ねられた不二の手に指をからめ、ぎゅっと握った。はっと不二が顔をあげる。揺れる瞳をじっと見つめて、手塚は静かに告げる。
「好きだ。ずっと好きだった。すまん、迷惑なのはわかっている。これからもうお前には…」
「ほんとに…?」
唐突に言葉は遮られた。真っ赤な顔で、目を大きく見開いて、ずいっと不二が膝をすすめてくる。その迫力に手塚は思わず体を引く。
「手塚、ほんとに?ほんとに僕のこと、好き?」
「すっ好きだ…」
恋を諦める決意をした手塚の苦悩なぞふっとばす勢いの不二に手塚は面喰らった。興奮した面持ちで不二は迫る。
「友達の好きとかじゃないよっ、僕とあんなことやこんなことしたいっていう好きっ?」
「お前なぁ…」
手塚は頭を抱えたくなった。
自分は今、全身を引き千切られる思いで不二への恋慕を断とうとしているのだ。この真摯な苦しみに『あんなことやこんなこと』はないだろう。
「あのな、不二…」
「ねぇ、どうなのっ?手塚の好きは僕とイロイロしたいっていう好き?」
手塚は額を押さえてため息をついた。そして、のしかからんばかりに詰め寄ってくる不二の露になった胸を指でトンと突いた。
「答えるまでもないだろう。」
そこには、手塚はつけた痕が薄紅色の花のように散っている。手塚に突つかれて、不二は初めて己の状態に気がついた。
「わぁっ。」
叫びざま、不二はパジャマの前をかきあわせペタリと座り込んだ。手塚は苦笑いしか浮かばない。苦しんだわりになんて間抜けな恋の終焉だろう。
「そういうことだ。」
不二が上目遣いに自分を見つめている。手塚は最期を告げる言葉を続けようとした。
愛しい不二、お前に負担をかけるような真似はしない…
「不…」
「嬉しい…」
耳まで赤くなって不二がうっとり呟いた。
「嬉しい、夢みたい、手塚が僕を好き…」
それから蕾がほころぶように笑みをこぼす。
「僕も…僕も手塚が好き、ずっと好きだったんだ、ずっと…」
手塚は呆けた顔で不二を見つめた。不二はにっこり笑った。
「手塚、僕も手塚のことが好き。」
ぽかりと口を半開きにしたまま、手塚は不二をまじまじと見た。頭の中は不二の言葉がぐるぐるまわっている。
好き?おれを好きといったのか?あんなことやこんなことをしていいって意味で言ったのか?いや待て、幻聴じゃないだろうな、あの女がまだ中にいるとか、幻覚をみせられているなんてことは、
突然、むにっと頬が引っ張られた。目の前で真っ赤な顔の不二が睨んでいる。
「僕は不二周助、もうあの人はいなくなったし、君が幻覚を見ているわけでもないの。」
「…なんでわかった…」
「君が考える事なんてもろわかり。」
不二がくすくす笑った。
おれがお前を好きだったことには気付かなかったくせに…
手塚は引っ張られた頬をさすりながら心の中で呟いた。目の前では照れくさそうに不二が笑っている。
不二もおれを好きでいてくれた…
喜びがこみ上げてきた。二人とも、地面に座ったまま見つめあう。
「不二…」
「…うん。」
「…その…」
胸が一杯で何を言っていいのかわからない。頬を赤らめた不二が目を伏せた。唇が笑みを深くする。艶やかな唇、今さらながら、緊張して心臓がドキドキしはじめた。ふっと、不二が伏せていた目をあげる。手塚の心臓が一挙に跳ねた。
「手塚、あの…」
「帰ったら続き、してもいいか?」
え、と不二が固まった。しまった、と手塚が口を押さえた時はすでに遅く、不二の顔が茹蛸のようになる。
「いや、あの…だから…」
そんなことを言うつもりではなかったのだ、あんまりお前が魅力的に笑うからつい心にもないことを、いや、したくないというわけじゃなくて、もちろんしたいのだけれど、その前にもっとお前に好きだという気持ちを伝えるつもりでいるのだ、
という意味のことを手塚は言おうとした。言いたかった。しかし、もとより口下手な男である。あわあわとうろたえて体を硬直させるばかりだ。不二が頭から湯気を出すかという勢いで怒鳴った。
「ばっ馬っ鹿じゃないのっ。」
「すっすまんっ。」
突然、慌てる手塚の腕の中に不二がぽすっと入り込んできた。顔を胸に押し当てているが耳が真っ赤だ。
「いいに決まってる。」
「………」
手塚は再び硬直した。不二がぎゅっとしがみついてくる。
「だから、いいって言ってるでしょ。」
蚊の鳴くような声で不二が繰り返した。
「…不二っ。」
手塚は不二を抱きしめた。
「不二、不二、不二…」
名を呼ぶ事を、抱きしめる事を許されたのだ。頬にあたるさらりとした髪の感触と肌の温かさを手塚は噛みしめる。
「不二…」
おずおずと不二が顔をあげた。手塚はそっとその唇に指で触れる。やわらかい感触、指にあたる吐息が温かい。
「不二が好きだ…」
不二の瞳が揺れる。
「…手塚が好き…」
吐息とともに不二は囁き、そして静かに目を閉じた。手塚は唇を近付ける。そっと、壊さないように、手塚は想いをこめて口付ける。唇を合わせるだけの口付けだったが、涙が出そうな幸福感に包まれた。
気持ちが通じ合ったというだけで、ここまで満たされるものなのか、
手塚は柔らかい不二の唇に酔いしれた。
はらはらと梅の花びらが散っている。花びらの散り敷く梅林で二人は離れ難くいつまでも抱き合っていた。
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ま、おさまる所におさまったっつーわけで、あと1ファイル。雑魚ども相手に手塚国光、ケジメつけなきゃねv