失恋したら、もっと涙が出るのかと思っていた。


悲しくて悔しくて、わーわー泣くのかと思っていた。


だが、実際に失恋してみると、涙はあまり出なかった。ただ、御飯の味があまりしない。
夜あまり眠くない。 なんだか背中や腕のつけねのあたりがじーんと痛い。
たったそれだけだった。


--- なんだ、こんなものか。


ぽんやり不二は呟いてみる。でも、たったそれだけのことがとても辛かった。




☆☆☆☆☆☆



今日も隣の席をかこんで女子どもがかしましかった。
手塚は相変わらず廊下を通る時、本命とやらの彼女に視線を送っていた。手塚に笑いかける自信がなかったので、ここ数日、ろくに顔をみていない。手塚に話しかけられないよう、部活では菊丸や河村にひっついて一人にならないようにしていた。時折、乾が意味ありげな笑いを浮かべてこちらを見ていたが、それは無視した。


ああ…僕って情けない…


帰宅した不二は着替えもせずにベッドにころがっている。なにをする気力もなかった。
明日はバレンタインデー。目の前で失恋の証拠をみせつけられる日だ。なんだって日本のお菓子メーカーはこんな忌々しい記念日をでっちあげたんだろう。なんだってこの国の人々はそんな策略に軽々と乗ってしまうのだろう。なにもかも、全てがうとましい。ふと、階下から甘い香りが漂ってきた。チョコレートの香りだ。不二は起き上がると下に降りて台所を覗いてみた。案の定、姉の由美子がチョコづくりに励んでいる。

「あら、周助。お腹空いた?」

由美子が振り返る。う〜ん、まあね、と生返事しながら不二は椅子に腰掛けた。

「御飯できてるんだけど、ちょっと待って。チョコもうできちゃうから。」

チョコを仕上げている由美子は楽しそうだ。いや、姉はいつも、何をしていても楽しそうにしている。そういうと、アニキもそうだろ、と裕太に突っ込まれたっけ。不二は少し、思い出し笑いした。

「母さんは?」
「回覧板持っていったから、しばらく帰って来ないかもねー。おしゃべり長いもの。」
「何か手伝う?」
「そーねー、そこの、もう固まっているの、箱にいれて、きれいにラッピングして。」
「そこの作りかけのはいいの?」
「あ、これ、父さん用だから。」

由美子は手先の器用な弟を結構重宝している。
料理の手伝いはともかく、毎年バレンタインチョコのラッピングは弟にまかせていた。数種類、リボンや包み紙を用意しておくと、驚くほどセンスよくまとめてくれる。

「一番大きな箱が本命チョコだから、気合い入れて包んでよ。あとの箱は友達用だから、あまり差つけないでね。」

不二は苦笑いしながら本命チョコのラッピングにかかる。


本命ね…


由美子は弟がついた小さなため息に気がついていた。
やっぱりこの子、なにか悩んでるわよ…

ここ一週間ほど、かわいい弟は見るも哀れに萎れている。正面きって尋ねても、別に、と笑うのはわかっているので由美子は何も聞かなかった。

恋煩いっぽいわよねぇ…

そろそろ微妙なお年頃なので口出しは出来ないけれど、やはり元気のない弟は不憫だった。

「ねぇ、姉さん…」

唐突に口を開いた弟に由美子は少し慌てた。テーブルの上で器用に包み紙を組み合わせている弟は俯いたままだ。


「バレンタインなんて…バカみたい…」


それから、あ、と顔をあげ、きまり悪そうにまた俯いた。
「………ごめん…」
カサカサと紙の音が少し乱暴になった。由美子はくすっと笑った。そして、友達用、といった箱を一つ手に取る。

「周助、ビターとミルクとどっち?それとも両方?」
「え?」

ぽかんとする弟に畳み掛ける。
「ねえ、どっちよ。」
「え、あ、ミッミルク…」

手早くチョコを詰めるとポンッと不二に手渡した。
「周助にあげる。好きな包み紙使っていいわよ。」

あっけにとられている弟に由美子はにこっと笑った。
「別にバレンタインデーってね、女の子がチョコあげる日じゃないの。他所の国じゃ男がチョコや花束で女口説いてるわ。」

え、ぼっ僕は別にっ、とうろたえる弟のおでこをピンっとはじく。
「女の子に告白してもいいし、お友達と仲直りしてもいいし、あなた一人で食べてもいいし、とにかく、これ、あげる。」
そのかわり、ラッピング、全部たのんだわよ、と由美子はまたくすりっと笑った。不二もつられて笑ってしまう。

「…ありがと。」

それだけ言うと、また作業に没頭した。
由美子の本命チョコは三種類の紙とリボンで凝ったラッピングにした。そして、もらったチョコの箱は、つやのある緑と青の紙をそれぞれの色が見えるように工夫して包み、ベージュのシールを貼った。
手塚の好きな色を自分の色でつなぎ止めたような気がして、不二は少し嬉しかった。





☆☆☆☆☆☆




槍よ降れ、でなかったらせめて土砂降りの雨になれっ。

不二の願いもむなしく、2月14日は快晴だった。テニスで鍛えた体は今日も元気だ。

---やっぱガッコいかなきゃなぁ…

鏡の中には情けない顔をした自分がいる。テニスラケット持つタカさんみたいに元気でればいいんだけど、と不二は小さく試してみた。
「バーニーング…」


しばらく一人で固まって、それからバッグを抱えた。バッグの横に置いておいたチョコを手に取り、しばらく迷う。
緑と青の紙でつつんだ手塚のためのチョコ。

「タカさんにあげてもいいし…英二と一緒に食べてもいいよね。部活のあと、お腹すくし、姉さんが作ったのが余ったとかなんとか…」

余り物をこんなに綺麗に包むのか、という素朴な問いはこの際無視だ。
一人言い訳を呟くと、不二はチョコをバッグに入れた。階下から、しゅうすけーっ、と呼ぶ母の声がする。
「やばい、もうこんな時間だ。」
ドタバタと不二は部屋を飛び出した。





手塚は机の引き出しから取り出した写真を眺めていた。前回の春合宿で乾からもらった不二の写真だ。無邪気な顔で眠っている不二。

「不二…」
小さく名前を呼んでみる。

指でそっと写真の不二に触れる。もう習慣になってしまった、写真の不二への語りかけ。そうやってまた、伝えてはいけない自分の想いを心の底に押し込める。


『本命チョコ、欲しい?』


この言葉を聞いて以来、心が揺れている。
しっかりしろ、手塚国光。今日さえ無事に乗り切れば…
乗り切ればなんだというのだ、手塚は自嘲した。手塚は写真を引き出しに戻し、重い足取りで部屋を出る。



邪な自分の想いは消えはしない…

出口が見えなかった。