次の日には、噂は全校に広まっていた。


テニス部副部長、手塚国光には告白していない本命がいる。
条件にあてはまるのはただ一人、不二のクラスの女の子だった。





☆☆☆☆☆☆





班日誌を職員室にだして、不二はそのまま部室に向かった。鞄はまだ置いたままだったが、教室に戻りたくなかった。


なにが甘いの苦手っぽそうだ、手塚のこと何もしらないくせにっ。


口に出さずに毒づいた。あの日以来、不二は打ちのめされている。
手塚は好きな人がいることを否定しなかった。乾の指摘に顔色をかえた。違うと、好きな人などいないと言って欲しかったのに。


なにがビター系だ、なにが本命だ、手塚は、手塚はっ…


頬を染めたクラスメートの顔が浮かび、不二は拳を握りしめた。
素直な優しい女の子だった。綺麗な顔だちをしているのに高慢ではなく、密かに好意をよせている男子も多かった。皆がいうように確かに手塚にお似合いだ。いっそ、嫌味な奴だったらよかったのに、そうしたら思いきり罵ってやれるのに。


「くそっ。」


不二は俯いて歩きながら唇を噛み締める。
「くそっ。」


なにも考えたくなかった。
コートでボールを打つ音が響いている。なにも考えず、感じず、ただボールを打とうと思った。もう、笑顔でいられる自信がなかった。




☆☆☆☆☆




「不二。」

校舎をでたところで呼び止められた。手塚が立っている。不意のことで、不二は心臓がとびだすかと思った。
「あ、あれ、手塚、帰ったんじゃなかったの?」
「竜崎先生のところへ行っていたからな。」

顔が赤くなる。不二はあたりに降りてきている薄闇に感謝した。
「お前こそ、どうしたんだ。」
「僕?鞄とりにいってたんだよ。忘れちゃっててさ。」
くすっ、と不二はいつものように笑った。
「班日誌だしたまま、部活いっちゃったから。」


声は震えていないだろうか。

ごくりと不二は唾を飲み込んだ。 自分の心臓の音だけがドクドクと耳に響いてくる。そうか、と手塚は黙って歩き出した。なんとなく押し黙ったまま二人は歩く。夕暮れの大気が身を切るように冷たかった。

「ね…ねぇ、手塚。」
「あのだな、不二。」

同時に話しかけて、二人顔を見合わせた。ぷっと吹き出す。

「なに、なにさ、手塚。」
「お前こそ何だ。」

笑いながら、普段どおりの会話が始まる。少し見上げると手塚の目が優しい光りを宿しているようで、不二の胸がきゅっと痛んだ。ふと、聞いてみようか、そういう気になった。

手塚に聞いてみようか、手塚の好きな娘は本当にあの子なのか、本当に本命チョコもらいたいのか、あの綺麗な女の子からチョコ貰いたいのか、手塚、違うだろう?そんなの、手塚らしくないよ、そうだろう、手塚…

「本命チョコ…手塚、欲しい?」

手塚の体がぎくりと揺れた。驚いたように目を見開いて不二を見つめる。手塚の頬がわずかに赤くなったのが薄闇の中でもわかった。


ああ…


不二は手塚を見つめ返して全てを悟った。

そうなんだ…手塚…ほんとに君、あの子が好きなんだね…


不思議と、さっきまで不二を苛んでいた嫉妬や苦さは湧いてこなかった。
静かに、ひたひたと打ち寄せる波のように悲しみが押し寄せてきた。悲しくて、ただ悲しくて不二は微笑んだ。照れたのか手塚はつっと視線をそらす。ぼそっと低い声が聞こえた。

「…くれる…というの…なら…」
「…そう…」

不二は微笑んだまま目を伏せた。涙はでなかった。
「そう、そうなんだ…」

穏やかな声で不二は言った。居心地悪そうに手塚の目が彷徨っている。不二はそんな手塚をかわいいと思った。かわいくて、悲しくて、くすりと笑った。

「手塚ってやっぱりビターなのがいいのかな。」
「…?なんだ、そのビターというのは。」
「チョコだよ、苦味のある。」
手塚は不思議な顔をした。
「チョコは甘いだろう?普通。」

不二は呆気にとられて手塚をマジマジと眺める。何故不二が目をぱちくりさせているのか見当のつかない手塚は不機嫌そうに付け加えた。
「チョコは普通、甘くてミルクが入っているだろう?」
ぶーっと不二は吹き出した。そうだね、普通そうだよ、と笑いこける。訳がわからず、手塚はむっつりした。
「手塚、君ってほんとに…」


大好きだよ、やっぱり君が。失恋しちゃったけど、まだ君のことがこんなに好き。


少し滲んだ涙は笑い過ぎたせいにしよう。じゃあ明日ね、そういって別れた道を不二は振り返った。夕焼け空を黒々と電車の高架が横切っている。不二の微笑みが儚くなった。手塚の背中が遠ざかり、その下へ消えていくのを不二は切ない瞳で眺めていた。





☆☆☆☆☆☆





お…おどろいた…

駅のホームのベンチに座り込んだ手塚は柄にもなく胸に手を当てる。まだ胸がドキドキしていた。不二の声が蘇る。


手塚、本命チョコ、欲しい?



手塚国光は不二周助に恋していた。





おれは不二が好きだ…

夏に想いを自覚してから、手塚は必死でそれを打ち消そうとしてきた。
思春期にありがちなことだと、勘違いだと、ちょっと特別な友人なのだと思い込もうとしていた。
だが、手塚の努力とは裏腹に不二への恋心はつのるばかりで、手に負えなくなってきている。その不二が本命チョコ欲しいかと自分に聞いてきたのだ。心臓が飛び出すかと思った。うろたえてどんな態度をとったのか定かでない。冗談なのか、本気でくれるといっているのか、不二の表情は掴みどころがなさすぎた。別れ際には何がおかしかったのか大笑いされた。


どういうつもりなんだろう…

手塚は途方に暮れた。

やはりあの時悟られたのだろうか。おれの気持ち…不二を好きなおれの気持ち…

そもそも、手塚はバレンタインなどに興味はない。
名前も知らない女子から押し付けられるチョコは迷惑以外のなにものでもなかった。だから、部室で皆がバレンタインのチョコで騒いでいた時もさして気にしていなかった。それよりも河村と仲良くおしゃべりをしている不二に気をとられていた。
不二と河村は仲が良い。
ただ、その仲の良さが菊丸達のそれと微妙に違うと手塚は思っている。


お前はいつも河村に甘えるのだな…


河村と話す不二を見る度に手塚は心の中でいつも呟く。
その日も部誌に集中しようとして失敗していた。不二の声が耳に入ってくる。無関心を装いながら、手塚は苛立っていた。

『 タカさんがくれるんだったらお返ししてもいいなぁ。』

不二の声にドキンとして手が止まった。
本命チョコってお返しするんだよねー、呑気な不二の台詞に我知らず血が上った。気がつくと口に出していた。

『 好きな相手からだったら、おれだって受け取る…』


うっかり口にした言葉から騒ぎがはじまった。
乾はどこまで知っているのだろう。
廊下を通る時、つい教室の中の不二を目が探す。自分の無意識の行動まであのデータ男はしっかりチェックしているらしい。手塚はため息をついた。

ばれただろうか…おれの気持ち…

乾が不二の姿かたちを並べ始めた時には息が止まるかと思った。

だめだ。

手塚はぐっと拳を握りしめた。

だめだ、絶対に知られてはいけない。不二が好きだなどと絶対に…
電車がホームに入って来た。手塚は吹っ切るように立ち上がった。


不二…あの時、最後までおれを見なかった…


テニスバッグがなんだかやけに重かった。