その9
     
     
 

「兄上ーーーーっ。」

賭場の入り口にイルカの怒号が響き渡る。相変わらずの紺地の着物に無地銀鼠、軽衫袴姿のイルカは街で一番という賭場に駆け込んでいた。まだ昼飯時を少し過ぎた頃だというのに、中は男達の熱気でむんむんとしている。

「おぉ、イルカ先生。」

ひょい、と元締めが顔をのぞかせた。中肉中背でがっちりとした押し出しの強い風体の男だ。短く刈った髪に白いものが混じり始めているが、眼光はなかなかに鋭い。

「こんにちは、親分さん。あのっ、兄がここに伺っているはずなんですが。」
「なんだい、先生、その様子じゃまたカカッさん、ツケこしらえたのかい。」


イルカが白糸の街に来て二ヶ月、季節はすっかり夏になっていた。
着いて早々、有り金全てカカシに巻き上げられたイルカは、そのまま静の家にやっかいになっている。薬売りをしながら密かに街の情勢をうかがうはずが、カカシの後始末をつけるのに走り回る毎日だ。相変わらず派手に散財するせいで払っても払ってもツケがたまる。
イルカは日々、カカシの先回りをしてツケでの買い物を阻止したり、賭場で儲けた頃を見計らってその銭を差し押さえたりと気を抜く間がない。おかげでカカシの行きつけの賭場や置屋ですっかり顔なじみになっていた。

「一足違いだったよ。」
「あんのぉぉぉっ、逃げやがったかーーーーっ。」

イルカは歯がみした。今日は朝から賭場へ入っていたと聞き、勝った銭を使いきられる前に押さえておこうと飛んできたのに、どうも最近カカシはカンがよくなって、入れ違いでいつも逃げられる。地団駄踏んで悔しがるイルカに元締めは口元を緩めた。

「まぁ先生、そうカッカしなさんなって。」

丁度ひと月ほど前だったろうか、賭場の奥の部屋でカカシを待つ間、居合わせた三下に頼まれて名前の書き方を教えてやったことがある。
ここにいる者ほとんどが学校と縁がなく、読み書きができない。イルカが平仮名で名前を書いてやると、えらく喜ばれた。もともとイルカは教師志望だ。教え上手もあって、以来、暇があると読み書きの手ほどきをするようになり、そのせいで今は皆、イルカのことを『イルカ先生』と呼ぶ。

「カッカもなりますよっ、んっとに考えなしにバカバカ使いやがるから。」

憤懣やるかたない、といったイルカに元締めはきせるをふかしながら肩を揺らした。

「まぁ、そんなこったろうと思って、カカッさんの取り分の二割、置いといたよ。それ以上はこっちも無理言えなくてな。」

胸元から銭の袋をだしてイルカに放る。

「ったく、こう勝たれちゃ、商売あがったりだ。困ったおなじみさんだぜ。先生の兄さんはよ。」

言葉とは裏腹に、楽しげな口調だ。

「すっすみません、兄がいつもご迷惑を…」

イルカはひたすら恐縮する。からからと元締めは笑った。

「まぁ、こちとらも脛に傷持つ稼業ってことでな、そのぶんカカッさんには世話になってる。存分に遊んでもらっても釣りがくるくらいよ。」
「はぁ。」

最近、隣町から進出してきた連中と揉めているとか聞いた。賭場だけでなく、息のかかった置屋でもトラブルが絶えないらしく、カカシは貴重な戦力なのだろう。


ったくあの人は、草が用心棒なんかやっていいのかよ…


内心青筋をたてつつも、イルカはにこり、と元締めに笑いかけた。

「あ、それで親分さん、これ、頼まれていた薬です。」

懐から油紙に包んだ丸薬を取り出す。

「おう、すまねぇな。」

ポン、ときせるの灰を上がり口に置いてあった煙草盆に落とすと、元締めは引き出しから札入れを取り出した。

「先生の薬は良く効くからな。だいぶ腹具合もよくなってきた。ありがとよ。」

数枚の札をイルカの手に握らせる。

「いえ、こんなには…」
「とっときなって。本当は存分に遊んでもらいてぇとこだってのに、賭け事も芸者遊びもしなさらんお人だからな、先生は。せめて薬代くらい、奮発させてくんな。」

何度辞退しても、元締めは薬の代金以上の金をイルカに渡す。

「いつもすみません。」

一帯を仕切る元締めとしての顔をつぶしてはならない。イルカはありがたく頂戴する。金はあったにこしたことはない。恩返しはまた機会をみてすればいい。湯水のように金を使うカカシの面倒を見るうちに、イルカもかなり割り切った考え方をするようになっていた。

「あ、いたいた、イルカ先生。」

入り口からひょこり、と少女が顔を出した。

「お由ちゃん。」

イルカは微笑んだ。お由と呼ばれた娘は年の頃十二、三歳、淡い桜色の髪を桃割れに結っている。カカシが贔屓にしている置屋の半玉だった。白地に七宝柄の綿の単衣に朱色の帯をぶんこに結んだお由はぱたぱたと中へ駆け込むと、イルカの前に書き取り帳を差し出した。

「あのね、先生、これ、見てもらおうと思って。」

二つほど山をこえた里の農家の娘であるお由は借金のカタにこの街の置屋に入ったそうだ。カカシを探して置屋へ顔をだすうちに、文字のかけないお由にも読み書きを教えるようになっていた。

「カカシ兄さんがね、姐さん達全員あげちゃったから、おかあさんがしばらく自由にしていていいって。」
「……今日はそうきたか、あの兄貴は…」

イルカはこめかみを押さえた。頃合いをみて迎えにいかなければならないだろう。しかめっ面のイルカにお由はくすり、と笑った。

「書き取りのお稽古したら、一緒にカカシ兄さんを迎えにいく?」
「そうだな、そうしよう。」

イルカは顔をあげて苦笑した。お由は勉強熱心だ。覚えもよく、今は漢字の書き取りと簡単な計算を教えている。

「じゃあ先生、しばらくそこの奥で見てやるといい。丁度手の空いた若い衆もいる。あいつらも先生の顔みたら喜ぶだろうよ。」
「はい、お言葉に甘えます。親分さん。」

イルカは草履を脱いで賭場の奥の小部屋へ向かった。廊下ごしに賭場の中から悲喜こもごもの声が聞こえてくる。負けて身ぐるみはがされる者、借金で首がまわらないのにさらに借財を重ねるもの、人生の様々な悲哀や不幸、人の欲が渦巻く隣で、自分は読み書きを教えている、イルカはなんとなく不思議な気分だった。

「お、イルカ先生。」
「あ、先生、いいとこにきた。先生の宿題、ちゃんとやったんだよ。」

小部屋に入ると、元締めの下にいる若衆達が満面の笑みで迎えた。

「やぁ、お由坊もきたのか。」
「先生、見てくれ、俺、名前書けるようになったんだ。」
「それじゃ、順番に宿題をみせてもらおうかな。」

イルカが朱色の筆立てを懐中から取り出すと、がさがさと皆が書き取り帳を持って寄ってきた。

「ほら、先生、上手になったろ。」
「あぁ、すごいなぁ、よく練習したんだな。」

赤で大きく書き取り帳に花丸をつけながらイルカが褒めると、強面の連中が笑みほころぶ。だが、無邪気に読み書きを習うこの連中も、生業はやくざだ。借財の取り立てで幼子を抱えた一家の身ぐるみもはげば、人も殺す。



そしてオレは忍だ。



にこにこ笑いながらイルカは心の中で呟いた。
人好きのする優しいイルカ先生は、実はこの連中より嘘も殺しも巧みだ。里の命令とあらば、今、自分と関わっている人々だろうとためらいなく始末する。


それが忍なんだ…


今の自分は、うみのイルカであっても本来のイルカではない。この奇妙に分離した感覚、旗本の次男坊、うみのイルカの人生を忍であるイルカが冷徹に眺めている。ここで暮らすイルカが感じる喜びや親しみ、すべてがうたかたのようだ。水面に浮かんでは消え、何も残らない。
イルカは軽く頭を振った。こんな風に考えるのも、草などやっているからだろう。


余計なことを考えるな、イルカ。


次々と花丸をつけたり朱で訂正したりしながら、イルカは己に活を入れた。
あと半月もしないうちに五行の気が満ちる。任務遂行して、そして終わりだ。

「よし、じゃあ、お由ちゃんはこの手本の漢字を練習してみような。竹蔵さん、今度はおっ母さんの名前の練習してみるか?あ、上手だなぁ、五助さんは筋がいいよ。」

イルカは「優しいイルカ先生」になって、満面の笑みを浮かべた。

 
     
     
 
前回の区切りがちょっと短かったので早めの更新です。
で、ちょっとシリアスムード。
イルカには、つーか、イルカを含めて彼の周辺の人々には
常にこーゆー葛藤があるんだろうなー、と思っとります。