その10
     
     
 

一刻ほど読み書きの手ほどきをしたイルカは、元締めの所を辞しツケの支払いに行ったり薬を届けたり、と走り回った。お由もずっとイルカの後を付いて回る。
お由のいる置屋は他に数名半玉を抱えており、イルカは皆に読み書きを教えているが、お由は特に勉強熱心でイルカになついていた。



陽が斜めに陰る頃、イルカはお由と連れ立って料亭、花筏に入った。
あまり早く迎えにいくと、そのままお座敷遊びの渦に巻き込まれるので、騒ぎがそろそろ一段落するか、という頃合いを見計らうのが肝要だ。何度もひどい目にあってイルカはようやくそれを学んだ。

「あら、イルカ先生。」

玄関をくぐると、仲居から連絡がいったのか、いそいそと女将が出てきた。

「おや、今日はお由ちゃんも一緒なの。」
「こんにちは、女将さん。」

お由はきちんと挨拶する。

「すみません、また兄がお世話になっていると伺ったのですが。」

イルカが頭を下げると女将はほほほ、と笑った。

「なんですよ先生、兄様はお得意様、こちらこそいつもお世話になっておりますのに。」

それからちょいちょいと廊下の脇の小部屋へ呼ばれる。

「あの、兄を迎えにいかないと…」

おたおたしている間に、仲居が抹茶と菓子を運んできた。

「はい、お由ちゃんもお食べなさいな。でね、先生、ご相談なんですけどね。」
「はぁ…」

イルカは諦めてきちんと座り直す。

「先生、召し上がってくださいな。谷町、昌庵の薯蕷饅頭ですのよ。」

谷町は白糸の街の隣だ。そこの昌庵の薯蕷といえば、頑固な職人堅気の親父さんが一人で作る饅頭でなかなか手に入りがたい。


そういや下忍の頃、三代目のお使いで買いにいったっけ…


女将は甘いもの好きで、男衆に買いにやらせるのだと仲居が話していた。その好物を勧めてくるのだから、何かお願いごとだろう。案の定、目をキラキラさせて女将が言った。

「先日、うちの娘が先生から勉強、教わりましたでしょ。それがねぇセンセ、この間のテスト、随分点があがりましたのよ。それでご相談なんですけど、週に一回でよろしゅうございますから、家庭教師をお願い申し上げたくて。もちろんお礼はたんとさせていただきますわ。もうね、先生がこちらで落ち着かれる気おありなら、学習塾を開くお手伝いさせていただきたいとも思ってますのよ、いかがでしょう先生。先生がご指導なさるんでしたらきっと繁盛いたしましてよ。あ、経営や経理は心配なさらないで。あたくしがちゃーんと采配いたしますから。」


うぉ、家庭教師だけじゃなくビジネスまできたかっ。


イルカは内心頭を抱えた。


オレ、短期の草だよな。短期間で姿消す草って、目立っちゃいけないんじゃなかったっけ。一流の草は消えても誰も覚えてない、ってくらいに存在薄くしなきゃいけないんだよなっ。


一カ所に根を下ろして、長期間にわたって諜報活動をこなす忍の場合は、情報を集めやすいよう大きな料亭を構えたりビジネスを成功させたりというケースも多々あるが、ほんの数ヶ月で姿を消さねばならない草の場合、印象を薄くするのが鉄則だ。


老舗料亭の女将に賭場の親分にって、ダメだろオレーーーーーっ


それだけではない。カカシのツケを払ってまわり、先回りして買い物を阻止したりするうち、大店の旦那衆ともすっかり顔なじみになってしまっている。今では道を歩いているだけで、旦那衆に将棋やお茶に呼ばれるほどだ。


三代目に物言うみたいにポンポン言っちまったからなぁ…


物怖じせずはっきりとしているが礼儀もわきまえているイルカは、どうも年配に気に入られるようだ。オレって草、失格、と内心落ち込みつつ、なんとか学習塾の件は辞退できたが、しっかり週一回の家庭教師は承諾させられた。老舗料亭の女将、しっかり饅頭の分は取っている。

「じゃあ女将さん、そろそろ兄を連れていかないと。」
「先生、たまにはうちの料理、召し上がってくださいな。板長にお誘いするよううるさく言われてますのよ。」

腰をあげると、女将が引き止めた。

「お由ちゃんも一緒なことだし、ねぇ、お由ちゃん。」
「でも、私はおかあさんに怒られてしまいますから。」

お由が残念そうに、それでも明るく肩を竦めるのでイルカは笑った。

「薬がなくなったらまた加減をみますと板長にお伝えください。静さんが夕飯の支度して待ってるんで、兄連れて帰ります。」
「そうですねぇ、カカシ様は必ず夕食までには帰られるお人ですしねぇ。」

女将は先に立ってふすまを開けた。

「でもね、先生。お昼くらいはごちそうさせてくださいな。あ、そうだ、家庭教師の日がよろしいわね、そうだ、そういたしましょ。早速板長に伝えておかなきゃ。」

ポンポンと決めていく女将に苦笑しつつ、イルカはカカシの座敷へ向かった。
ひと騒ぎ終わったのか、三味線と話し声は聞こえるがそううるさくはない。それよりもカカシの座敷より奥の方から賑やかなお囃子や三味線が聞こえてくる。時折、ひどく耳障りな怒鳴り声がするのは気のせいだろうか。先に立つ仲居が振り向いて眉を寄せた。

「隣町のお大尽だかのお座敷が入りましてね。先生、気になさらんでください。」

仲居もあまりいい印象を盛っていないようだ。お由を連れてカカシの座敷に入ると、山水の屏風の前でカカシはゆったりと杯を傾けていた。今日は青磁だ。
芸者衆はすでに疲れ果てて座り込んでおり、まだ元気の残っている男芸者がカカシの酌をしている。

「イルカちゃ〜ん、お迎えごっくろうさーん。」
「まーたアンタ、立て続けに大騒ぎしましたね。皆さんの体力が持たんでしょうがっ。」

イルカが顔をしかめると、たいこ持ちは慌てて手を振った。

「いえいえ、イルカ先生、アタシらも楽しいもんですからついね、盛り上がっちまうんですよ。それに、カカシ兄様のお座敷の後は皆、休ませていただけますんで、ありがたいことでございます。」
「玉丞さん、兄を甘やかさないでくださいよ…って、ああぁーーーーーっ。」

イルカはハタと気付いてカカシを指差した。

「アッアッアンタっ、この着物、いつどっからっ、見た事ねーぞ、そんな着物っ。」
「似合うでしょ〜。」

カカシはへら、と笑って両袖を広げてみせた。淡い水色地に露芝の小紋の薄物だ。イルカは側に飛んでいって袖を引っ張りマジマジと見る。

「あぁっ、このっ、すげー上物じゃねーかっ、つか、なんだこの絹糸刺繍はっ、信じらんねぇ、コイツ、露芝ぜんぶに刺繍してやがるっ。」
「粋でしょ?」
「こんの、いくらしやがった、ツケか、またツケで買いやがったのかっ。」
「やだなぁ、ちゃんとお代は払ってるよ。イルカちゃんがここへきた翌日にね、ちょぉっといいかなぁ、って思って注文してたのが今出来上がってきたんでしょ。」

しれっと笑われ、イルカはふるふると震えた。

「翌日って、あっあの時の銭袋っ、オレの全財産…」
「あらら、言ってなかったっけ?」
「くっそぉぉっ、このクソ兄貴ッ、バカカシーーーーっ。」

イルカがぶち切れたその時、廊下の先から悲鳴が聞こえた。続いてガターン、という大きな音が響く。

「お由ちゃん?」

イルカは廊下へ飛び出した。

「先生っ。」

血相を変えたお由が駆けてくる。

「姐さんがっ。」

 
     
     
 
家庭教師云々は金角の願望が凝縮されてます。
ほれ、今、ガッコーやらテストやらでキレかけてるから、アイツは。
イルカ先生が家庭教師だったら、そりゃ嬉しいよ!!!!!!
どんな勉強でもがんばっちゃうよ!!!