その26
 
 
 







カカシが術の取り込みを始めてから一刻ほどが過ぎた。

雨脚はいっこうに弱まらない。今のところ、山へ近づく気配もなく、イルカは結界周辺に気を張り巡らせていた。
見下ろす先には焼けこげた草原があり、黒い固まりは敵の忍の死体だろう。結構な数が転がっている。あの追っ手をよく振り切って走れたものだとイルカは今更ながらに思う。

カカシさんが信じてくれたから…かな…

二人で里へ帰るのだと言ったカカシは力に満ちていた。だったら、今度は自分がカカシを信じよう。術を取り込み、無事な姿を見せてくれるに違いない。

「オレ達、一緒に帰るんですよね…」

激しい雨に打たれながら、イルカは小さく呟いた。その時だ。パン、と空気に割れるような衝撃が走った。

終わったっ。

イルカは身を翻し、カカシの元へ走った。結界はすでに解け、術を抜いた空間に周囲の気が流れ込みはじめている。

「カカシさんっ。」

カカシは斜面にぐったりと倒れ伏していた。

「カカシさん、カカシさんっ。」

抱き起こすとわずかに目を開けた。

「カカシさんっ。」
「だ〜いじょうぶ、成功だぁよ。」

掠れた声でそれだけ呟くと、カカシは目を閉じた。イルカはカカシを担ぎ上げた。急いでここを離れなければ。ごぉっ、と地鳴りがする。雨で地盤が緩んでいるところに、力のバランスが崩れたのだ。斜面がぐらぐらと揺れ始めた。イルカは足にチャクラをため、一気に跳んだ。木々の梢を踏み台に隠れ小屋のある尾根まで必死で跳ぶ。安定した地面に着地した次の瞬間、轟音とともにさっきまで二人がいた山の斜面が崩れ落ちた。巨大な地滑りに麓に転がっていた敵忍の死体も何もかも飲み込まれる。

「任務完了。」

ホッと息をつき、イルカはカカシを抱え、隠れ小屋へと向かった。




☆☆☆☆☆



激しい雨は三日間降り続き、あちこちで土砂崩れを引き起こしていた。カカシとイルカが帰ってこないので、元締めと警察と、両方が捜索隊を組んだが、北の山は地鳴りがやまず、危険だということで入る事ができなかった。
四日目、ようやく雨があがり地鳴りも収まった北の山へ捜索隊が入った。大規模な土砂崩れのせいで、山の斜面は形が変わり見る影もない。膝まで泥に埋まりながら、捜索隊が山の中腹まであがったとき、どろどろになった男がよろめきながら歩いてくるのを見つけた。

「イルカ先生っ。」

元締めが叫ぶ。泥だらけの男がハッと顔をあげ、それからがっくりと膝をつく。

「イルカ先生だ、先生がいたぞっ。」

泥をかき分けるようにして寄ってきた捜索隊にイルカは必死で手を伸ばした

「兄が…」

くしゃりと顔を歪める。

「兄が土砂に…助けて…」

イルカは捜索隊の面々にすがりついた。



☆☆☆☆☆☆



隠れ小屋にたどり着いたイルカは、意識のないカカシの体を拭き、アンダーに着替えさせた。暑苦しく見えて、忍のアンダーは適度な湿度と体温を保てるよう工夫されている。普通の服を着るよりよっぽど着心地がいいのだ。着物は分身に着せなければならないので地面に固定し雨に濡らしておいた。

三日間、カカシは昏々と眠り続けた。イルカが丸薬と兵糧丸を飲ませるときだけ、うっすらと目を開けるが、またすぐに深く眠ってしまう。平熱で呼吸も安定しているから、体がひたすら回復しようとしているのだろう。丸薬と兵糧丸はカカシのための特別製だと火影が言っていた。
ばたばたと屋根を打つ雨音を聞きながら、イルカはただカカシの寝顔を眺める。穏やかな寝顔だ。そのことにイルカは安堵した。任務は終わった。後は手はずどおり、『うみのカカシ』の死を演出し、肉親の死を悲しみながら街をでていく弟を演じればいい。

そしてもう、関わることもなくなっちまうんだな…

一介の中忍が今後、写輪眼のカカシの任務に携わる事などないだろう。上司と部下ですらない、カカシは再び雲の上の人となり、イルカはアカデミー教師の試験を受ける。それを思うと、胸の奥がズキズキ痛くてたまらない。

でもアンタは、オレを死なせないよう必死になってくれたんだ。

カカシが素でぶつかってきてくれた。雨の中、思わずかわした口づけを思い出し、イルカは顔を赤くした。

カカシさんもきっと気が昂ってたんだろうなぁ…

カカシは情が深い。ほんの数ヶ月でも弟として一緒にいたイルカを見捨てられなかっただけだろう。己がカカシの特別になれると思うほど自惚れてはいない。

でも、ちょっとはカカシさん、空っぽな目になるの、なくなるんじゃなかろうか。ほんのちょっとかもしれないけど…

漠然とした確信があった。この街での出来事がカカシの背を押すのではなかろうか。そうだったらいい。あんな諦めた目をしないで、己の人生を掴んでくれたら、それだけでイルカは嬉しい。カカシの横に誰か知らない人が並ぶのは辛いが、自分がその場所に立てるとは思えない。何年かたって、風の噂にでもカカシが伴侶を得て幸せになっていると聞けば、この恋心も綺麗に昇華されるだろう。そうあってほしい。

「あ〜あ、オレも馬鹿な恋、しちまったよなぁ。」

カカシの寝顔を眺めながら、ぽつっとイルカはぼやいた。微かにカカシの口元があがったような気がしたが、寝息は規則正しい。イルカは未練たらたらな錯覚に己を笑うしかなかった。




四日目の朝、突然カカシがガバリ、と起き上がった。

「うわっ。」

枕元でうつらうつらしていたイルカは思わず椅子から転げ落ちそうになる。カカシはう〜ん、と伸びをした。

「あ〜寝た寝た。さってイルカ。」
「ははははいっ。」

こきこき首をまわしてから左目に額当てを巻き忍服のベストをサッと着込むと、カカシはおもむろに印を切った。死体の状態で分身を作り出す。

「捜索隊が山へ入る前にコイツを埋めるよ。最後の最後、ぬかりなくね。」
「はっはいっ。」

そこにいるのは遊び人でろくでなしの『うみのカカシ』ではなく、上忍、写輪眼のカカシだった。一抹の寂しさを感じながら、イルカは濡れてどろどろになった藍色の着物に着替えた。『うみのカカシ』の死体にも汚れた着物をきせる。カカシは証拠隠滅のために時限式の札を貼っていた。この小屋を離れてしばらくしたら地面ごと崩落させるのだ。大雨で地滑りが多発しているから不自然ではない。

「後はまかせたよ。」
「大丈夫です。愛しい兄を失ったっていう迫真の演技、おみせしますよ。」

ニカ、と笑うイルカにカカシは肩をすくめた。

「兄、ねぇ。」

分身を担ぎ上げたイルカの顔にスッと影がさした。え、と思う間もなく、ふわり、と唇に柔らかい感触が落ちる。

「カッカカカッ…」
「じゃ、仕上げしっかりね。」

カカシはニヤ、と口元をあげ、それから鼻まで口布で覆うと煙とともにかき消えた。イルカはしばらく呆然と突っ立つ。それから指を唇にあて、やっと事態を把握した。

「こっこっこっ…」

かぁぁっと顔が熱くなる。

「こんの、セクハラ上忍ーーーーっ。」

腹いせに分身の足を蹴飛ばしてから、イルカは山の斜面の土砂にとりあえず潜って捜索隊を待った。




そして今、その捜索隊にすがりついて、涙ながらに兄の救出を乞うているのだ。







 
 
 
任務完了、そしてイルカはもう一仕事。濡れた着物に着替えるのって、イヤだろうなぁ、忍者でも…