カカシは悶々としていた。
「カカッさんも肝が据わってやせんねぇ。せっかくあにさんが背中流してくれるって大チャンス、ふいにしちまうたぁ。」
横でのんびり顔を洗っていた子猫は呆れ顔でそれを眺めた。
カカシが風呂に入っているとイルカが中へ入ってきたのだ。一応アンダーの上下は身につけていたが、背中を流した後のご奉仕もついているとモロわかりの雰囲気で、焦りに焦ったカカシはなんとかイルカを風呂の外へ押し出した。そしてからすの行水スピードで風呂からあがり、居間で頭を抱えているのだ。
「昼間はあんなにアレコレ野望を膨らませてたじゃありぁせんか。早速実現するってぇ時に、なに及び腰になってるんで?」
子猫はヒゲを揺らして笑った。
「あっちのあにさんには一緒に風呂でイチャイチャしてぇとあれほど懇願してたじゃありやせんか。」
「そりゃそーだけどっ、オレもそのつもりだったけどっ。」
がば、とカカシは畳に手をついて子猫の前に顔を突き出した。
「やっぱダメ、こっちのイルカ先生に何かしちゃだめだーっ。」
「うへぇ。」
その勢いに子猫は後ずさる。
「オレのことはオレが一番よく知ってるの。こうみえて独占欲の塊なオレがだよ?たとえ自分だとしても、イルカ先生に手ぇ出したってわかったら流血沙汰、ま、こっちのオレがここへ戻ってくるってことはオレと入れ替わりだからオレとオレが顔あわすことはないけどさ、こっちのイルカ先生が嫉妬したオレに酷い目あわされたら困るじゃないのっ。」
そう叫んだ後、がくりと畳に突っ伏す。
「あぁぁ〜、でももったいなかった、あのイルカ先生がお背中流しますって、どんだけドリーム、あぁ〜〜」
「割切りゃいいでしょうに。あっしぁ邪魔するほど野暮じゃありやせんぜ?」
「それに元の世界に戻った時、オレのイルカ先生にあわす顔なくなるじゃないの。」
突っ伏したままカカシはもごもご言った。
「あぁ見えてイルカ先生、結構繊細なんだから。別な世界の自分だっていっても絶対傷つく。オレ、浮気したみたいになっちゃうでしょ。」
「あ〜、そうかもしれやせん。」
子猫は納得したとしっぽをたしん、と打ち付けた。
「一人でうじうじ悩むとこありぁすからね。あっしが一芝居うたなきゃカカッさんとくっつけなかったくらいでやすし。」
「……その節はお世話になりました。」
カカシは体を起こすと深々と頭を下げた。そしてまた頭を抱える。
「でもオレ、あんなたおやかなイルカ先生の色気に打ち勝てるんだろうか。もしかしてイビキの拷問よりキツいんじゃない?」
「確かに、こっちのあにさんはがさつじゃねぇっていうか、しおらしいせいか妙に色気がありまさぁ。」
「うわ〜、ヤバいよ、あれで迫られてオレ、耐えられるだろうかっ。」
悲鳴を上げたとき、カタン、と風呂場からドアの開く音がした。カカシの後、湯を使っていたイルカがあがったのだ。あわあわとカカシは慌て始めた。
「こっ是清、ちゃんと援護射撃してよ。」
「援護って、無茶言わねぇでくだせぇよ。」
「オレはオレが信用出来ない〜〜。」
イルカの気配が近づいてくる。
「カカシ上忍…」
「あ〜、湯加減どーでしたっ?湯上がりはハイッ、やっぱビールだよねビール…」
振り向き様ビールを差し出したカカシはそのまま硬直した。イルカはパジャマではなく紺色の無地の浴衣姿だった。湯上がりの上気した肌がなまめかしい。そのくせ、濡れた髪をおろした顔はどこか幼くて、そのアンバランスさが不思議な色香をたちのぼらせる。
「……!」
カカシは再び畳に突っ伏した。
「カッカカシ上忍っ。」
イルカが驚いて傍らに膝をつく。浴衣の合わせ目からむっちりとした太ももがチラリと見えた。
「ぐはっ」
鼻の奥が熱い。だがここで鼻血を吹くわけにも、ましてやおっ勃てるわけにもいかない。上忍の精神力を最大限にカカシはふんばった。子猫がちょこん、と鼻の前に座る。
「気の毒としか言い様がありやせんや。」
「……ほっといて。」
「カカシ上忍、大丈夫ですか、カカシ上忍。」
イルカはただおろおろと狼狽えている。
「上忍、ベッドへ、お休み下さい、上忍。」
今オレに触らないで〜〜
心の悲鳴をよそに、イルカは脇の下に体を滑らせてカカシを抱き起こした。当然連れていかれた寝室にベッドは一つしかなく、イルカと一緒の夜具に入るのは明白だ。自分を気遣うイルカに襲いかからないよう、カカシはひたすら七三分けのガイを思い出す。理性の限界への挑戦記録更新な夜になった。
翌朝の五時、イルカの寝ている間に慰霊碑へ行こうと思っていたのに、カカシがベッドを抜け出すとイルカも起きて来た。着替えを手伝い洗ったばかりの手甲をカカシの手にはめる。流れるような動作からこれがイルカの日常なのだとわかる。
マメでも器用でもない人なのにな…
カカシの世界のイルカは仕事は真面目だが私生活はおおざっぱだった。風呂上がりにトランクス一丁でビールをぷは〜、とやるような男だ。おそらく、この世界のイルカだって本質はそうかわらないのではなかろうか。現にここのイルカもカレーを定期的に食べないと気の済まない質だった。それが朝早くからかいがいしくカカシの身の回りの世話をやく。「世話役」という言葉が胸に刺さった。
「お食事は帰られてからになさいますか?」
ぼぅ、と考えにひたっていたらしい。イルカの声にハッとなった。
「あ…うん。」
「ではいってらっしゃいませ。」
玄関の狭い上がり框に正座したイルカは深々と頭を下げている。そんなイルカの態度が悲しい。カカシは膝をつくとその肩を優しく抱き起こした。
「カカシ上忍?」
面食らうイルカに微笑み、そっと唇にキスをおとす。
「すぐ帰るからセンセはまだ寝てて。早くに起こしちゃってごめんね。」
イルカがひどくびっくりした顔でカカシを見上げる。苦笑するとカカシは立ち上がった。ぴょん、と是清が肩に乗った。
「あにさん、朝飯はパンでも買ってきやすよ。カカッさんのいうとおり、それまで寝ていてもいいんじゃねぇですかい?」
きぃきぃとそう言う子猫にカカシは目尻を下げた。
「トーストとコーヒーが是清の朝食マイブームなんだよね。」
「コーヒーはブラックにかぎりやすよ。あにさんはすぐミルクをいれるからいけねぇ。」
「そうね、帰ってからコーヒーはオレがいれるよ。」
イルカはぽかんとしたままだ。カカシはひらひらと手を振ると外へ出た。
早春の五時はまだ薄暗い。カカシは胸一杯深呼吸をした。つい昨日までは梅の香りが漂っていたというのに、今はただ空気が冷たいだけだ。
「…ホントにここ、別世界なのね。」
「今更でさぁ。」
肩の上で子猫がしれっと言った。
「それよりいいんですかい?こっちのあにさんにキスなんぞしちまって。」
カカシは横目で子猫をちらり、と見る。
「キスくらい大目に見てよ。イルカ先生はイルカ先生なんだし、それに…」
子猫が首を傾げた。カカシはハァ、とため息をつく。
「可哀想すぎてさ、こっちのオレ、ホント、何やってんだろね。大好きな人にあんな寂しい思いさせちゃって。」
しらじらと明けはじめた東の空を仰ぎ見る。カカシの世界のイルカはどうしているだろう。おそらく入れ替わったのであろうこっちのカカシに戸惑っているだろうか。泣いてはいないだろうか。酷い事をされていないだろうか。考えれば考えるほど悪いことばかりが頭に浮かぶ。
「あっちのあにさんなら大丈夫でやしょ。」
カカシの心を読んだかのように子猫が言った。
「泣き寝入りするほどヤワなお人じゃありぁせんや。それに、あっちの乳ババァやヒゲならまかせても安心でやすよ。」
カカシは肩を竦めた。
「そだね、向こうにはたくさん仲間がいる。」
どうにもすぐ思考がマイナスへ向きがちだ。
「お前がいてくれてホント、よかった。」
「それこそ、今更でさぁ。」
得意そうに胸を張る子猫を指で撫で、カカシはゆっくりと慰霊碑に向った。道筋はカカシの世界とさほどかわらない。ただ、慰霊碑の周辺は公園のように整えられていてへんな感じだ。
慰霊碑の形はカカシの世界とかわらない。刻まれた名前をずっと辿っていった。知った名前が並んでいる。それもカカシの世界とあまりかわらない。
リンやオビトの名前を見つけた。指でそっと撫でる。この世界のカカシはリンやオビトとどんな関係だったのだろう。彼らはやはり死んでしまったのだろうか。こっちのカカシも写輪眼を持っているということは、やはり同じ経緯で死んでしまったのだろうか。
尋ねようにもそれを知る人はもう生きてはいない。火影岩には四代目が刻まれていたし、九尾の災厄も起こっているのだ。だが、何故三代目はこんなに身分制度を厳しくしたのだろう。そういえば昨日はイルカのことが気にかかって五代目の話半分で帰ってきてしまった。今日は腰を据えてこっちの様子を聞いてみよう。
「ま、オレが聞いたからって何が出来るわけでもないけどね、テンゾウ君。」
ポケットに手を突っ込んだ格好で目だけ繁みに向ける。
「監視しろって命令されたのはわかるけど、ちょっとくらいお話ししない?パン屋さんが開くまでの時間くらいさ。」
呼びかけても返事はない。子猫がヒゲを揺らした。
「愛想のない奴でやすね、ホントにカカッさん、あんなの可愛がってたんでやすか?」
「優秀なんだぁよ。」
カカシは苦笑する。
「ねぇ、こっちのテンゾウ、その気になったら姿みせなね。」
それだけ言うとカカシは慰霊碑に背を向けた。少し街をぶらついてみよう。カカシの世界と同じなら六時には馴染みのパン屋が店をあける。焼きたてのパン目当ての忍びが結構いて、早朝にもかかわらず客が多い店だ。
ゆっくりと坂を下り、阿吽の門に通じる大通りに出た。任務帰りの忍びの姿がぽつぽつ見える。
よく知った気配がしてカカシは思わず頬をゆるめた。ナルトだ。こっちのナルトも元気一杯火影になると騒いでいるだろうか。そうだったらいい。カカシはそっと気配を消してナルトの気配のある方へ近づいた。通りの向こうにお日様色の髪が見える。
「カカッさん…」
子猫が低く唸った。
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