「なんでまたそんなとこ行ったの。罰ゲーム?」
子猫が何故慌てているのか、カカシは首を傾げた。確かに死の森は危険な所だが、イルカとて中忍、大事に至るとは思えない。下忍が迷い込んだわけではないのだ。
「まぁ、罰ゲームにしても迎えに行こうか。もう暗いし…」
「カカッさんっ。」
カカシの言葉は遮られた。子猫が全身の毛を逆立てている。
「こっちの世界の死の森はあっちとは桁が違いやすっ。妙な結界が張ってあって、あっしぁソイツにはね飛ばされたんでやすよっ。あっしほどの化け猫がはね飛ばされる結界張らなきゃなんねぇほど、あの森ん中ぁ化け物だらけなんでやすっ。」
「うみのが死の森だと?」
アスマと紅がカカシの側に駆け寄って来た。二人ともひどく焦っている。
「上忍でもあそこは一人では入れねぇってのに、うみのは何で一人で行ったんだ。」
「はたけ上忍、いそがないとうみの中忍が危ないっ。」
さっとカカシの顔色が変わった。子猫を掴み上げると胸ポケットに入れそのまま駆け出す。紅とアスマもそれに続いた。ナルトも追いかけてくる。
「突然だったんでさ。」
ポケットの中から子猫がきぃきぃ叫んだ。
「中忍どもが飲み屋に集合してやしてね、あっしぁあにさんの邪魔にならねぇよう、隠れて様子を見てたんでさぁ。そうしたら、後から来た受付の中忍どもが、紅姐さんを取り合ってカカッさんとヒゲがやりあったって面白おかしく触れ回りやがって、姐さんはカカッさんの正妻狙いだとか、そらもう姦しくてでやすね。」
「なっ…」
カカシは唇を噛んだ。そんなにすぐ噂のタネにされるとは思ってもみなかった。しかもそのねじ曲がり具合はどうだ。抑圧された環境では人の心に悪意がまざりやすい。
「それでもあにさん、平気な顔をしてやしたんです。なのに中忍連中、紅姐さんが正妻になったらようやくカカッさんから解放されるからよかったなだの、お前もやっとお役御免だな、だの余計なこといいだしやがりまして、そしたらあにさん、黙って飛び出しちまったんでやす。」
己の迂闊さをカカシは呪った。この世界のカカシとイルカの関係は傍からみたら上忍による強制でしかない。周りにフォローをいれないまま、あちこち突ついて最悪の事態を引き起こしたのは自分だ。
「追いかけたんでやすが、森の入口の結界、忍びや妖獣用じゃなかったんでさ。あっしらみたいな化け猫や化け狐用でやして、陰陽師の仕業でやす。どうりでこの世界のあっしが木の葉に近寄らねぇわけで。」
子猫がポケットの中で萎れる。
「あっしがついていながら申し訳ありぁせん。」
「お前のせいじゃなーいよ。」
カカシはポケットの子猫を指で撫でた。
「オレが全部悪いんだ。」
走るスピードをあげようとするカカシの目の端にナルトが見えた。泣きそうな顔で走っている。帰れと命じても言う事を聞く子ではない。こっそり付いてこられるほうが危険だ。
「アスマ、紅、ナルトを頼む。オレは先に行くから、気配読んで後から来てくれ。」
「わかった。」
アスマがスッとナルトの横についた。カカシはそのまま先に駆けた。子猫を両手で包み込んで庇いながら森の入口を抜ける。入ってしまえば大丈夫とばかりに、子猫はすぐに肩に飛び移った。
森の中は恐ろしいまでの妖気に包まれていた。これはカカシの世界の森と全く違う。
「あにさんは丑寅の方角でやす。」
生き物の気配に満ちていてイルカの気配を探るのに四苦八苦していたカカシの耳元で子猫が叫んだ。
「さっすが、二百歳の化け猫。」
「当然でやす。」
枝を蹴りカカシは走る。急がなければ、この森はヤバい。早く見つけないとイルカが危ない。
「カカッさん、あにさんの側にでっかい妖気が、やっかいでやすよコイツぁ。」
背筋を冷たいものが走った。イルカを死なせるわけにはいかない、絶対に。
ザッと繁みを抜ける。視界が開けた。イルカがいる。ぼんやりと草の上に座り込んでいる。その目の前に大きく口を開けた蛇が、鎌首をもたげたそれは里の本部棟と同じくらいの高さがあるだろうか、頭だけで三メートルはあろうかという大蛇がイルカを見下ろしていた。
「イルカ先生っ。」
イルカは動かない。
「イルカ先生、逃げてっ。」
蛇がゆらゆら鎌首を揺らしている。イルカはそれを見上げたまま逃げようとしない。夢中だった。瞬時にチャクラを練り手の平に集める。蛇の頭がイルカを飲み込もうとすさまじいスピードで上から襲いかかった。
「イルカっ。」
イルカと蛇の間に降り立ったカカシは、渾身の力で蛇の口に雷切りを叩き込んだ。轟音とともに青白い閃光が走る。カカシはそのまま体ごと蛇の口の中に突進した。バリバリと大蛇の体が裂ける。真っ二つになった大蛇が血飛沫をあげながら左右に吹き飛んだ。裂けた蛇の体が地面に落ちる寸前、カカシはイルカを抱えて跳んだ。蛇の血の雨など御免だ。それに毒でもあったら厄介だ。血は浴びないにこした事はない。イルカを横抱きにしたままカカシはさらに枝を蹴った。腕の中のイルカはどこかぼんやりとしている。
「カカシ。」
前方にアスマが姿を現した。カカシの腕の中のイルカをみて、そのまま体を返す。
「とにかく森を出るぞ。」
遅れてい走っていた紅とナルトに合図をしてそのまま森の入口めざした。途中、襲って来た虫や爬虫類をやりすごし、ようやく死の森の外へ出た。
「ふぁ〜、やれやれ。」
イルカを下ろしカカシもその隣に座り込んだ。
「ひでぇ森でやんした。」
ごそごそと子猫がポケットから首を出す。蛇を見つけた時、とっととポケットに避難していたのだ。目の前にアスマと紅、ナルトが降り立つ。ナルトはぺたり、と尻餅をついた。さすがにあの妖気は堪えたのだろう。
「アスマ、紅、ありがとね。二人が援護してくれたから無事抜け出せた。」
カカシがにこ、と目を細めるときまり悪そうにアスマがヒゲをしごいた。
「まぁ、お前ぇにゃ迷惑かけたからよ。」
紅がくすくす笑う。照れたアスマはウロウロと視線をさまよわせ、へたりこんでいるナルトの頭をこづいた。
「お前、鍛え方が足りねぇぞ。そんなんじゃ四代目に笑われる。」
「いっ今から強くなるんだってば。」
「おーし、ならオレが鍛え直してやろうか。」
「ゲッ、ヒゲまで先生かよ〜。」
ナルトは口をへの字に曲げながらもどこか嬉しそうだ。
「あにさん、怪我はねぇでやすか?」
ポケットから這い出し、子猫がイルカの膝元へちょこちょこ駆け寄った。イルカは俯いたままだ。
「先生、大丈夫?」
カカシも四つん這いになってイルカの顔を覗き込もうとする。イルカの膝に前足をかけ、子猫がきぃきぃ言った。
「びっくりしやしたぜ?あにさん、急に走り出して、また何で死の森なんかに入ったんでやす?もう少しで化け蛇に飲み込まれるとこだったじゃねぇですかい。」
「ホント、心臓が止まるかと思った。」
カカシがへにょ、と眉を下げた。子猫が小さな肉球でぱちぱちイルカの膝を叩く。
「あにさんがしっかりしてねぇと、カカッさん、使いモンになりやせんからね。」
「そーだよー。だから危ないことしな…」
「なんで…」
俯いたイルカが小さく呟いた。
「なんで助けたりしたんだ…」
絞り出すような声。
「あにさん?」
「イルカせんせ?」
俯いた頬に触れようとすると、肘ではらわれた。
「イルカせ…」
「何故死なせてくれなかったんだ、どうせオレを捨てるのにっ。」
顔を上げイルカは叫んだ。
「オレはお役御免なんだろう?捨てる中忍なんか助けるなよっ。」
乱れた髪の間から覗く黒目がぎらついている。壮絶なその表情にカカシは息を飲んだ。
「オレはただの世話役でもよかったんだ。あのままアンタの側にいられたらそれで…」
大きな黒い目にぶわりと涙の粒が盛り上がった。
「愛されてないことくらい百も承知だったよ。オレは男で、頑丈なだけが取り柄で、酷くしたって壊れねぇし孕みもしねぇもんな。都合がいいから世話役になってるんだって知っていた。」
パタリ、と涙の粒がこぼれ落ちた。
「でもオレは嬉しかったんだ。アンタが好きだったから、世話役でもいいから側に置いてもらえたら十分だった。それ以上は望んじゃいなかったんだ。なのにアンタはっ…」
イルカは拳を地面に打ち付ける。
「なんでオレのこと、恋人だって、家族だなんて言ったんだ。」
血を吐くようなイルカの声。
「そんな言葉、信じちゃダメだって、お遊びなんだって自分に言い聞かせても、アンタは繰り返し繰り返しオレのこと愛してるって言う。いきなり優しくなって、飯作ってくれたり…あんな優しいキス…」
パタパタと大粒の涙がベストにシミを作った。
「オレはバカだからつい信じちまったじゃねぇか。望んじゃいけない夢ってわかってたのに浮かれちまった。そうだよ、オレは勘違いしちまってたんだ。アンタに愛されてるんじゃないかって、すげぇ勘違い、はは、バッカみてぇ。」
イルカは震える手で顔を覆う。
「どうせ捨てるつもりなら変に期待させんなよ、勝手にオレの生活に入って来てさ、こちとら毎日必死だったんだ。ただの世話役だからアンタの心を期待しちゃだめだって自分に言い聞かせて、いつかオレに飽きてカカシ上忍がいなくなってもやっていけるよう必死で壁こさえてさ、なのにアンタはそれじゃ満足出来なかったんだな。オレん中、奥の奥までさらけ出させといて、それでお役御免ってか。もういい、もうたくさんだっ。」
「違…っ」
「オレを振り回して、オレがダメんなってくのがそんなに楽しいかよっ。」
「違うっ。」
「色んな奴が心配顔でオレに注進してくれた。世話役がその気になったら上忍様は捨てるんだって?現実を突きつけて木の葉の制度を再認識させてくださるそうじゃねぇか。ハッ、だから助けた?オレが死んだら惨めなとこ、見られねぇもんな。」
「誰がそんなこと…」
カカシは絶句した。
何故気付かなかったのだろう。カカシが人目もはばからずイルカをかまったのが気に入らなかったのか。そうやってイルカに親切顔した連中が悪意に満ちた言葉を吹き込んでいたのだ。
笑ってくれるようになったと安心していた、その隙をつくように、イルカの心に毒を盛った奴らがいる。ギリギリまで追いつめられていたイルカはたやすくその毒に冒されたのだ。
「聞いてイルカ先生。」
肩を抱こうとするカカシの手を逃れてイルカは身を捩った。
「触んなっ。もう嫌だ、アンタなんか」
「だから誤解、違うって。」
カカシは無理矢理イルカの体を抱きすくめた。途端に激しく暴れだす。
「おっ落ち着いてくだせぇ、あにさん、ホントに誤解なんでやすよっ。」
「うみの中忍、誤解なの。はたけ上忍は私と猿飛上忍のことを心配してくださっただけで、本当に違うの。」
紅も膝をつく。
「うみの、カカシはお前を捨てたりしねぇよ。他の連中が何言ったか知らねぇが、コイツは本当にお前が大事なんだ。」
おろおろとアスマも困り果てている。
「だったらっ」
カカシの腕の中で暴れていたイルカがふいに動くのをやめた。
「だったらなんでオレを抱こうとしないっ。」
悲鳴のような叫びだった。
「アンタ、オレに触れようとしねぇじゃねぇか…」
イルカの心は限界だったのだ。愛情など微塵も感じさせない態度で手酷く抱いてきたカカシがある日突然優しくなって、なのに指一本触れようとしなくなる。不安と期待、両方に揺れ動いた心はとうに悲鳴を上げていたのだろう。
「イルカ…」
イルカは啜り泣いた。
「もう飽きたってアンタ自身が言ってるんだよ…」
言葉もなくカカシはただイルカを抱きしめる。何と言えばいいのだろう。何を言っても言い訳にしかならず、傷は深くなるばかりだ。
しばらくカカシの腕の中で啜り泣いていたイルカはのろのろと顔を上げた。両手でカカシの胸を押し体を離す。
「申し訳…ありません…世話役の分際で…」
黒い瞳は感情が削げ落ちて暗いウロのようだ。力なく草の上に座り、イルカは涙でぐしゃぐしゃのまま小さく言った。
「もう二度と…ご迷惑はおかけしません…」
口元に自嘲が浮かぶ。
「二度と…カカシ上忍の手を煩わせることは…」
カカシはたまらずイルカを引き寄せた。
「ごめん…」
イルカは抵抗しない。ただぼぅっとされるがままだ。切り裂くような痛みが胸を走る。
「ごめん、イルカ先生。」
ぎゅっ、と抱きしめる腕に力をこめた。ちゃんと話すべきだった。愛を囁けば全て解決するなどと安易に考えていた己が情けない。
「聞いて、イルカ先生。」
抱きしめたイルカの髪を撫でる。
「ナルトもアスマも紅も、聞いてくれる?オレの話、信じられないかもしれないけれど本当の話…」
ご意見番に知られて拘束されようがどうでもいい。今はイルカの心が大事だ。カカシは静かに話しはじめた。
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