是清万華鏡16
     
     
 



何事もなく日々が過ぎた。
イルカは次第に打ち解けはじめている。笑顔が増え、決して自分から口を開こうとしなかったのが、ぽつぽつではあるがアカデミーでの出来事や在学中のナルトのことを話すようになってきた。
子猫に対しては相変わらず『是清さん』で、それでも親愛の情を示している。元々子供や動物が好きな人だ。本当はもっとくりくり構いたいのではなかろうか。夜の方はあれこれ理由をつけてなんとか回避している。

「オレは先生への贖罪を込めて、心から伴侶なんだって信じてもらえるまで抱かないって願掛けしたの。だって、今まで体だけの関係って思ってたでしょ?だから、ね?」

そう言い訳しているのだが、イルカの潤む瞳をみるとよろめきそうになる。毎晩理性の限界を試されているようなものだ。夕べもイルカが悲しそうな顔をするものだから、うっかり襲いかかりそうになった。向こうのあにさんに怒られやすぜ、そう子猫が小さく警告してくれなかったら、本能に負けていたかもしれない。踏みとどまりはしたが、鼻血を噴いた。

「御願い、出血で死ぬからこれ以上オレを煽らないで…」

己のみっともなさに落ち込みながら鼻血を押さえたカカシに、イルカはどこかホッと嬉しそうな顔をした。本当に『願掛け』したのだと信じてもらえたらしい。結果オーライだ。情けねぇ上忍でやす、という子猫の呟きにはその後デコピンで応えておいた。



イルカとの関係が改善されていくにつれ、今度はいつ元の世界に戻れるのかという不安が頭をもたげてきた。こっちの世界に来てからもう二週間だ。だが相変わらず子猫はのほのんとしている。その姿を見ていると大丈夫だと思えるのだが、寿命の桁外れに長い化け猫と人間では、「そのうち帰れる」の基準が違うかもしれないとまた不安になる。そのうちが『十年後』とかでは困るのだ。

不安を押し隠しながらカカシはナルトの修行をしたり、綱手と話をしたりの生活を続けていた。任務には当然だがついていない。それについては綱手が、里の改善点をカカシと協議している最中だから任務に出さないと勝手に言い回っていた。

綱手は向こうの世界のことを聞きたがった。話をしているうちに、こっちの忍界大戦はカカシの世界よりも随分早くに終結していることがわかった。厳格で容赦ない三代目の方針で早くに終結したのだという。カカシは複雑だった。ここの厳格な身分制度や規則はろくでもないと思っているのに、そのシステムのおかげで戦争が早くに終わり、死傷者が少なくてすんだというなら、どっちがいいのかわからない。

「では、五代目の弟さんと、あの…」
「ん?ダンのことか?」

言いづらそうなカカシの言葉を綱手はあっさり引き取った。

「戦争は早くに終わったが、その後、弟もダンも病で死んだよ。タチの悪い流行病でな、里の忍びや里人もたくさん死んだ…」

綱手の口元に寂しそうな笑みが佩かれた。

「そうか、お前の世界の私もダンとは恋仲だったのか。」

カカシは何も言えなくなった。戦争で弟と恋人を失い、傷心のまま里を出た向こうの綱手と、病で失い,里で医療忍術を極めようとしたこちらの綱手、どちらがどう、などと第三者が言えるはずもない。気まずそうに黙り込むカカシの肩を、だが女傑は豪快にバシバシと叩いた。

「お前が落ち込むことはない。それに、お前の世界では戦争で死んだ者達がこっちでは病で死んでいる。別世界といっても、ある程度共通した流れのようなものがあるな。」

ひょい、とカカシの隠された左目を指差す。

「お前のその写輪眼、戦争の真っただ中でうちはオビトは死んだのだな。確かにこっちでは戦争は終わっていたが、忍びの任務なんてものは死と隣り合わせだ。全く同じ状況でこっちのオビトはお前に写輪眼を渡しているよ。ただそれが戦争中かそうでなかったか、だけの話だ。」
「そうですか…」
「だから暗くなるな。」

またバシン、と叩かれた。こっちの綱手も馬鹿力だ。

「お前のオビトと同じようにこっちのオビトもカカシと親友だよ、そしてこっちのお前も誠心誠意、生きてきたんだ。まぁ、お前ほどチャラチャラはしてないがな。」
「……なんです、チャラチャラって。」

むっと口を尖らすカカシを面白そうに綱手は眺める。

「ところで、今日はあのちっこい雑巾、どうしたんだ?」
「雑巾って、是清ですか?」

灰色や茶の混じった毛色はやはり雑巾にみえるのか、カカシはここに子猫を連れてこなくてよかったと内心胸を撫で下ろす。

「是清はイルカ先生にくっつけてます。今日はアカデミーが引けたらすぐ懇親会に行くっていうから、ま、変な虫がつかないようお目付役で。」
「お前…」

どこか呆れたようにじろじろ見られた。

「なっなんですか。」
「お前、スカした顔してもしかして嫉妬深いのか?いや、スカしてたのはこっちのカカシなんだがな。」
「わっ悪いですかっ。男はみんな、独占欲の塊なんですよっ。」

カカシはむすっと言い返し席を立った。どうにもきまりが悪い。

「これからナルトに修行つけるんで、オレはこれで。」
「照れたのか。案外可愛いねぇ。」

カラカラと笑う女傑は、最初の頃よりなんだか雰囲気が柔らかい。

「テンゾウがどこかにくっついてるだろうから、必要ならこき使っていいぞ。」
「そのつもりですよ。っつかテンゾウ、お前もいい加減、出ておいでよ。」

声をかけるが相変わらず返事はない。

「二週間もがんばるねぇ。」

首を振りつつカカシは執務室を辞した。受付棟の中庭でナルトと待ち合わせしている。昨日からの任務はもう終了しているはずだ。今回の隊長は夕日紅だというから心配はなかった。報告を終えた紅がいたら、ナルトと三人で昼飯を食べてもいい。最初にランチを奢ってから、何度か一緒に昼食をとった。紅も随分うちとけてきてくれたと思う。アスマのことはまだ踏ん切りがつかないようだが、気性のきっぱりした女だからそのうち道を開くと信じている。

「どっちかというと問題はアスマだよねぇ…」

どうもこっちのアスマはいい子ちゃんで困る。父親に反抗して里を飛び出すなんてこともやっていない。

「まぁ、そんだけ三代目が凄まじかったんだろうな…」

あの穏やかだった三代目が、こっちではどんな修羅を見たのだろう。厳格な身分制度を定めて木の葉をまとめ、国力をあげて戦争に勝利したのだから、やはり偉大な里長ではあるのだ。
だが、こんな制度を定めなければならないほど、あの優しい人を追いつめたものは何だろう。晩年は苦悩の色が濃く、人を遠ざけていたという。笑って逝けたのだろうか。考えても詮無い事とは思っても、偉大だった里長の胸の内を思えばカカシも苦しくなる。
九尾の事件で四代目が早世しなければもっと安らかな晩年を迎えられただろうに。四代目は身分制度の緩和や里の改革にとりかかっていたのだそうだ。そして、志半ばで逝ってしまった四代目の忘れ形見は、この冷たい里でいまだ仲間を持てずにいる。

「あ、ダメダメ、どーもダメだね。」

カカシは頭を振った。肩に乗った子猫が茶々いれてこないと、自分だけでは暗い方向にすぐ考えがいってしまう。中庭に出てカカシは深呼吸した。ようやくこっちの里の梅も七分咲きになり、冷たい大気に甘い香りを漂わせている。

「今夜はイルカ先生いないし、紅とアスマ誘って飲み、行ってみようか…」

中庭の待ち合わせ場所に足を向けた。ナルトの金髪がキラキラしている。隣にいるのは紅だ。紅はナルトのおしゃべりをにこにこと聞いている。カカシはほっこりと胸を温かくした。こうやって少しずつ、変わっていけないだろうか。カカシの力など微々たるもので、連綿と続いて来たここの風習や制度をどうこうできるはずもない。そんなことは百も承知、だがそれでも小さな何かが変わってくれないだろうか。カカシの大事な人達が、これまでとは違う生き方の可能性に気付いてくれたら、そこから変わっていけないだろうか。少しずつ少しずつ…

「お前の口から火影になるってばよ、って言葉を聞きたいよ。」
ナルト…

小さく呟くとカカシはことさら明るい笑顔を作った。

「おーい、ナルト。もう終わったのかー?」
「あ、カカシせんせー。」

ぶんぶんと金色の子供が手を振る。カカシの世界のナルトと変わらぬ呼びかけが感慨深い。紅がペコリ、と会釈した。

つつましい紅ってのも別な意味で感慨深いー

ふっと目頭を押さえる。ホント、魔女のようなあっちの紅に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

「どうしたんだってばよ、カカシ先生。」
「あ、いや、」

駆け寄って来た金髪をくしゃりとかき回す。

「お前に先生って呼ばれるの、いいな〜って思ってね。」

それからヒラヒラ紅に手を振った。

「今日はイルカ先生、飲み会で遅いのよ。だから紅、夕方飲みにいかない?」
「お供してもよろしいですか?」

にこ、と紅は嬉しそうだ。こっちの紅も酒豪だというのは今までの雑談でわかっている。

「ん、オレはナルトにご褒美の一楽、奢ってから合流するからさ、アスマ誘って酒々屋で待っててよ。時間、七時でいい?」

パァ、と紅が頬を染めた。

「ちゃんとアスマ、誘ってよ。夕方暇ってのはわかってんだから、オレが絶対来いって言ったとかなんとか、ね?」

ダメ押ししてからナルトと演習場へ向う。こっちの自分とイルカが上手くいってほしいから、アスマと紅にも身分違いなどくだらないものを乗り越えて欲しいのかもしれない。

我ながらお節介だぁね。

カカシは一人、苦笑いしていた。





 

ナルトの修行を終えたのはほぼアカデミーの終了時刻と同じ頃だった。もしかしたらイルカの顔をみることが出来るかもしれないと、近道と称してカカシは本部棟からアカデミーに通じる裏庭を歩いていた。隣ではナルトがラーメンラーメンと大騒ぎだ。ラーメン一つでゴムまりみたいに跳ねるナルトが、わきまえがあるなどと皆から評されていたとは、どれだけこの子は我慢をしてきたのだろう。なまじ四代目の息子と公になっているせいで名前に縛られてしまったのか。ナルトが明るく笑えば笑うほど不憫でならない。

「今日はチャーシューじゃなくてタンメンにしなさいよ。野菜は大事だぁよ?」
「えー、野菜は餃子に入ってるってば。やっぱチャーシューないとラーメンじゃないってばよ。」
「お前ね、餃子付きってのは決まりなわけ?」
「あったり前だってば。」

たわいない軽口を叩き合っていたときだ。言い争う声が聞こえた。続いてバシっという音も。

「……あれ?」

繁みの向こうをうかがう。

「夕日上忍と猿飛上忍だってばよ。」

確かに紅とアスマだ。だが険悪な空気が漂っている。

「どしたの?」

ハッと二人がこちらを見た。とりたてて気配を消していたわけでもないのに、気付いてなかったらしい。カカシはアスマの顔を見て思わず笑った。頬が赤い。ということは、今のバシッというのはアスマが叩かれた音か。

「ビンタ?なっさけないねぇアスマ、なに、姐さんの機嫌損ねちゃったわけ?」

思わずいつもの調子でちゃかす。だがアスマはツカツカとこちらへやってきた。なんだか鬼気迫る顔だ。

「え〜っと…アスマ?」
「おい、カカシ。」

ずい、と胸ぐらをつかまれる。

「うわわ、なになに、そう髭面寄せられても怖いだけなんだけど。」

イルカ先生なら大歓迎だけどね〜、と両手を万歳させるが、アスマの手は弛まない。

「今、夕日紅を正式にオレの愛妾にするよう手続きをとってきた。」
「へ?」
「これ以降、紅にちょっかいかけるな。いくらトップの上忍でも他人の愛妾には手、出せねぇはずだ。」
「……はい?」

愛妾?手続き?ちょっかい?何を言われているのかピンと来ない。

「勝手な事言わないで下さい。猿飛上忍。」

紅がずい、と割り込んで来た。カカシの胸ぐらを掴んでいた手がはずれる。ギッと紅はアスマを睨みつけた。

「私は了承した覚えはありません。」
「カカシの愛妾にはなるっていうのか。コイツは男の世話役がいるんだぞ。」
「はぁーっ?」

なんでここで自分の名が出てくるのだ。

「ちょっ…話、見えないんだけど。」
「はたけ上忍は私にそんな申し出などなさっていません。」

紅から憤怒がたちのぼった。

「だいいち、はたけ上忍に失礼ですっ。」
「やっぱりカカシを庇うんだな。しょっちゅうカカシと会っておいてしらばっくれるな。」
「はたけ上忍とはただ食事をしながら術や任務の話をしているだけです。」
「男が下心なく女を飯に誘うかっ。」
「え〜っと、あのぅ、お二人さん、オレ関係ない…」

カカシそっちのけで言い合いがはじまっている。

「カカシ先生。」

ナルトが困ったようにカカシを見上げた。

「なんか、すごい誤解してるみたいね…」

カカシも首を振る。下忍とはいえナルトはまだ子供だ。大人の、しかも上忍同士の言い合いは刺激が強すぎるし見せたいものじゃない。

「ちょっと、お二人さん、いい加減にしなさいよ。いい大人が子供の前でみっともない。」

睨み合う二人の横でハタハタと手を振った。

「なに誤解してるか知らないけど、オレにはイルカ先生って大事な人がいるんだから愛妾なんて持つわけないでしょ。第一アスマ、それ、紅に失礼じゃない。とにかく、落ち着きなさいよ。」
「白々しいな。」

アスマが目をぎらつかせた。カカシは僅かに目を見開く。こんなアスマは見た事がない。

「アスマ?」
「上忍が世話役一人で満足するわけがないだろう?」

吐き捨てるように言う。

「そろそろお前、うみのに飽きてきたんだろう?ずっとあの中忍一人で我慢してたからな。」
「ちょっと、アスマ。」
「今まで紅なんぞ眼中にないってツラしてやがったのが急に優しくなりゃ女は靡くってか。さすがは写輪眼だ。そっちも業師ってわけかよ。」
「アスマ。」
「あぁ、そうか。そういうことか。写輪眼のカカシは高名だが家のしがらみはねぇからな。紅、お前でも正妻になれるってことか。」
「アスマッ。」
「そりゃそうだよなぁ。愛妾じゃなくて正妻になれんなら、しかも相手が写輪眼のカカシとくれば…」
「いい加減にしろっ。」

次の瞬間、アスマは吹っ飛んでいた。カカシが殴り飛ばしたのだ。アスマとて三代目の息子でありトップクラスの上忍だ。だが、その男が反応できないほど、カカシの動きは速かった。

「見損なったよ。アズマ。」

カカシは本気で腹を立てていた。なんだか、カカシの世界のアスマを侮辱されたような気分だ。

「こっちのアスマがこんな器の小さい奴だったとはね。」

眼光鋭くアスマを見下ろす。

「アスマ、お前の惚れた女は、上忍の正妻になるため好きでもない男にホイホイ付いていくような、そんな女だったわけ?」

アスマの目がぎくりと揺れた。

「自分が紅のどこに惚れたのか、もう一度思い出してみれば?つまんない嫉妬で目を眩ませてんじゃなーいよ。だいたいね。」

カカシは吐き捨てた。

「アスマは絶対にお前みたいなことは言わない。アイツは紅を包み込むように愛していた。そしてアイツとオレは友達だ。もしオレの世界で似たようなことがあったとしても、煽られて嫉妬したとしてもだよ、アイツはオレにお前みたいなことは言わない。アスマはお前みたいな卑屈な男じゃないんだよ。」

凍てつくような目でアスマを眺める。

「ま、こっちのオレはどうやらお前の友達じゃなかったらしい。」

ナルトが横で途方に暮れていた。カカシはぐしゃぐしゃと銀髪をかき回す。子供の前でこんな醜態さらして、この世界が心底嫌になる。

「ラーメン食いにいくぞ、ナルト。こんなグダグダな大人はほっとけ。」

わしわしと金髪をかき混ぜると、ナルトはぎごちなく笑った。ぽん、と肩を抱いて、それから紅に声をかける。

「姐さんも一緒にラーメン食べよ。」

座り込んだままのアスマを一瞥すると踵を返した。こっちのアスマはそれなりの事情を抱えているのだと頭で理解していても、心がついていかなかった。




 
     
     
  煽りすぎていらぬ誤解の種を蒔いてしまったカカッさん、当然イルカ先生の耳にも入っているのだよ愚か者めぇ〜