アカデミーのチャイムが終業を知らせると同時にカカシは職員室に走った。廊下を歩くと行き会う職員達がぎょっと顔を強ばらせる。怖がられてやすね、と囁く子猫に顔をしかめてみせると、職員室の前でそっと中をうかがった。教師達はそれぞれの机で仕事をしたり雑談したりしている。カカシの世界と同じで、イルカの席は窓際だった。
「イルカ、月末のアカデミーの懇親会、お前、どうする?」
名簿をはさんでいるのだろう、職員の一人がファイルを振りながらイルカに話しかけている。
「あ、それ、カカシ上忍に聞いてみないとわかんねぇんだ。今夜御願いしてみるよ。」
イルカの口調は家にいるときと大違いで、要はあっちのイルカとほとんど変わらない。それほど家では萎縮しているのかと改めてカカシは苦く思う。幹事であろう同僚が気の毒そうに首を振った。
「そっかー。お前、世話役だもんな。今、はたけ上忍って里にいるんだっけ?」
イルカが頷く。
「大変だよなぁ、気が休まんねぇよな、イルカ。」
イルカの隣の席の同僚がふと、何かに気付いてように言った。
「お前。だったらすぐ帰んないとヤバいんじゃね?残業続きだったこないだなんて、お怒り買ってたじゃねぇか。」
「仕事の持ち帰りは許してくれても、遅くなると怒るんだろ?」
「帰れ帰れ。待機所で殴られたって聞いたぞ?」
殴られた?誰にっ。
同僚の言葉にカカシは立ちすくむ。呆然としていると、イルカの声がした。
「殴るっていったってカカシ上忍はちゃんと手加減してくれるし、アレはオレが悪かったから。」
殴ったのってオレーーーーッ?
「カカッさんが殴ったんだそうで。」
「オッオレじゃないよっ。」
「だからこっちのカカッさんが殴ったんでやしょ?」
「……言わないで、立ち直れない…」
倒れそうになるのをなんとか踏ん張る。まだ同僚達は騒いでいた。
「まぁ、手加減してくれてんならいいけどよ。」
「本気で殴る上忍、多いからなぁ。ほら、憂さ晴らしにさ。」
「手加減してもはたけ上忍じゃ怖ぇよ。雰囲気冷たいし。」
「そうそう、笑ったとこ、見た事ねぇよな。」
皆、言いたい放題だ。イルカは困ったような笑みを貼り付かせている。カカシはよろよろとその場を逃げ出した。子猫がぺし、と頬をはたく。
「ここで逃げてどーしやす。ラブラブになるんでやしょ。」
そうだ、ラブラブになるため、職員室に迎えにいくつもりだった。笑って迎えに来ましたよと言って、仕事があるようなら先に飯を作っておきますねと言って、カカシがいつもやっていることをしようと思ったのだ。だけど、こっちのカカシがイルカに暴力をふるっていたとは。その事実に打ちのめされた。
「殴るなんて…」
背筋がぞっとした。ふらつくようにアカデミーの校舎を出る。西日の射す校庭ではまだ子供達が帰らずに走り回っていた。カカシの世界と変わらぬ風景、そうだ、この世界とカカシの世界の違いにばかり目がいって考えた事がなかった。だが、人間としての本質は案外変わらない。その証拠に、授業中のイルカの姿はカカシの世界のイルカと同じだった。紅だって気質はカカシの世界の姐さんと同じだ。だとしたら、自分の中にイルカに暴力をふるう何かが潜んでいるのだろうか。元の世界に戻った自分のイルカを殴る様が浮かんでカカシはぶんぶんと頭を振った。校舎の玄関、生徒用下駄箱の片隅にもたれる。三月半ばの夕暮れはまだ寒く、足下からしんしんと冷えてきた。
「ここは冷えやすぜ。」
肩の上の子猫が小さく言った。
「うん…」
だがカカシは動けない。イルカのいる職員室には戻れず、かといってアパートへ先に帰る気にもなれなくてただぼんやり突っ立っている。
「梅の匂い、しないね。」
「まぁ、こっちじゃ咲いてやせんからね。」
子猫がさらりと答えた。うん、とカカシはまた小さく頷く。
「イルカ先生、どうしてるだろ…」
「職員室にいたじゃありやせんか。」
「じゃなくて…」
カカシのイルカは今頃どうしているだろう。カカシの世界にはきっとここのカカシが飛ばされている。確証はないけれど、そう思う。だとしたら冷たい態度に傷ついていないだろうか。叩かれたりしていないだろうか。いや、まさか酷いやり方で抱かれたりしていたら。イルカの泣き顔が浮かんでカカシはぶるりと震えた。
どうしよう、イルカ先生が泣いていたら…
「カカッさん。」
ふに、と頬に柔らかいものが押し付けられた。子猫の小さな肉球だ。
「ぐるぐる落ち込んでいるとこ、邪魔してすいやせんがね、肝心な事忘れちゃあいやせんかい?」
「え…?」
横をみると子猫がヒゲをふるわせ笑っている。
「あのあにさんですぜ?こっちのカカッさんがどれだけ非道なお人か知りやせんけどね、大人しくしてるわきゃありやせんや。」
「あっ…」
カカシは目を瞬かせる。
「力ずくで何かしようもんなら、里中に響く声で騒ぐでやしょうねぇ。」
子猫はケラケラ笑った。
「周りは遠慮のないお人ばっかでやすし、騒ぎが起こりゃあどうなるか。」
「……大家のおばちゃんが真っ先に駆けつけてくるね。」
「隣近所の中忍連中も野次馬でお節介揃いでやすし、綱手のババアも駆けつけやすぜ?なんたって乳ババアの賭け事運握ってるあっしがいるんでやすから。」
「あ〜。」
カカシは頭をかいた。どうやら自分はこっちの世界の暗い部分にばかり目がいって、知らず思考が後ろ向きになっていたらしい。
「だよねぇ、あのイルカ先生がやすやすと殴られたりどうこうされるわけないねぇ。」
「里で評判のバカップルの夫婦喧嘩となりゃ、世間様もほっとかねぇでやすよ。」
「……お節介な里だもんね。ってことは、」
がばり、と下駄箱にもたれていた体を起こす。
「オレ、帰った時、かなり肩身の狭い思いするかも?」
子猫がまた笑った。
「今頃、カカッさんがおかしくなったって、里をあげて大騒ぎでさぁ。」
「ありゃ〜。」
それはそれでなんだか困る。がくりと肩を落とした時、バタバタとせわしない足音が廊下の奥から近づいてきた。見なくてもわかる。イルカだ。
「こっちのあにさんも忍者らしからぬ足音たてるお人でやす。」
「ホント。」
呆れ声の子猫に小さく同意してから、カカシは走りよってくるイルカにひらひら手を振った。
「イールカせんせ。」
「カッカカシ上忍っ。」
目の前までくると九十度に腰を折る。
「申し訳ありません。カカシ上忍がいらっしゃっていたと同僚に聞きまして、そのっ、私が未熟なばかりに気がつかずっ…」
「いーのいーの。先生がお仕事中だからここで待ってただけ。」
カカシは頭を下げるイルカの肩に手をかけた。びくり、と跳ねる体が寂しい。だけど自分がここにいる間は思いっきり優しくしたい。そしてイルカが少しでも心を開いてくれたなら、こっちの自分の態度も変わるのではないだろうか。
「お仕事残ってるならオレ、先に帰って飯の仕度しておくよ?大丈夫?」
頭をあげさせるとイルカがひどく驚いた顔できょとんと見つめてくる。可愛いなぁ、と思わずにやけた。
「いっいえ、その、仕事は…」
「じゃ、帰ろ。」
にこりとするとイルカが目に見えて狼狽えた。その顔を覗き込む。
「あ、買い物して帰ろうか。今日はオレが作るよ。何が食べたい?」
「カカッさん、あっしぁハンバーグがいいでやす。」
きぃきぃ子猫が叫んだ。
「お前には聞いてないでしょ。」
「あにさん、ハンバーグでやしょ。今夜はハンバーグにしやしょうや。」
イルカが急いで外履きサンダルに履き替える間、ずっとハンバーグと子猫は騒いでいる。
「わかったわかった。じゃあイルカ先生もハンバーグでいい?」
鞄を抱え直したイルカの手をきゅっとにぎる。
「あの…カカシ上忍…」
「スーパーに寄ってから帰ろうね。」
手を繋いだまま歩き出すと、イルカは戸惑いながらも素直についてくる。校庭で遊んでいる子供達がイルカをみつけて駆け寄って来た。
「あー、イルカ先生、手ぇ繋いでいる。」
「ホントだー、手つないでるー。」
斜め後ろを歩くイルカの手がみるみる熱くなるのがわかった。きっとまっ赤になっているのだろう。はやしたてる子供達にカカシは繋いだ手を振ってやった。
「そーだよー。恋人同士は手を繋ぐんだぁよ。」
「えー、上忍は恋人なのかー。」
子供はまだ無邪気だ。カカシは胸をはった。
「もっちろん。オレはイルカ先生の恋人だから、よろしくな。」
「じょっ上忍っ。」
イルカが焦る。
「こら、お前達、上忍に失礼なこと言うな。もう日が暮れるからさっさと帰るんだ。」
わいわいはやしたてる子供達を一喝する声はやっぱりイルカだ。カカシは思わず頬を弛める。わー、イルカ先生が怒ったー、そう騒ぎながら子供達は走っていった。
「あのっ、カカシ上忍、失礼なことを…」
「ん?」
しっかり手を繋いだままカカシはイルカに振り向いた。赤くなったり青くなったりするイルカが不憫で、愛おしくて、繋いだ手に力をこめる。
「だってホントのことじゃない。」
イルカの隣に並んだ。イルカはどこかぼぅっとカカシを見つめている。
「日が暮れるねぇ。」
繋いだ手が温かい。
「ねぇ、イルカ先生、梅が咲いたらお弁当作って花見しましょうね。」
花見をする予定だった。
「お天気のいい日ならあったかいし。」
イルカとカレーを食べて、その次の日は花見をしようと。
「ね、楽しいよ。」
あなたもこっちの世界のオレとそうやって過ごしてほしい。
肩の上の子猫は黙って空を眺めている。
沈みはじめた太陽が里を金色に染めていた。
|