憧れの人
 

イルカの忘れものを見つけたのは朝の十時頃、掃除機をかけている時だった。採点の終わった答案用紙だ。

「忘れちゃって、だめじゃない。」

カカシはその束を手に取った。

「遅くまでがんばってたのに。」

昨夜、カカシがイルカの家へ帰り着いたのは、真夜中に近い時刻だった。Sランクの任務を終え、着替えてからイルカの家へ帰ってみると、卓袱台の前でイルカが大量の答案用紙と格闘していた。

「明日の午後、生徒達に返すって約束してたんですよ。それがなーんか雑用に追われちまって。」

採点の手を止め、へへ、と鼻の傷をかきながらイルカは笑った。それから、おかえりなさい、と言って立ち上がる。

「腹減ってませんか?肉じゃがありますよ。」

台所へはいっていくイルカにカカシは慌てた。真夜中の帰宅だけでも迷惑なのに、これ以上余計な手間はかけさせられない。

「あ、先生、忙しいんでしょ。オレ、自分で…」
「いーからいーから。仕事帰りはゆっくりしててください。あっためるだけだし。」

ガスレンジの所まで飛んできたカカシを居間へ押し返し、コンロに火を点けると、イルカは冷蔵庫から作り置きのきんぴらを小鉢に移した。最近、帰りが不定期なカカシのために、イルカは必ず、煮物や作り置きのきくものを用意していてくれる。帰ってこなくても無駄にならないように、帰ってきたらすぐ食べられるように。

「ご飯、茶碗一杯分、よそいますよ。」

卓袱台に簡単な食事が用意された。

「いつもすみません、先生。」

イルカの心遣いがじんわりと胸を温める。イルカはにこにこ笑って、また採点に取りかかった。イルカはカカシに何も聞かない。何の仕事なのかとか、何故ここまで不定期な時間なのかとか。実は最初の頃、何度かイルカが聞きたそうな顔をしたことがあった。しかし、つい身構えたカカシの様子を察し、それ以来カカシのプライベートに触れようとはしない。。懐の深い人なのだ。そのことにほっとしつつも、やはり罪悪感がずしりとのしかかった。本当に、己の臆病さ加減に嫌気がさす。

「明日はオレ、休みなんで、晩ご飯作りますね。」

罪滅ぼしのつもりではないが、じゃがいもを頬ばりながらカカシが言うと、採点の手は休めないまま、イルカは嬉しそうに笑ってくれた。その答案用紙をイルカは忘れて出勤してしまったのか。

「届けに…いこうかな…」

イルカは忍だ。忘れ物を取りに帰る手間など、ないに等しいだろうが、それでも…

「うん、届けに行こう。」

写輪眼のカカシではなく、ただのカカシがアカデミーに届け物をする、それはなんだかわくわくする思いつきだ。カカシは急いで掃除機をかけおわると、答案用紙を紙袋にいれた。イルカは午前中一杯、授業が入っていたはずだ。早めに行ってこっそり覗いてみるのもいいかもしれない。イルカに借りている黒のパーカーをひっかけると、カカシは浮き浮きとアカデミーに向かった。



☆☆☆☆☆




カカシにはアカデミーの記憶がほとんどない。友達と遊んだ記憶も、教室で授業を受けた記憶も。気が付いた時には戦場を駆け回っていた。先生と呼んだ人は亡き4代目だけで、それだけになんとなくふわふわとした憧憬が「学校」というものにあった。

校門をくぐり、人目につかないよう中庭の木に登る。感覚をとぎすまし、あらゆる音や気配を拾い上げてみた。チョークのカリカリという音、鉛筆を使う音、調子はずれの笛は音楽室から、様々なトーンの教師達の声に子供の黄色い声が混じる。その中で一際溌剌とした張りのあるテノール…

あ、いた、イルカ先生。

カカシはイルカの声の方へ感覚を向ける。床を踏むサンダル音が不規則なのは手振り身振りで説明しているからだろうか、どっと黄色い子供達の笑い声、なにか冗談を言ったのだ。黒板に書く調子は、家の卓袱台で何かを書き付けるときのくせと変わらない。しゃーっ、とチョークが大きく鳴った。図面でも描いたのか、大切な所なのだろう、イルカの声に力強さが増す。カカシはその声に聞き入る。イルカの教室の空気に包まれ、どこか心の奥底がじんわりとしてきた。遠い記憶の彼方の、かさかさに乾いていた所にたっぷりの水気が与えられたような、そんな気分だ。午前中一杯、カカシは小さな生徒の一人になって、木の上からそっとイルカの授業に聞き入っていた。



昼食が終わった頃を見計らってカカシは職員室へ向かった。気配は変えていない。アカデミーの職員室なら馴染みの上忍達に会う気遣いもないし、写輪眼のカカシを直接知るものはいないからばれるはずはない。なにより、気配を変えたらイルカが不審に思うだろう。

ま、あのカッコで写輪眼のカカシと認識されてるようなもんだし…

ビンゴブッククラスの忍が揃いも揃って独特の装いをしているのは、ある意味目くらましなのだ。強烈な個性を見せつけると、それを取り去った本人自身は認識されにくくなる。今のカカシが良い例だ。素顔の自分に気づく者はいない。なんだか悪戯をしている気分でカカシはアカデミーの廊下を歩いた。生徒達が見慣れない私服の男を珍しそうに振り返る。やぁ、と笑いかけると、奇声をあげて逃げていった。

「ありゃりゃ。」

苦笑いしてその後ろ姿を見送っていると、前方から歩いてきた忍が声をかけてきた。

「失礼、アカデミーに何か御用が?」

教師なのだろう、出席簿と教科書を抱えている。年の頃はイルカと同じくらいだ。

「あ、イルカ…うみの先生の忘れ物を届けにきたんですが。」
「イルカの?」

茶色いくせっ毛のその忍は、何か思い当たったという顔でカカシを見た。

「もしかして、カカシさん?」
「は?はぁ。」

一瞬、カカシはぎくり、とした。写輪眼のカカシだと見破られたのだろうか。そういえばアカデミー職員は受付を兼務しているものが多い。だが、若い忍は親しみをこめた笑顔になった。

「やぁ、お噂はかねがね、っていうかね、イルカが勝手にしゃべりまくるんですよ、あなたのことを。」
「イルカ先生が…?」
「もうね、あなたの誕生日前の騒ぎなんて、見せたいくらいで…あ、職員室はこっちです。アイツ、たぶん今いるはずですから。」

そういえば、誕生日の夜、卓袱台を飾っていた花飾りや色紙の輪っかは、仲のいい同僚に学芸会のあまりを押しつけられたんだとイルカが話していた。

「じゃあ、あの花飾りや輪っか飾りの友達っていうのは…」
「気に入ってくれました?オレですよオレの発案。だってねー、イルカ、貴方を喜ばせるんだってそりゃーはりきってましたからね、ちょっとした手助けってヤツですよ。」

あっはっは、と豪快に笑うこの男は、明るく真っ直ぐな性根なのだろう、イルカと仲がいいというのがうなずける。

「おい、イルカ、お客さーん。」

ガラリ、と職員室のドアを開け、その同僚は大声でイルカを呼んだ。顔を上げたイルカがカカシを認め、ぱぁっと笑う。なんだかそれがくすぐったい。

お父さんに忘れ物届けにきた子供?いや、新妻とか?

たはっ、とカカシは内心、自分の考えに照れた。だけど、働くイルカ先生はなんだかカッコイイ。言葉を交わすのも普段と場所が違うせいか新鮮だ。
答案用紙を渡して帰る自分をイルカはずっと見送ってくれた。イルカの眼差しを背中に感じ、なんだか緊張して足がもつれそうになる。

オレってマジ上忍?

そんな自分がおかしくて、そして浮き浮きと幸せな気分だ。弛む口元そのままに、今夜はご馳走作っちゃおう、と小さく呟いた、その時…

「なにがご馳走じゃ。」
「わぁっ。」

キセルをくわえた三代目がカカシの横に立っていた。

「ささ三代目、びっくりするじゃないですか、突然。」
「気づかんおぬしがたるんどるのよ。だらしない顔しおって。」
「うっ。」

確かに反論できない。いかに相手が里長でも、全く気づかなかった上、飛び上がらんばかりの驚きかたをした自分は上忍失格だ。

「すいません…」

ガシガシと頭を掻くカカシに火影はやれやれ、と頭を振った。

「おぬし、イルカとの生活が楽しいようじゃな。」
「あ〜、それは…」

ヤバっ。

何故いつまでもイルカの所に居座っているかといわれたら言い訳できない。カカシは誤魔化すようにへらり、と笑った。

「いいんですか?アカデミーなんて目立つところで、素顔のオレに話しかけちゃったりして。」
「かまわん。里人との交流も火影の務めじゃ。」

それからキセルでぽかり、と頭を叩かれる。

「いてっ。」
「話を逸らそうとするでない、バカ者めが。」
「はぁ、すいません。」

カカシは肩を竦めた。

「で、三代目、こんなとこでオレを呼び止めるってことは、あれですか、件の上忍達の処分をそろそろイルカ先生に伝えるおつもりなんですかね。」

しばらく黙っていて欲しい、と頼み込んですでに三ヶ月あまり、潮時ということか。だが、三代目は怪訝な顔でカカシを見た。

「なんじゃ?イルカにはもう伝えておるぞ。」
「へ?」

反応の鈍いカカシに三代目はもう一度繰り返した。

「じゃから、上忍達の処分については、もう一ヶ月も前に伝えておるわい。イルカはおぬしに言わなんだか?」
「え…いえ…何も…」

どういうことだ?

カカシは混乱した。イルカはすでに上忍達の処分を聞いていると言う。だったら何故、カカシに話さなかったのか。だが、そのことを深く考える前に、カカシの思考は火影の言葉で吹き飛んだ。

「明日、おぬしはイルカに報告書を提出することになる。」
「え…っ」

カカシは息を飲んだ。火影はひらり、と任務書をカカシに渡す。

「火の国の都で明朝、列強を集めた式典が催される。国主の指名じゃ、おぬしの役割は九時から二時までの式典の間、国主の側に控えておること、まぁ、いわばお飾り任務じゃな。当然、定時に任務は終了じゃ。」
「でも、なんでイルカ先生ですか。明日は先生、アカデミーだけだったはず…」
「………おぬし、イルカの勤務を完璧に把握しとるようじゃの。」
「あっいや…」

カカシは焦った。

「やはりイルカの受付時間をはずして報告書を出しておったか。」
「……はぁ」

渋い顔の火影にカカシは小さくなる。

「イルカは明日、午後から夜中まで、受付任務についておる。ちと、トラブルがあっての、急遽イルカが入ることになった。」

つまり、二時に任務を終えたカカシの足ならば五時には里に帰り着くわけで、当然、ただの上忍任務なので受付所へ報告書を出す。よほどのトラブルがないかぎり、その日のうちに里へ帰り着ける任務だ。イルカに会うことは免れない。

「…えっと、任務のついでに都を見て回って翌日帰りとか…」
「たわけ。」
「いてっ。」

再びキセルでぽかりとやられる。

「そろそろ覚悟を決めよ。」

びしり、と言われ、カカシは俯いた。

「確かに、いかに素顔を隠しておろうと、直接相対せばイルカにばれよう、自分のかばった里人の「かかし」と「写輪眼のカカシ」が同一人物じゃとな。」

そのとおりだ。イルカの前で自分は気配を変えていない。イルカは中忍、簡単に見破られるだろう。それが怖くて、今までイルカの受付シフトを把握してまで会わないよう避けてきた。だが、火影の言うとおり、そろそろ覚悟を決めなければならない。そう、頭ではわかっているのだ。

「情けないのぅ。」
「……面目ないです…」

カカシは項垂れる。いったい自分は何をしているのか。

「惚れた相手ではさしもの写輪眼も臆病風に吹かれるか、はたけカカシも人の子よの。」
「……はぁ…は?」

思わず顔を上げると、火影のしかめっ面にぶつかる。

「あっあの、ほっ火影様…」
「まったく、里の暮らしに馴染んだかと思っておれば、まさかイルカに惚れよるとは。」

かぁっとカカシは耳まで赤くなった。

「いやっ、あのっ、さっ三代目、オッオレはっ…」
「イルカに可愛い嫁をとらそうと色々用意しておるところにのこのこ入り込みおって。」
「でっですからね、火影様っ…」
「手は出しておらんじゃろうな。」
「なななに言ってんですっ、告白もしてないってのに、手なんか出せるわけ…」

そこまで言って、カカシはますます茹で蛸のように赤くなった。これでは惚れていると白状したも同然だ。真っ赤になったカカシがあうあうと口ごもっていると、火影がふっと口元をあげた。

「のぅ、カカシよ。」

慈しみを湛えた眼がカカシを見つめる。

「まずは向き合うことじゃ。『写輪眼のカカシ』を含めたはたけカカシとして向き合わんことには何もはじまりはせん、それが恋であろうと友情であろうとな。」

カカシは何も言えない。火影の言うとおりだ。カカシはまだスタートラインにも立っていない。

「それを一番よくわかっておるのはおぬし自身じゃろうが。」
「……はい…」

項垂れたカカシに、火影の愉快そうな声が降ってきた。

「とっとと正体をあかしてイルカに振られよ。おぬしが側におると、イルカが見合いの話に耳をかさんで困る。」
「……え?」
「オレがカカシさんを守るんだー、とかなんとか、やっかい極まりないわ。」

火影は盛大に顔を顰めてみせた。

「えっと、あの〜…」
「いつまでもイルカの前で一般人のふりを続けるというなら、長期任務を覚悟せい。」
「そんな無茶苦茶、オレに一般人のふりしろって言ったの、火影様のくせ…いでっ。」

キセルの一撃を再び受けて、カカシは頭を抱えた。

「とにかく、わしはあれに可愛い嫁をとらせるでな、邪魔するでないぞ。」

くるりと踵を返し、肩越しに火影はにんまりとした。

「失恋した暁には屋敷へ泣きに来るがよかろう、好みの女達を用意してやらんでもない。」
「鬼ーーっ。」

カラカラと笑いながら、火影は執務室の方へ歩み去る。

「鬼ジジ、イルカせんせに嫁なんかとらせてたまるかっ。」

ぼそっと悪態をついた後、カカシはその後ろ姿に一礼した。里長の心遣いが嬉しかった。なんだかんだといって、火影はカカシの背を押してくれたのだ。気にかけてくれる。己の恋心がばれていたのは気恥ずかしいが、イルカへの恋慕を否定されなかったのがなにより心強い。

「……覚悟…きめなきゃねぇ…」

しかし、これがイルカと相対することとなると、途端に挫けそうになる。なかば途方に暮れつつ、カカシはアカデミーを後にした。澄んだ青空が目に痛かった。

 
カカシ、舅に励まされるの段?そして働くイルカ先生は格好良かったのでした(あくまでカカシにとって)