憧れの人
 

今日言おう、明日言おう、この次はこそは…

イルカが逡巡しているうちに、十月の声を聞き、そして木々の梢が錦に飾られる季節となった。二人で過ごす日々はもはや当たり前の日常で、少しずつ増えたカカシの私物も部屋の中でちゃんと居場所を定めている。ここまできたら、いっそ上忍達の処分の話をして、その上で今までどおりの共同生活を続ける提案をしようと思うのだが、どうにも切り出せない。家賃がもったいないから、ここは広くて一人で住むには部屋が余るから、なんとでも言い様があるのに、妙に気恥ずかしさが先にたった。

カカシの仕事は時間が不規則だった。数日泊まりがあるかと思えば、平日に二、三日、ぽこり、と休みがある。何の仕事をしているのか、一度イルカは聞いてみようとしたのだが、帰宅時間をにこやかに告げるカカシの顔を見ると何も言えなくなった。なんとなく聞くのが憚られる空気とでもいうのだろうか、イルカの思い過ごしかもしれないが、カカシのプライベートに踏み込もうとすると、時折感じる微妙な空気だ。だからイルカはまだカカシのことを何も知らない。

人のこと、詮索するもんじゃないよな。

イルカはそう思っている。己が無意識に知るのを避けているのだとは気づいていなかった。






それは秋晴れの気持ちのいい日だった。アカデミーの昼休み、昼食を終えた職員達は、各々午後の授業の準備をしたり談笑したりしている。

「あ、いっけね。」

やはり午後の授業の準備をしていたイルカが小さく声を上げた。今日、返す予定のテスト答案用紙がない。そういえば、夕べ採点を終えて卓袱台の上に置いたまま、鞄に入れ忘れたような気がする。

しょうがね、取りに帰るか。

こういうとき、忍は便利だとつくづく思う。ものの数分あれば、目的地を往復できるのだから。ただ、職員室に教頭がいたら一言声をかけなければならない。運悪く、教頭は机に座って書類をめくっていた。小言覚悟でイルカが立ち上がった時、同僚の呼ぶ声がした。向かいに座る仲のいい同僚だ。

「おい、イルカ、お客さ〜ん。」

それから同僚は意味ありげに笑って小指をたてた。

「すっげ美人なのな、お前のコレ。」
「は?」

首を傾げて戸口に目をやる。

「カカシさん。」

そこにはカカシが立っていた。はきふるしたジーンズとTシャツにイルカの黒のパーカーをひっかけている。イルカをみとめて、にこり、と笑った。

「イルカ先生、忘れ物。」

小走りに駆け寄ったイルカに、カカシは紙袋を差し出した。

「あっ。」

テストの答案用紙だ。

「今日返さなきゃいけないって、夕べがんばってたでしょ?」
「わ、助かりました。今、取りに帰ろうとしていたところだったんですよ。」

イルカが礼を言うと、カカシ照れくさそうにまた笑った。

「すみません、カカシさん、今日休みだったのに。」
「ん、でも、働くイルカ先生見られたから、ちょっと得しちゃった気分。」
「なっなに言ってんですか。」

ははは、とイルカは鼻の傷を指でかいた。こうしてカカシと職場で顔をあわすのがなんだか面はゆい。

「じゃ、イルカ先生、お仕事、ガンバってくださいね。」

夕飯楽しみにしてて、とカカシは片目をつぶり、職員室を出る。

「ありがとうございました、カカシさん。」

背中に声をかけると、カカシはひらひらと片手を振った。廊下を曲がって姿が見えなくなってから、イルカは自分の机に戻る。くすぐったいような、ほっこりと温かいような気持ちだ。

「あ〜、ニヤケてる。」
「っすね〜。」
「どわぁっ。」

向かいに座っていたはずの同僚と先輩女性教員が、いつのまにかイルカの両隣に陣取っていた。

「ニッニヤケてって、何…」
「あら、気づいてないわよ、この子。」
「新妻に弁当届けて貰ったような顔してたくせによ〜。」

イルカは真っ赤になった。

「アホ、弁当じゃねぇ、忘れてきた答案用紙を届けてくれたんだよっ。」
「ものの例えですよ〜、イルカせんせ。」
「新妻ってとこは訂正しないのね。」
「ちっがーうっ。」

両隣からの猛攻にイルカは赤くなったままブンブン首を振った。

「だからっ、カカシさんは友達だって、こないだからなんなんスかっ。」
「まだこんなこと、言ってる。」

女性教員が呆れたような声をあげた。それから、二人はずいっと椅子をイルカの方へ引き寄せた。

「ちょっと、あんな美人、うかうかしてたらあっという間にかっさらわれちゃうわよ。」
「イルカー、お前、奥手すぎ。」
「だから違うってっ。」

真面目な顔で注進する二人にイルカはきっぱり言った。

「カカシさんは大事な友人です。だいたい、あの人に失礼じゃないですか。」
「ふ〜〜ん…」

女性教員と同僚は顔を見あわせた。ふっと人の悪い笑みを二人は浮かべる。

「じゃあ、オレがあの人、口説いていいんだな。」
「え?」

同僚がにんまりした。

「あんだけの美形だし、感じのいい人じゃん。オレ、口説いていいだろ?」
「だめだっ。」

イルカは慌てた。だが、同僚は余裕の表情だ。

「なんでだよ〜。友達じゃねぇか、紹介してくれよ。オレって誠実だしお買い得な男だよ〜?」
「おっ男だろうがっ。冗談じゃねぇ、だいたい、お前が男イケたとは初耳だぞっ。」
「じゃ、私ならいいのね。年下の美青年なんて、久しぶりだわ〜。」
「だだだめですっ、年甲斐もないこと言わないでくだ…いでででで。」

女性教師にこめかみをぐりぐりとされ、イルカは悲鳴を上げた。

「年がなぁんですってぇぇっ。」
「すすすみません、オレが悪かったです、いだだだだ〜〜。」

ようやく解放されて、イルカは頭を抱え呻いた。細腕からは想像も付かない馬鹿力だ。新米の頃から、イルカは何かあるとくらわされている。

「今年で四十五、まだまだ一花も二花も咲かそうってアタシにいっぱしの口をきくんじゃないわよっ。」
「うわわっ、ごめんなさい、もう言いません、ってか、三花も四花も咲くとオレ、いっつも思ってますっ。」

もう一度くらわされてはたまらない。イルカは焦ってブンブンと手を振った。そこへ同僚がしれっと突っ込んでくる。

「オレも一花、咲かせたいからよ、イルカ、紹介してくれ、お前のカカシさん。」
「だめだっつってっだろっ。」

ぐわっとイルカが目を剥いた。

「なんでだよ〜、友達じゃねぇか〜。オレら、絶対幸せになっからよ。」
「だーれが『オレら』だ、だいたい、男同士なんて、子供も産めねぇような不毛なこと、あの人にさせられっか。カカシさんはちゃんと女房子供持って、幸せになんなきゃいけねぇんだ…いだだだだ〜〜〜〜っ。」

再び女性教師の万力締め付けがイルカのこめかみに炸裂した。

「なななんで〜〜〜……うぇっ。」

涙目で抗議しようとしたイルカは、びくり、と固まった。女性教師の目が怖い。

「海野。」
「はははいっ。」

この呼び方をされたときは、昔から怒られる時だと決まっている。

「女、ナメてるわね、アンタ。」
「えっやっ、何でっ。」

おたつくイルカに女性教師はビシィっと指を突きつけた。

「子供が産めない関係は不毛だってかい?ふざけんじゃないよ、アンタ、子供作るためだけに伴侶選ぶってんだね。」

いつもは上品な口調がぞんざいになっている。それは、この綺麗な人がマジに怒っている証拠だ。自分が怒られているわけではないのに、横の同僚まで竦んでいる。女性教師は長い黒髪を揺らすと、ふん、と腕組みした。

「アタシの死んだ亭主はいっつも言ってたもんよ。オレは子供が欲しいからお前といるんじゃない、お前自身が必要なんだって。」

ホント、いい男だったよ、とうっとり言った後、ぽつり、と呟いた。

「アタシは子供が産めない体だからねぇ。」

イルカと同僚はハッと顔をあげた。目の前で女性教師がにっこりと笑う。

「海野、アンタはちょっと頭固いからね。男だの女だの、あんまり考えなさんな。要はソイツのことが大切で、セックスしたいって思ったら恋なのよ。」
「セッ…みっ妙齢の女性がなんつうーことをっ。」

かぁっとイルカが顔を赤らめると、女性教師はころころと笑い声をあげた。

「年甲斐もないって言ったのは誰だった?」
「あ〜〜、オレです。」

降参、とイルカは両手をあげた。それから、情けないほど眉を下げる。

「すいません、変なことに拘って。でも、ホントにカカシさんはそんなんじゃないんです。大事な友達で…」
「だから紹介してくれって。」

懲りずに同僚が食い下がってきたとき、リンゴーン、と午後の予鈴が鳴った。

「おっと、授業だ。」

答案用紙と教科書を抱えて立ち上がったイルカが、ふっと動きを止めた。

「カカシさんに変なちょっかい出してみやがれ。」

上からじろっと同僚を睨め付ける。

「たとえお前でも許さねぇからな。あの人のことはオレが絶対守るって約束したんだ。」

イルカの気迫に同僚はコクコクと無言で頷いた。職員室を出ていくイルカを同僚と女性教師はどこか呆気にとられたまま見送る。

「……熱愛しちゃってるじゃない。」
「あれでまだ気づいてねぇってとこがすげぇ…」

二人は顔を見あわせ、再びため息をついた。

「泣く前に気づきますかね、あれ。」
「……イルカちゃん、泣くかも…」

ですよねぇ、と同僚が大きく頷いた。それから、上目遣いに女性教師を見やる。

「ところで、今から一花、二花、咲かせるご予定っておっしゃいましたけど。」
「そーよ、そのつもり。」
「その、二十ほど年下ってのも範疇にはいってます…かね…」

女性教師はにっこりとした。つられて同僚もにへっと笑う。

「男磨いてらっしゃい、若造。」

友の恋路を心配する男は、自分も見事に撃沈された。





☆☆☆☆☆




男だの女だの、関係ないか…

イルカは火影の使いを終え、家路をたどっていた。午後の授業が終わった後、暗部の薬師のために材料を調達して届けてきたところだ。午後の間中、女性教師の言葉がぐるぐるとイルカの頭の中で回っている。

『ソイツのことが大切で、セックスしたいって思ったら恋なのよ』

セックスって…

ふっとカカシの秀麗な面差しが胸をよぎった。どきん、と心臓が跳ねる。ぶんぶん、とイルカは首を振った。

カカシさんは大事な友人だろ。

カカシが大切だ。カカシには幸せになってほしいし、涙を流させたくないとも思う。だが、この思いは友情ではないのか。子供うんぬんを除いても、やはり男同士の恋人関係には違和感がある。これまでだってイルカが付き合ってきたのは女性ばかりだし、男にときめいたことなど一度もない。

「カカシさんとどうこうなんて、ありえねぇし…」

自分に言い聞かせるようにイルカは呟いた。

「友情だよ…」

あの二人が妙なことをいうから、変に意識してしまっただけだ。つまらないことを考えるくらいなら、今夜の晩飯の献立を考えた方がよっぽど建設的だろう。

「あ、夕飯、楽しみにっていってたっけ。」

仕事が休みだから、カカシが夕食の仕度をしているはずだ。急いで帰らなきゃ、とイルカは家に向かって走り出した。時刻は六時を過ぎた頃だが、辺りはすでに薄闇に包まれている。ずいぶんと日が落ちるのが早くなった。家々に灯がともり、夕餉の仕度の音や匂いが道路まで漂ってくる。実はイルカは、この時間帯が苦手だった。とくに、肌寒くなる季節はだめだ。一人ぼっちが身にしみて、ひどく寂しくなる。だが、今はどうだ。夕風は冷たいが、心の中はほこほこしている。家に灯をともしてくれる人がいるから、カカシがいるから。

今夜の飯はなんだろ。

イルカの口元には自然と笑みが浮かんでいた。



大きなムクゲの木のある家の角を曲がれば、イルカの家が正面に見える。すりガラスのはまった格子戸からオレンジ色の灯りが漏れていた。

「ただいま。」

玄関の引き戸を開けると、いい匂いが漂ってきている。

「おっかえんなさーい。丁度出来たとこですよ〜。」

居間からカカシの声がした。忍服のベストを脱ぎながら居間へはいると、卓袱台の上で鍋がぐつぐつ湯気を立てている。

「おわ、すき焼きですか。」
「ふふ、イルカ先生、お肉好きだから。」

取り皿を運びながら、カカシがにこり、とした。その笑みに思わずどきり、としたイルカは、慌てて鍋に目を移す。

「そっそりゃ嬉しいな。おぉ、旨そう。」
「さ、食べましょ。ビール持ってきますね。」

イルカは洗面所で手を洗いながら、どきどきする心臓を宥めた。熱くなりそうな顔もばしゃばしゃ洗う。

あいつらが変なこと言うから

「つまんねぇこと気にすんな、イルカ。」

ぱしん、と頬を両手で打ってから、イルカは居間へ戻った。


すき焼きはえらく豪勢だった。

「なんか、このお肉、すごくいいもんじゃないですか?」

一口食べたイルカが目をみはると、カカシがへへ、と笑う。

「ちょっと臨時収入あったんで、オレの奢りです。」
「わ、いいんですか?せっかくの臨時収入。」

イルカはぎょっとする。目を上げると、にこにこしているカカシの笑顔があった。

「イルカ先生が喜んでくれるのが一番ですもん。」

どきん、とまた心臓が跳ねる。

「あっありがとうございます…」

また頬が熱くなりそうだ。慌ててイルカは食べることに意識を向けた。肉やネギをほおばっていると、カカシがビールを注いでくれる。本当に気配りの細やかな人だ。その時、イルカははじめて、カカシの前にビールのコップがないと気づいた。

「あれ、カカシさん、飲まないんですか?」
「ん〜。」

カカシが困ったように首を傾げた。

「これから急な仕事、はいっちゃって。」
「あ…」

箸を止めたイルカに、カカシは慌てて手を振った。

「ほら、いつものことだし、気にしないでイルカ先生は飲んで。」

オレは食べるからさ、と箸をとる。最近、カカシには、夜、急な仕事が入ることが多い。イルカはふと、そのことを聞いてみようかと思った。

「あの、カカシさん…」
「ね、イルカ先生。」

箸を持つ手を止め、カカシは目を伏せた。

「オレが…」

そのまま、カカシは黙り込む。妙に空気がしん、となった。ぐつぐつと煮える鍋の音がやたらと響く。嫌な予感にイルカの胸が騒いだ。

「カカシさ…」
「イルカ先生。」

ふっと伏せていた目をカカシがあげる。色違いの瞳が真っ直ぐにイルカを見つめてきた。そこにあるひどく真摯な光にイルカはたじろぐ。

「オレ…オレね…」

カカシは少しためらった。何をいいたいのだろう、イルカはますます不安になる。さっきから、カカシの口調にどこか切羽詰まった響きがあるのは、イルカの気のせいだろうか。何か言わなきゃ、カカシが不吉なことを言い出す前に、イルカが何かを…
口を開こうとした矢先、カカシが必死な顔で言った。

「オレ、イルカ先生とこうやって飯食うのが好き。」

へ?

イルカは一瞬、ぽかん、とする。カカシは堰を切ったように続けた。

「今日も明日も明後日も、ずっと一緒に飯、食いたい。ただいまって言いたいし、お帰りってあなたを迎えたい。オレ、ずっと、ずっとイルカ先生と…」


な〜んだ。


イルカは胸を撫で下ろした。まるで別れでも切り出されそうな雰囲気に内心ヒヤリとしたが、そんなことだったのか。
たしかに、 常識的に考えても上忍達の処分がそろそろ出ていないとおかしい頃だ。処分が出たら、カカシがここにいる理由がなくなる。だが、共同生活にピリオドを打ちたくないという気持ちは、カカシも一緒だったのか。ただ、イルカと同じで、なかなか言い出せなかったのに違いない。ほっとしたイルカはにっこりとカカシに笑顔を向けた。

「オレも同じですよ。カカシさんと一緒に食べるとオレだっておいしいし。」

ようやく言える。

「オレね、前々から思ってたんですけど、カカシさん、いっそここで暮らしませんか?オレんち、一人で暮らすには広いから、部屋を使って貰えるほうがありがたいんですよ。食費も今みたいに出し合えば、結構浮きますしね。」

カカシが驚いたように目を見開く。イルカは安心させたくて、わざとおどけてみせた。

「それにほら、カカシさんの臨時収入でオレ、こ〜んな得しちゃってるし、ね?」

さ〜肉くおう、と鍋から肉をぽいぽいつまむ。ふっとカカシの顔が悲しげに歪んだ。ハッと手を止めた次の瞬間には、カカシはいつもの穏やかな表情に戻っている。

「あ、イルカせんせばっかりずるいですよ。」

カカシも箸を動かしはじめた。

「せんせ、焼き豆腐追加しましょうか。」

食事に専念しはじめる。いつも通りの食卓だ。あまりにいつもどおりすぎて、イルカは、カカシが一緒に暮らすという提案への返事をしていないということに気づかなかった。





食事の後かたづけまで終わらせ、カカシは玄関に出た。イルカは見送りに付いて出る。仕事にいくのに、カカシはいつも手ぶらだ。スニーカーに足を突っ込んで、それからカカシは、ふと、イルカに振り向いた。

「先生…」

どこか寂しげな、しかし凛とした眼差しでイルカを見つめる。

「イルカ先生、明日、オレは先生を、きっとひどく驚かせてしまうと思う。」
「え?」

イルカはきょとん、と目の前の青年を見つめ返した。色違いの瞳が切なげに揺れている。

「ごめん、今、オレには口に出す勇気がない。でも明日になれば、すべてわかるから…」

それからカカシはきっぱりとした口調で言った。

「食事の時言ったことは本当です。何があってもそれだけは信じて。」
「あの…カカシさ…」

にこり、と笑ってカカシは引き戸を開ける。

「いってきます、イルカ先生。」
「あっはいっ、いっいってらっしゃい。」

慌てて答えたイルカに、もう一度カカシは微笑むと、夜の闇に出ていった。ぽかん、とイルカは立ちつくす。玄関の常夜灯が白々とたたきを照らしていた。

 
だめじゃん、イルカ先生、カカシ、へこんでるよ。次はカカシの事情編、