憧れの人
 

月曜の昼休み、イルカはアカデミーの職員室から、ぼんやり校庭を眺めていた。子供達が元気な声をあげて駆け回っている。だが、イルカの目は子供達を見てはいなかった。

この一週間、ふと時間が空くと、いつのまにかカカシのことを考えている。今朝、カカシは仕事が入ったから、と言ってイルカの出勤時間にあわせて出かけていった。何の仕事をしているのか、イルカは知らない。カカシが話さないので、自分から質問しないのだ。忍の里には、色々な事情を抱えた人々が多い。カカシも十年、里を空けていたと言った。

長くはかかりませんから、夕食の買い物はしておきますね。

にこっと笑ったカカシの顔が浮かぶ。カカシを家に呼んでまだたったの一週間、それなのに、なんだかずっと一緒にいたような錯覚に陥る。それほどカカシはイルカの生活にとけ込んでいた。
カカシは万事、マメで堅実だ。風呂の残り湯をけして無駄にはしないし、特売で買ってきた食材も、例えば大根の葉っぱまできちんと料理して出す。イルカの居間には、ティッシュの空き箱に、新聞のチラシで折った『簡易ごみ箱』がぎっしり詰まっていた。すべてカカシがテレビを見ながら折ったものだ。
そんなふうにマメでかいがいしいのに、反面かなりののんびり屋でもあった。手際よく家事を片づけてしまうと、後は縁側に転がって本を読んでいたり、ぽけっと庭を眺めていたり。退屈なのかと見ると、そうでもない。何もせずまったりと過ごすのがカカシにとっては楽しいらしいのだ。

呑気な人だよなぁ…

昨日、おとといのことを思い出し、イルカは口元を緩めた。日曜日は、前日にかってきたコーヒーを淹れて、終日自宅でのんびりとしたのだ。土曜日はホームセンターのセールに行って日用品の買い出しをした。ふと、イルカはその時のことをおも言い出す。なぜだかカカシが秋植えの球根が欲しいと言い出した。

イルカ先生、チューリップうえましょうよ。赤や黄色のチューリップ。

園芸コーナーであれこれ球根を選びながら、チューリップって学校の花壇みたいでいいよね、とカカシが笑った。その笑顔はひどく無邪気なものでありながら、どこかしら悲しみの色が見え隠れして、イルカはどきりとする。カカシは時折、こういう笑い方をした。見ているこっちの胸が痛くなるような、ひどく切ない笑みだ。

もしかしたら…

イルカは思う。カカシという人は、もしかしたら自分なんかよりずっと多くの大切なものをなくしてきたのではないか。いつも穏やかに微笑んでいるから誰も気づかないだけで、本当はとても深い悲しみを抱えている人なのではないか。
庭に球根を植えながら、元気に咲くといいですねぇ、と目を細めた顔が胸に焼き付いている。カカシは何故、球根を庭に植えたがったのだろう。咲くのは春だというのに。

いや、別に春までいてくれたってオレは全然構わねぇけど…

そんな考えが浮かび、イルカは焦った。

アホか、オレは。

どこぞの美人の家ならばまだしも、ムサい独身男の家なんぞ、なにが悲しゅうて居続けなければならんやら。今は忍がらみのトラブルが起こっているから、イルカの家に居るだけだ。

カカシさん、イイ男だもんなぁ…

一般人にしておくにはもったいない程、いい体をカカシはしている。身のこなしも隙がない。男の目からみても立派な男ぶりだ。まだ里に戻っていくばくもないうえ本人がいたって呑気なので、彼女がいないだけだろう。
すぐに可愛い人が出来て、そうしたらカカシは、あんな切ない笑い方をしなくなるのだろうか。そうだといい、あの人に寂しい顔はさせたくない。

『イルカせんせと一緒にご飯食べるとおいしいね。』

あんな風にオレの名を呼んで、あんな顔して笑うから、オレは…


「なぁに?イルカ先生、悩ましげなため息ついて、恋煩い?」

突然声をかけられてイルカは飛び上がった。くすくすと笑いながら、年かさの女性教員がイルカの机にお茶を置いた。イルカのハンカチに目ざとく気づいて、彼女が出来たかと聞いてきた人だ。
さらさらとした長い黒髪の彼女は、年の頃は四十半ばだが、すらりとした美しい女性でである。十年ほど前、同じ忍だった夫を亡くしたそうで、以来恋人も作らず独り身を通している。新米の頃、イルカはずいぶんとこの人に世話になった。内心、姉のように慕っている。

「えっえぇっ?ちっ違いますよっ。こっ恋煩いなんて、相手もいないのに…」
「あら、それにしてはずいぶんと色っぽいため息だったわよ。」
「色っぽ…」

イルカは絶句した。カカシのことを考えて色っぽいと言われてはなんとも複雑だ。

「とと友達ですっ。友達っ。」
「はいはい、ムキになっちゃって。」

ひょい、とおやつのせんべいを渡され、まるっきり若造扱いだ。実際、彼女にとってイルカは若造なのではあるが。

「友達が恋人になりそうだったら、いつでもお姉さんに相談なさい。」
「なりませんよっ。」
「はいはい。」


その時、教頭が慌ただしく職員室に入ってきた。

「先生方、そのまま聞いてください。緊急事態です。」

教頭は緊張も露わに言った。

「たった今、本部より連絡です。特別病棟から脱走した忍がいます。薬と術のせいでまともではありません。しかも…」

焦りが声に滲んでいる。

「現役暗部なうえ、チャクラに反応する起爆札を体に貼ったままだとかで、非常に危険です。暗部と上忍の方々が捕縛に向かっていますが、巻き込まれる恐れがあり、里には外出禁止命令がだされました。すぐに子供達を講堂に集め、全員で結界を張ってください。急いで。」

教員達はガタリ、と席を立ち、四方へ飛ぼうとした。突然、校庭の方からすさまじい殺気がふくれあがった。子供の悲鳴が響く。

「生徒がっ。」

校庭の真ん中に、異様なチャクラを立ち上らせた男が立っている。片手に子供を掴んでいた。女性教員が窓から飛び出した。イルカもそれに続く。だが、二人ともすぐに暗部に止められた。

「私のクラスの子よっ。」
「近づいてはだめだ。少しでも刺激すれば、起爆札が爆発する。」

子供を掴んだ男の半径五百メートルほどはぽっかりと空いている。暗部と上忍達が全員避難させ、取り囲んでいるが、手負いの獣のように感覚のとぎすまされた男に近づくことが出来ない。

「しかし、あの子がっ。」

ぐっと体を乗り出したイルカを暗部が再び押しとどめた。

「ヤツを刺激するな。少しでも敵意を感じたら、ヤツは自爆するつもりなんだ。」

どんなに腕の立つ忍でも、相手を攻撃するときには気が満ちる。たとえ完全に気配を消しても、殺意がなくても、何か働きかけようとするとき、気が動くのだ。

「ヤツの感覚は今、尋常ではない。少しでも自分に気が向かえば、それを敵意と感じてしまう。アンタ方は下がっていてくれ。」

暗部の声に切羽詰まった色が滲む。手の下しようがないのだろう。イルカは唇を噛んで、校庭の真ん中に立つ男を見つめた。
殺気を放ってはいけない。
苛立つ心を抑えるべく、拳を握る。残暑の太陽が校庭に照りつけ、男の殺気はますます膨らむ。子供は恐怖で泣くことすらできない様子だ。

「あぁ…」

女性教員が顔を覆った。その体をイルカは支える。男が疲れ果てるのを待つしかないのか。しかし、この暑さだ。その前に子供がどうにかなってしまう。その場にいる全員が動くこともかなわず、固唾を飲んでいた。

ふぅっと空気が揺れた。ハッと見ると、何かがきらっと銀色に光る。

「カカシ先輩…」

暗部が呟いた。ぽかっと空いた空間に、いつのまにかはたけカカシが立っている。イルカは目を見開いた。

写輪眼のカカシだ。

はたけカカシは男へ一歩近づいた。男が何か喚いているが、遠いので言葉までは聞き取れない。
それにしても、なんとものんびりとした空気が流れている。びりびりとした男の殺気と対照的に、穏やかで温かいものが周囲を包んでいる。これもチャクラなのだろうか、それとも何かの術なのか。
イルカは、すぐれた忍達が、殺気だけで相手を潰すのを何度も見てきているが、こんなものは初めてだ。ゆったりとしていて、なんとなく安心できるこの空気は何だ。男の殺気が揺れる。戸惑っているのだろう。
はたけカカシがにこり、と笑ったような気がした。次の瞬間、殺気がかき消え、校庭の真ん中で男は地面に倒れ伏していた。その隣には子供を抱き上げた写輪眼のカカシが立っている。相変わらずのんびりとした雰囲気だ。その場にいた全員が、何が起こったのかわからず、ただ呆然とその光景を眺めていた。
はたけカカシが抱き上げた子供になにか話しかけた。子供がびくり、と体を震わせる。そして、火がついたように泣き出した。そこで皆やっと我に帰ったようで、暗部数人が男の体を抱えてかき消えた。上忍達がカカシの周りに駆け寄っている。当のはたけカカシは、子供に泣かれて困り果てたように頭を掻いていた。イルカに支えられていた女性教員が、はじかれたように子供の元へ走り寄る。泣き叫ぶ子供を女性教員へ渡し、頭を何度も下げるのに片手を挙げて挨拶してから歩み去るはたけカカシの姿を、イルカは感動の眼差しで見つめた。

すごい…

胸が震える。

写輪眼のカカシは本当にすごい。

力や技の優れた忍はたくさんいる。ビンゴブックにのるような忍達は、それは桁外れの実力を持っているだろう。だが、こんなふうに物事を収められる忍がどのくらいいるだろうか。強いだけではない、はたけカカシが偉大なのは、今、この瞬間に目にした、彼の気質にあるのだ。だからこそ、後進達は圧倒的な憧憬と畏怖をはたけカカシに感じるのだろう。
そういえば、イルカを押しとどめていた暗部が思わずもらした『カカシ先輩』という言葉にも、それは現れていたと思う。

あぁ、オレの憧れの人は本当に偉大なんだ…

イルカは涙が溢れそうだった。イルカの周りにいた教員達も、口々に感歎しながら職員室へ戻っていく。イルカはもう感極まって、誰かに話さずにはいられないと拳を握る。

これはもうゲンゴロウとタニシに話すしかない。昔、写輪眼のカカシに助けてもらった仲間とこの感動を分かち合うのだ。

それとカカシさん…

へにゃ、と笑った畑野カカシの顔が浮かんだ。

こりゃあ、アイツら呼んで、一度ゆっくり家で飲むか。

予鈴が鳴っている。浮き浮きと足取りも軽く、イルカも仕事へ戻っていった。
 
はたけカカシ、イルカ先生の中で憧れ度がまたアップ。やりにくくなるぞ、畑野カカシっ。だからイルカせんせ、写輪眼のカカシはアンタんちでチューリップ植えてんだってば。