熱い夜と甘いコーヒーは完全に裏目に出た。
クラピカはすっかり機嫌を損ねてしまっている。
起きぬけに砂糖の塊を飲まされて食欲なんかあるか、とソファにひっくり返ったままだ。このままでは今日一日、部屋でごろごろ、なんてことになりかねない。
「な…なぁ、悪かったって。これ食って機嫌なおしてくれよ。」
きれいに薄皮までむいたグレープフルーツを皿に盛ってレオリオはソファの足下に座った。
「いらん。」
「なぁ、クラピカ。」
困り果ててレオリオがクラピカの顔を覗き込んだ。時間はどんどん過ぎていく。外は上天気だ。デートコースの下見までしてあるのに、こんなことでおシャカになっては泣くに泣けない。
ちら、とクラピカは目をあげた。目の前にしおれたレオリオがいる。少し胸がちくりとした。ごそごそと起き上がると仏頂面のまま皿を受け取った。レオリオの顔がぱっと明るくなる。
「メシ、食うか?」
「…朝食は大事だからな。」
ぼそりと答えると、嬉しそうにレオリオが立ち上がった。
「コーヒーいれてくる。」
いそいそとキッチンへ向かうレオリオの様子にクラピカは思わず笑みをこぼした。
「普通の奴を頼む。」
「まかせとけって。」
やっと笑ってくれた…レオリオはほっとした。このぶんなら食後に外へ連れだせる。
口説きは粘りだ、
レオリオは改めて気合いをいれなおした。
☆☆☆☆☆☆
遅い朝食の後、レオリオはクラピカの服を買いに行こう、と提案した。
「服?持っているぞ、服なら。」
「だから、仕事着じゃなく、ここにいる時着るやつだよ。」
「これで十分だが。」
クラピカは着古した白のTシャツとジーンズを引っ張ってみせた。
「いつまでもおれのお古ってわけにゃいかねぇだろ。」
引っ越す時に、レオリオは子供の頃の服を数点、荷物に入れてきた。冗談でクラピカに着せようと思ったのだが、これが不思議とクラピカの体にぴったりだったのだ。それで、休暇で帰郷する度にあれこれ追加して持ってきた。
自分の着ていたものをクラピカが着ているのが嬉しくもあり、また、「おい、十三才のおれ。」とからかうのもレオリオの楽しみの一つになっていたのだ。クラピカといえば、からかわれると怒りはするが、まんざらでもない様子で、次は上着を持ってきておいてくれ、などと言う。
「とにかく、見るだけ見てみようぜ。な。」
初夏の空は晴れわたり、心地よい海風が二人の頬をなでた。昼に近いのでさすがに陽射しがきつい。風にふかれたクラピカの髪がきらきら光った。Tシャツにジーンズと、シンプルな格好がかえって美貌をひきたてている。
レオリオはしばらく見とれていたが、はっと我に帰った。いかんっと自分に活をいれなおし、改めて周りをみまわすと、なにやらクラピカに目を止めている男どももいる。クラピカは呑気に古本屋の店先を覗いていた。レオリオが周りの男どもを目で牽制している間に、身なりのいい紳士がクラピカに声をかけてきた。
「本がお好きなようですね。」
三十を少しこえたくらいだろうか、上品に口ひげを整え、黒髪を後ろになでつけた男は優美な手つきで一冊の本を取り上げた。
「ホメロスですか。」
形のいい指にはめられた指輪の石がきらりと光った。
クラピカは男を見上げた。冷ややかな目だ。習い性になるとはよくいった。稼業がハンターだけに、無意識の一瞥は氷のように冷たい。大抵の男はこれで退散してしまう。だが、この紳士は口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「白磁の肌をふちどるのは黄金の輝き。おお、揺れる度に光がこぼれ、私の心に満ちてきます。太陽神アポロが愛し、西風のゼフュロスが焦がれたかのヒヤキントスも、あなたの前では色褪せるにちがいありますまい。」
クラピカは露骨に嫌な顔をした。ところがこの紳士、肩を抱かんばかりのの勢いで続ける。
「ああ、そんなに見つめないで下さい。あなたのその碧い湖の底に私は身を沈め、二度と浮かび上がれなくなってしまう。」
「だったら、未来永劫浮かんでくるな。すけべ野郎。」
ずいっとレオリオが男の前に立ちふさがった。
「なっなんだね、君は。失礼じゃないか。」
「こいつは嫌がってんだよ。」
レオリオは顎をしゃくると、ぎろりと睨み据えた。
「失せろ。」
低い声には静かな凄みがあった。何か言いかけた男は身を竦ませると慌てて逃げ去った。むっとした顔でレオリオはその後ろ姿を睨み付ける。後ろでくすりとクラピカが笑った。
「さすがだな。」
「…なにがだよ。」
ぶすっとしたまま、レオリオはクラピカの肩に腕をまわした。
「ハンターがスキだらけでどーすんだ。」
クラピカの表情に一瞬不敵な笑みがよぎる。
「ずっと張りつめている程未熟ではなくなったということかな。ところで、何故肩を抱く。」
「このほうがうるせぇ蝿どもをはらえるのさ。」
並んで歩きながらレオリオは、こういう時のクラピカは本当に凄みがあると思う。無邪気な顔と冷徹な顔、どちらもクラピカの真の姿だ。つくづく、とんでもない奴に惚れたもんだ、と思い知る。
やがて、目当ての店の前へ二人はやってきた。さして大きくはないがいかにも高級です、という店構えで、ウィンドウディスプレイも小洒落ていた。
アールヌーボー調の装飾を施したドアを開けて中へ入る。ダークスーツをきちんと着込んだ小男の店員が満面の笑みを浮かべて出迎えた。二人をすっと値踏みする。笑みは崩さず、冷たい目で店員は言った。
「何か、御入用でございましょうか。」
レオリオは冷ややかな笑顔など全く気にせず、クラピカを前に押し出した。
「ああ、こいつに似合う奴、見つくろってくれ。上から下まで全部だ。」
店員はもみ手のまま、薄くなった黒髪をなでつけた頭を大仰に振った。
「お客さま、見つくろうと申されましても、当店にもいろいろとございまして…」
その、と含みをもたせた言い回しに、レオリオはふふんと笑ってみせた。
「似合うやつなら何でもいい。値段はとやかくいわねぇ。」
とたんに店員の態度ががらりと変わった。ものの数秒、じっとクラピカを見つめると、猛然と服を選びはじめる。そして、戸惑うクラピカを、どうぞどうぞと試着室へ引っ張っていき、若い店員に着替えを手伝うよう指示を与えた。
浮き浮きした気分でレオリオは待った。お美しい方でございますねぇ、という店員のお愛想も心地いい。
数分後、着替えたクラピカが試着室から出てきた時、レオリオは息を飲んだ。
クラピカが身につけたのは薄紫のサマーウールスーツだった。ボタンダウンの柔らかい白いシャツに明るいワインレッドのネクタイをあわせている。すっきりとした仕立てがクラピカのすらりとした肢体を際立たせていた。スーツの薄紫色に端正な顔だちが映え、そこだけ、すみれ色の柔らかい光が差しているようだ。レオリオも、そして柄にもなく店員も感歎のため息をついた。クラピカが決まり悪そうにレオリオを見た。
「お…おかしいか?」
見愡れていたレオリオは声がでなかった。やっとのことで一言、絞り出す。
「い…いや…に…似合ってる…」
「すっすばらしいっ。」
レオリオの声は店員の甲高い声にかき消された。小男の店員は目を輝かせ、両手を広げた。
「全く、このように当店のスーツを着こなされた方は初めて拝見いたしました。まさしく貴男様は、ギリシャローマの神々にも勝るお美しさ。アフロディーテも恥じ入って海の泡へと戻りましょう。少々お待ち下さいませ。」
そういうと、店員は胸の鍵をとりあげ、貴金属のケースを開けた。透き通った真っ赤な石の周りに見事な金銀細工の施してあるネクタイピンと揃いのカフスを取り出し、クラピカにつける。そして賛美の声をあげた。
「やはり、まさしく貴方様のための宝石でございます。いえ、貴方様のほうこそ宝石とお呼びしたほうがよろしゅうございましょう。貴方様のきらめきの前にはいかな貴石といえどただの石くず。輝きを失いただ足下に転がるばかりでございます。ああ、君。」
小男の店員は、頬を紅潮させやはりぼうっと見とれている若い店員に命じた。
「あのリネンのスーツと薄青のシャツをこのお方に。」
それから、気まずそうな顔のクラピカに向かってにっこり頷いてみせた。クラピカが試着室へ消えて、レオリオはやっと気がついた。
あああっ、おれ、似合う、としか言ってねぇっ…
それにくらべてこの男の口の回ること。ぎろっとレオリオは店員の薄い頭を睨みおろした。気付かず店員はまだ賛辞を並べている。
「お美しい方だとは思っておりましたが、まさかここまで素晴らしいとは、手前もまだまだ未熟でございました。お連れ様、まことに気品もおありで…」
「おい。」
「なんと申しましょうか、余人の持ち得ぬ独特の雰囲気がございますから…」
「おいっ。」
「…は?」
やっとのことで小男はレオリオを見た。レオリオは渋い顔で店員を見下ろすと、口をへの字に曲げて小さく宣言した。
「いいか。あいつを口説くのはおれで、お前じゃねぇ。」
「は?はぁ…あ、はい、これはまた失礼を。」
気の利きませんことで、と店員がこれまた大仰な手ぶりでレオリオに詫びているところへ、試着室からクラピカがでてきた。きなりのリネンスーツに今度はネクタイなしで襟の開いたやはりリネンの薄青いシャツをあわせている。少しくだけた感じが今度は可愛らしさを引き立てていた。小男がまた賛嘆の声をだす。
「すっばらしゅうございますっ。先程のスーツをお召しになったときには貴方様の気高さが光のごとく溢れておりましたが、これはまた、貴方様の無垢なお美しさが形となって…」
「おいっ。」
はっと小男は口をつぐんだ。気まずそうにレオリオをみあげ、クラピカ、レオリオの両方に如才なく愛想笑いをする。クラピカが照れたようにレオリオをみた。
「レオリオ…」
か…可愛い…
レオリオは改めて息を飲んだ。言葉が出て来ない。
今この小男はなんつったっけ。
いや、レオリオ、こんな時の褒め言葉なんざ湯水のように湧いてくるはず、こいつ、似合っていて可愛いじゃねぇか。似合って可愛い、可愛い、可愛くて…
「お客さま。」
ぼうっとしているレオリオを小男の店員がつついた。
「お客さま、なにかおっしゃってくださいませ。お連れ様が困ってらっしゃいます。ささ、これを。」
小声で囁きながら銀細工のペンダントを渡す。
「お連れ様にきっとお似合いですよ。お客さま。」
レオリオはクラピカの側に歩み寄った。見上げてくる碧い瞳に心臓が早鐘をうつ。
こんなクラピカ、おれは知らねぇ…
青いクルタ服の凛としたクラピカでも、Tシャツ姿の愛らしいクラピカでもなかった。
ああ、こうやっておれはますますお前にがんじがらめに絡めとられていくんだ。だが、なんという甘美な束縛…
それをそのまま言葉にすればよかった。白い手をとり、唇を寄せて…
「よし、こいつ一式とさっきのパープルの奴、どっちも貰うぜ。アクセサリーもだ。」
口説きとはまったく関係のない、実務的な言葉が口をついて出ていた。しまった、と思う間もなく、店員が甲高い声で応対した。
「はい、ただいま。」
体中で愛想笑いをふりまきながら若い店員に合図を送り、 いそいそと椅子をすすめる。
「どちらも本当にお似合いでございましたからねぇ。当店といたしましても、お連れ様のように魅力的なお方のお手伝いができますことは誇りでございますよ。あ、お支払いはカードで?いや、まったく、光り溢れるお美しさと申しましょうか、何回払いにいたしましょう。」
「いらん。」
「はい、いら…は?」
一瞬、レオリオと小男はぽかんとクラピカを見た。
「いらん。」
すでにクラピカは上着を脱ぎ、シャツに手をかけている。
「おっおい、クラピカ。」
「麻は皺になる。それにこの色だ。すぐ汚れるだろう。不経済だ。」
くるりと試着室へもどるクラピカにレオリオは大慌てで声をかけた。
「で…でも、似合ってたしよ…おっおい、クラピカって。」
「いらんと言ったらいらん。くどいぞ。」
ジーンズにはきかえたクラピカはさっさと店をでていく。
「なっなら、あの紫の奴だけでも…待てって、クラピカ。」
「ああ〜っ、お客さま〜っ。」
呆然とする店員に、わりぃな、と言いおくとレオリオは急いでクラピカの後を追った。
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クラピカさん、もてもてです。誰か、薄紫のスーツに身を包んだクラピカさん、描いて〜(他力本願の図々)