棚の中はぴかぴかに磨かれていた。そして、上の段には揃いの柄の青と赤のフェイスタオル、下の段にはやはり真新しい青と赤の揃いのコップがおいてあった。封をきっていない歯ブラシまで2本ある。ぐらぐらと世界が揺れた。


一緒に暮らす準備をしていたんだ…その人と…


不安は確信に変わった。

別れ話をするためだったのだ、会いに来てくれと言ったのは。そう考えればあのいつにない真面目な声に合点が行く。仕事が終わって自分が落ち着くのをまって、別れ話を…レオリオは優しいから…ポンズと暮らすための準備をしていて、だから急に私が訪ねてきたのに戸惑った…

コンコンと、バスルームのドアがノックされた。クラピカは我に帰って慌てて棚の戸を閉めた。ガチャリとドアが開き、レオリオが入ってくる。混乱したクラピカはどうしていいかわからず、濡れた顔のままただ突っ立っていた。

「どうしたんだよ、クラピカ?」

心配そうにレオリオがクラピカの髪に触れる。ぴくんとクラピカの体が揺れた。


私に触るな…


だが、口から出たのは自分でも情けなくなるほど間抜けな言葉だった。

「タオルがないんだ…」
「あ、わりぃわりぃ。」

レオリオは洗面台の横にある開き戸からタオルを取り出した。そしてごしごしクラピカを拭いてやる。

あの棚は開けないんだな…

胸が痛すぎて、麻痺してしまったようだ。クラピカは逆らわず、ぼんやりとレオリオに拭かれていた。



☆☆☆☆☆☆



「新しいお茶いれたぞ。」

大人しくクラピカはソファに戻った。さっきから黙り込んでばかりのクラピカに、レオリオもただ事ではないと感じたらしい。何かあったのか、それとも体がどうかあるのか、ベッドで休むか、とさかんに問いかける。クラピカは黙ったまま首を振った。口を開くと、とんでもないことを言いそうで恐かった。それでも食い下がるレオリオに、ようやく微かな声で答えた。

「…大丈夫だ、レオリオ…仕事が終わって、気が抜けたのかもしれない。」

まだ、心配顔のレオリオにクラピカは無理矢理笑顔を作った。

「ん、ならいいけどよ…」

そう言いつつ、レオリオががさがさと包みをだした。

「忘れてたんだが、さっきポンズが持ってきた。蜂蜜入りチョコだと。」

食えよ、疲れがとれるぜ、と差し出されたチョコを、クラピカは手に取った。


お前は甘いもの、普段食べないんじゃなかったか…?


舌の上でとろける甘さに、そうクラピカは泣き叫びたかった。


好きな人ができたなら、何故そんなに優しくするんだ。誰のためのカップなんだ、誰のためのカーテン、何故他の人を好きになんかなった、好きな人とはポンズなのか、ポンズが持ってきたチョコなんか私に食べさせるな、ポンズなんか…


胸の中がズタズタだった。レオリオを罵る言葉だけがぐるぐる渦巻く。
だが、クラピカはぼんやりとした笑顔のまま、レオリオの横に座っていた。泣くことも、罵ることも、部屋をとびだすこともできなかった。

「どうだ?うまいか?限定物の貴重なチョコだと、ずいぶんポンズの奴が恩きせていったんだぜ。」

機械的にクラピカは二つ目のチョコを口に運んだ。

「ああ、ほんとにうまいよ。ポンズに礼をいっておいてくれ…」

そう答えた後から、クラピカは自分の言葉にどきんとした。

私は探りをいれているのか?

レオリオは脳天気に答える。

「ああ?あ〜、次に会ったら言っとくぜ。お前が気に入ってたって。」

次に?会う予定があるのか、ポンズと。では、やっぱりレオリオの相手はポンズなのか?いや、しかし、いつ連絡をとっていたんだ…

あさましいと思いつつ、クラピカは続けずにはいられなかった。

「よ…よく来るのか?彼女は…」

レオリオは自分もチョコを口に放り込み、顔をしかめた。

「う〜〜、あっめぇ〜、あ?ポンズか?おれも試験以来だぜ、さっき会ったのが。」

口をすすぐようにレオリオは紅茶を飲んだ。

「そ…そうか…」

うそつきめ、思わず唇を噛んだ。それからはっとして、償うように笑顔で言った。

「それにしても、綺麗になっていたな、彼女は。もともと可愛らしい人だったが。」

途端にレオリオがにやけた顔になる。

「まーったくだ、女ってのはこれだからわかんねぇ。あんな美人になるってわかってりゃ口説いとくんだったぜ。なぁ。」

それから、クラピカのど突きを予想してさっと身構える。だが、クラピカはじっとしていた。今の一言で、堪えていたものが堰を切って溢れだしそうになった。おやっという顔をしたレオリオは、慌てて言い訳する。

「ばっばか、冗談だって。なにマジな顔してんだ。」
「…レオリオ…」

泣きそうな目でクラピカがレオリオを見上げた。レオリオは言い様のない表情でクラピカを見つめる。そのまま、ゆっくりとクラピカを抱きしめ、ソファに押し倒した。

最後だから私を抱くのか?

張り裂けそうな思いでクラピカはレオリオにしがみついた。

他に好きな人がいるくせに…

心の悲鳴をぶつけるように、レオリオの肩に顔を埋める。

ポンズが好きなくせに…

そうとわかっていても、レオリオに縋り付く自分が哀れだった。耳に、首筋に受ける愛撫がたまらなく悲しかった。これが最後…

突然、電話が鳴った。びくんと二人の体が揺れた。渋い顔でレオリオは立ち上がり、電話を取る。

なんだよ、取込み中だぜ、おれは。ああ?もうそんな時間かぁ?まいったな、すぐ行くって…

電話口からかすかに若い女の声が漏れ聞こえてくる。

もう、これ以上打ちのめされようがないな…

自嘲気味にクラピカは口元を歪めると、乱れた服を整えソファに座りなおした。電話を切ったレオリオがすまなそうな顔で振り向く。クラピカはにこっと笑顔を作った。

「予定があるのだろう、レオリオ。」
「ああ、実習抜けるわけいかねぇんだ。当番あたってるから、帰るのが…」

クラピカは笑顔のまま立ち上がった。明るい声を出す。

「いや、私も残務整理のようなものが少しあって、今日はホテルに。」

戸口の荷物を取ると、意外にあっさりレオリオが同意した。

「そうだな、今日はそのほうがいいな。おれも終わるの夜中だし…どこのホテルか電話いれろよ。会いに…」

クラピカはレオリオの言葉を遮った。

「いや、この街じゃないんだ。仕事仲間も一緒だから。」

ここへはちょっと寄っただけ、最後の言葉を小さく呟いた。胸が疼いた。いつもなら、絶対ここにいろだの、どこへも行かずに待ってろだの、無茶をいうのに。クラピカは俯いたままドアを開けようとした。突然、その手をレオリオが両手で握った。どきんとして見上げると、黒い瞳がじっと自分を見つめていた。

「それが終わったら必ず来るだろう?明日?来るよな。絶対。」

クラピカはどぎまぎした。この期におよんでまだ自分は何か期待しているのか。

「あ…明日は無理だ…」
「じゃ、あさって?」
「約束は一週間後だ。」
「仕事、終わったんだろ。」

どうしてそんな目をするのだ…クラピカは流される自分が情けなかった。

「…あさって…あさっての…」
「朝だ。十時には来いよ。」

レオリオがにっと笑ってキスしてきた。約束だからな、そう念をおされて、クラピカは大人しく頷いた。



☆☆☆☆☆☆



駅まで送るというレオリオを、遅刻はいかんぞ、と笑ってたしなめ、クラピカは表へ出た。

どこへいこう…

通りに立って、クラピカは途方に暮れた。
もちろん、残務整理など嘘である。いっそ、このまま遠くへ行ってしまおうかとも思うのだが、それもできなかった。

あてもなくぼんやりと歩き出す。どこからか、海風にのってオレンジの花の香りが漂ってきた。
頭の中でさっきのことがぐるぐると回っている。

自分をみて戸惑うレオリオ、
明るい巻き毛が揺れるポンズ、
言葉を濁すレオリオ、
ポンズの白い胸元、
真新しいお揃いのタオル、
洗面台のコップ…

全身が痺れるように疼いている。

優しい眼差し、優しいキス…

「卑怯もの…」

クラピカはぽつりと呟いた。

別れを宣告するなら、いっそ冷たくしてくれればいいのに。レオリオは優しい男だから、それができないのだ。自分に同情しているから。そういえば、最終試験の前にメンチに突っ込まれたことがあった。同情から愛はうまれないって。そのとおりだった。でも、あの時悟ったんじゃなかったか。この先、二人がどうなろうとも愛したことを後悔はしないと。

「…後悔なんか、してない…」

クラピカは自分に言い聞かせるように声をだした。

後悔はしていない。だが、本当に別れる日がくるなんて、思ってもみなかった。そして、こんなに辛いなんて。

ふと気付くと、海を見晴らす小高い丘に出ていた。この街に来る度にレオリオと歩いた散歩道だ。学生街をぬけて少し坂を登るとここへでる。

二人とも、この場所が好きだった。海を眺めながら、あれこれとりとめのないおしゃべりをする。晴れた日にはピクニックをした。海に落ちる夕陽を眺めながら、星を見上げながら、何度ここでキスしたろう。そして、今度はレオリオの愛した女がレオリオとここで…ポンズがここで…

痛みが体を走り抜けた。崩れるように腰をおろすと、膝に顔を埋めた。涙は出なかった。

憎らしい、そう思った。
死んでしまえ、そうも思った。
目をつぶると憎しみしか見えない。

私ではだめか、レオリオ、お前が愛したのはポンズなのか、ポンズにもあんなキスをするのか、レオリオ。お前の胸は私だけのものなのに。

わきあがる憎悪を押さえられない自分が汚らわしくてたまらなかった。


海風がクラピカの金髪をさらさらなでた。ピクニックにきている親子連れやカップル達の声が聞こえる。初夏の陽射しが 肌に心地よい。

誰かが肩をたたいている。小さな手の感触。クラピカは顔をあげた。目の前に黒い髪の小さな男の子が立っていた。キャンディをクラピカに差し出している。

「私に…?」

男の子はにっと笑って頷いた。黒い瞳がきらきらしている。ゴンに似てるな、そう思いながらクラピカはキャンディを受け取った。小さな手は柔らかくて温かかった。

「…ありがとう。」

少し離れたところに座っているのはその子の母親か。自分が具合でも悪いと思ったのだろう。それは真っ赤なキャンディだった。

ハンターのくせに、不用心にも程があるな、

半ば己を嘲りながら、 クラピカはキャンディを口にいれた。甘酸っぱい味が広がる。おいしかった。

「いちご味がね、僕、だーいすきなんだよ。いちご、知ってる?いちごってね、真っ赤できれいなんだよ。」

ふっくりとした頬がかわいらしかった。 男の子は一生懸命しゃべる。

「あのね、真っ赤は元気の色なんだよ。知ってた?お母さんがいってたんだ。僕はすっごく元気だから、赤が好きなんだって。おねえちゃんは好き?」

男の子はにこにこした。クラピカは苦笑いしながら頷く。

「ああ、私も好きだよ。あのね、ボク、私はおねえちゃんではなく、おにいちゃんだ。」

男の子はきょとんとすると、母親のもとに駆け出した。大きな声でさけんでいる。

あのね、おかーさん、おねえちゃんじゃなくて、おにいちゃんだって。

母親がわたわたと手を振って焦っている。クラピカは笑い出した。ぺこりと会釈する母親と男の子に手をあげて挨拶をかえすと、ごろりと草の上に寝転がった。青い空だ。白い雲がゆっくりと流れている。風がふくたび、頬を草の葉がくすぐった。ちいさな青紫の花が一面に咲いている。


美しいな…


クラピカはいちごキャンディを口の中でころがした。


…おいしい…


涙が溢れてきた。


ああ、世界はこんなにも美しい。


ぽろぽろと涙をこぼした。


そして、小さな優しさに満ちている。
嫉妬と独占欲で醜く歪んだ自分でも、陽射しは柔らかく包んでくれる。


今は無理でも、レオリオ、今はお前のことしか考えられないけれど、いつか私も他の誰かを…


さやさやと草の葉が揺れる。緑の草に抱かれて、クラピカは静かに泣き続けた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

クラピカさん、泣かして、悪い男だよレオリオ〜、な〜んてね。泣かしてんのワシらだよ。でもね、泣くとフツー鼻水でるけど、クラピカさん、ティッシュもってるのかなぁ。鼻水かんだティッシュ、ポケットに入れてゴミ箱みつけたら捨てるのか?『世界はこんなにも美しい』ぶび〜っ(ハナかむ音)『いつか私も他の誰かを』ぶびび〜(またハナかむ音)
う〜ん、ロマンにならねぇ…(っつか、やめろよ、オレ達)