クランベリー
レオリオ、驚くだろうか…
約束の日は一週間後だ。だが、思いがけず仕事がはやく片付いた。はやく片付けたといったほうがいいかもしれない。ともあれ、クラピカは晴れて自由の身になった。そして、レオリオの住む街へやってきたのだ。
医大に通うレオリオは、大学街の、海に続く坂道の一角に部屋を借りている。これ以上危険に巻き込めない、もう会えない、とクラピカが騒ぐわりには二人はしょっちゅう会っていた。年中行事、互いの誕生日、仕事に一区切りついた、レオリオの試験が終わった、などなど。今日もクラピカは通い慣れた坂道をレオリオのもとに急ぐ。初夏の風が優しくクラピカの頬をなでた。
この仕事を終えたら取りあえずフリーになる。
クラピカの送ったメールがきっかけだった。だったら会いに来てくれ、仕事を終えたらすぐに。即座にかけなおしてきた電話の声が妙に真面目だった。気押されて何故?と問いなおすことができなかった。契約終了の翌日に会いに行くと約束し、電話を切った。
あの後、顔を合わせたセンリツがくすくす笑い出したっけ。
クラピカは思い出して顔を赤らめる。
自分はどんな心音をしていたのだろう。センリツとはなにかと組んで仕事をするようになっていたから、今さら珍しい心音でもなかったろうに。あの時だけは人の顔を見てはくすくす笑っていたような気がする。そりゃあ、はやく仕事を終わらせたいと思わないでもなかったが、それでもあんなにおかしそうな顔をしなくたって…
角の花屋の、通りに出したバケツいっぱい、オレンジの木の小枝がつっこんであった。緑の葉っぱのあいだから、白い小さな花がのぞいている。甘い香りが通りに溢れていた。クラピカは花屋の前で立ち止まった。
レオリオは結構こういうことが好きだったな…
きれいな顔をしているくせ、ロマンの対極にあるらしいクラピカは、貰うならば実用品か食べられるものがいいと思っている。だのにあの男ときたら、恋人との逢瀬には花束がつきものと思い込んでいて、この間も真っ赤なバラを抱えて会いにきた。そのステロタイプな登場ぶりに、側にいたバショウもセンリツもあっけにとられた。
皆があんぐり口を開けてあきれはてていたというのに、悪びれもせず人の頬にいきなりキスして…
ぶん殴ろうにも渡されたバラの花束が大きすぎて身動きがとれなかった。
しばらくからかわれて大変だったのだ、恥ずかしい奴め。
クラピカはオレンジの花に顔を寄せてくすっと笑った。
今日は自分がくるなんて思ってもいないだろうから、部屋に花も飾っていまい。たまにはこちらからもっていくのも悪くなかろう。小枝の束を花束と呼ぶには無理があるが、こんなによい香りなのだ。
クラピカはそれを一抱え買った。いつものスーツケースとオレンジの小枝の束を抱えると、小走りで坂道を駆けおりる。目指す建物はすぐそこだ。入り口をくぐるとぽんぽんと三段とびに階段を上った。
部屋にいるだろうか、それとも学校?もし大学にいっていたら花を花瓶にいけておこう。帰ってきたら、きっと驚く。部屋一杯オレンジの花の香り。それから弾けるような笑顔で自分に近付き大きな腕をひろげて…
クラピカは一呼吸おくとレオリオの部屋をノックした。ドアに向かう足音。部屋にいる。ガチャリとドアが開き、レオリオが現れた。
「ク…クラピカ」
驚いて目を見開くレオリオにクラピカは照れたように笑った。
「いや、仕事が意外にはやく片付いたのだ。だから…」
その時、クラピカはレオリオの顔に一瞬戸惑いの色が浮かんだのを見た。だが、それはすぐに消え、いつもの笑顔になる。
「なんだ、知らせてくれりゃ迎えにいったのによ。相変わらずだなぁ。」
抱き寄せようとするレオリオの後ろに人の気配を感じ、はっとしてクラピカは花束ごとその腕を押しやった。花を渡されたと思ったのか、嬉しそうにレオリオが言う。
「珍しいな、お前が花なんて。オレンジか。」
「あ…ああ、そこの花屋で…。」
もごもご答えながら、クラピカはレオリオの肩ごしに部屋の中を伺い見た。次の瞬間、心臓がどきりと跳ねた。窓際にサーモンピンクのブラウスが見える。小柄な若い女性だ。白いパンツがほっそりとした脚をつつんでいる。女性はにこやかに部屋を横切って近付いてきた。肩先で大きくカールした栗色の髪が、歩く度に軽やかに揺れる。
「久しぶりねぇ、クラピカ。」
花の蕾のような唇が開き、自分の名がよばれた。大きな瞳をくるくるさせ、かわいらしく笑う。ぽかんとするクラピカの荷物をレオリオがとり、戸口においた。
「噂はよく聞いてたの。ずいぶん活躍してるから。」
手を取られて、クラピカはやっとそれが誰なのか思い出した。
「ポ…ポンズ…?」
「やだ、やっとわかった?」
わかるもなにも、会うのはハンター試験以来だ。が、実際ポンズは美しくなっていた。もともと可愛い顔だちをしていたが、それに女らしい柔らかさが加わっている。さりげない仕種にみずみずしい色気があった。
「あ…ああ、すまない。あんまり綺麗になっていたから…」
わからなかったのだ、と顔を赤らめるクラピカにポンズはころころと笑いかけた。
「何言ってるの。綺麗になったのはあなたのほうよ。クラピカ。まったく、これが男だなんて、やんなっちゃうわよねぇ、レオリオ。」
ポンズは意味ありげな眼差しでレオリオに片目をつぶる。
「知るかよ、おれが。」
オレンジの花の束を抱えたまま仏頂面をするレオリオに、またころころとポンズは笑った。魅惑的な笑みだ。クラピカの胸がふっと騒いだ。だが、すぐにそれを打ち消し笑顔を作る。
「本当になつかしいな。試験ではすまないことをしたが…」
「ホント、あんた達には最後の最後でしてやられちゃったわ。ま、あのままじゃどうせ不合格だったけど。」
ふふっと肩を竦めてみせる。襟刳りの大きくあいたブラウスの胸元が白い日溜まりのようだ。
「それで、今日は?」
「あ、あのねぇ…」
言いかけるポンズをレオリオが慌てて遮った。
「たったまたまこの街にきたんだよな。で、なつかしくて寄ってくれたってわけだ。な、そうだろ。」
「…ま、そうゆうこと…かな。」
妙に焦るレオリオの態度に、クラピカは不審な目をむけた。ポンズはくくっと肩を震わす。
「旧交もあたためたことだし、よかったよかった。じゃ、またな、ポンズ。」
レオリオは早々にポンズを追い出しにかかる。クラピカはさすがに顔をしかめた。
「レオリオ、失礼じゃないか。せっかく会いにきてくれたのに。」
「そーよぉ。もうっ、クラピカが来た途端、なに、この態度の変わりよう。さっきまでは…」
ぷうっと頬を膨らますポンズにレオリオは懇願するような目をむけた。
「はいーはい、お邪魔虫は退散します。じゃ、後でメールいれとくから。」
メール?
クラピカの胸がまたざわめいた。すでにレオリオはポンズをドアの外に押し出している。ちらっと自分に気まずそうな目をむけたのをクラピカは見逃さなかった。
レオリオは廊下に顔をつきだし、二言三言何か囁いている。ばか、気づかれたらどーすんだ、うろたえたレオリオの声。
…気づかれるって何を…?
クラピカはその場に立ちすくんだ。レオリオと立ち去るポンズの声が微かに聞こえる。
だから、メールで…わかったわよ、大丈夫だってば。もうっ、クラピカに負けてらんないわねぇ…
クラピカの心臓がとくとくと早鐘を打ちはじめた。
大丈夫って何のことだ、メールって…
「クラピカ。」
レオリオに声をかけられ、はっとした。ドアを閉めたレオリオが微笑みながら近付いてくる。
「クラピカ…」
もう一度名を呼ばれ、オレンジの花ごと抱きしめられた。優しく唇を吸われる。なつかしいレオリオの香りとオレンジの花の香り。久しぶりのキスにうっとりとなりかけたとき、ふいにポンズの白い胸元が蘇った。小花を散らしたブラウスの襟元から柔らかく甘い色香が立ち上る。
まるでオレンジの花の香りのよう…
ずきりとしてクラピカは唇をそらした。
「あ、すまねぇ、いきなりお前が来てくれたからつい…」
決まり悪そうにレオリオが言った。
「…い…いや、いいんだ、その…」
クラピカが何か言う前にレオリオはその肩を抱いてソファに座らせた。それから花瓶をとりにいく。 クラピカの頭のなかではポンズの声が響いていた。
何だ、さっきの二人の会話は…
「仕事、ほんとに終わったんだな。」
リビングの隣の台所からレオリオが話し掛けた。ざぁっと水道をひねる音がする。
「あ…ああ、一応…」
どきりとして曖昧に答えを返しながら、クラピカの目は部屋の中をさまよっていた。
何だろう…なにか、なにか違う…
レオリオがオレンジの花をいけた花瓶をもって現れた。窓際におく。
「…レオリオ…カーテン、どうかしたのか…?」
部屋の窓から、カーテンが全て取り外されていた。
「あ?あー、なんかな、ちょっとな。」
レオリオが言葉を濁す。窓の下に大きな包みがあった。真新しいカーテンが覗いている 。レオリオはさりげなく包みを部屋の隅に押しやった。まるでそれを隠そうとするかのように。そのレオリオの様子に、クラピカはこれ以上聞くのを止めた。カーテンを取り付けるのなら手伝おうか、という言葉も飲み込んで。
「疲れただろう。紅茶のほうがいいか?」
いそいそとお茶の支度をするレオリオの態度はいつもと変わりない。クラピカは頭を振った。
私はさっきから何を気にしているのだ。まるでレオリオがポンズと浮気しているようじゃないか…
また胸がどきんとした。
浮気?いや、そんなことはありえない。確かに軽くて女好きだが、不誠実な奴ではないのだ。浮気などするような…
ティーポットを抱えてレオリオが台所から出てきた。ティーコゼを被せながらすまなそうな声を出す。
「わりぃ、甘いもん、全然ねぇわ。おれ、ちょっとそこで買ってくるから。」
考えに沈み込んでいたクラピカは慌てた。
「いっいや、いいのだ。お茶だけでいい。」
そう言って手伝おうと立ち上がった。カップボードのガラス戸を開けようとすると、レオリオがとんできた。
「クックラピカ、それ、まだ洗ってねぇんだ。こっちでティーカップ、あっためてるから。」
カップボードから引き剥がすようにクラピカの背中を押す。いぶかしんで中を見ると、真新しいティーセットが並んでいた。白磁にターコイズブルーと金をあしらったお揃いのティーセット、その横には同じ柄のコーヒーセットもある。御丁寧に色違いのマグカップまで。下の段にはやはり揃いのディナーセットとグラス。
「まるで新婚さんのカップボードだな。」
おもわずぼそりとクラピカが言った。その途端、レオリオがぎくりと体を固くする。困惑した瞳がクラピカを見た。
クラピカは呆然となった。頭の中が真っ白になる。まあ、お前はゆっくりしてろ、と再び座らされ、お茶を目の前にだされたが、体を動かすことができなかった。あれこれしゃべりかけてくるレオリオの声が耳の上を滑っていく。何も考えられない。自分の胸の鼓動だけがガンガンと響いてきた。
「クラピカ?どうかしたか?」
どきっとして目をあげると、いつの間にか横に座ったレオリオが心配そうに顔を覗き込んでいた。
いつもと変わらぬ優しい黒い目。
「な…なんでもない、ちょっとぼんやりして…」
クラピカは俯いてティーカップに手を伸ばした。腕の付け根が鉛のように重い。温かな紅茶の湯気にクラピカは目をしばたたかせた。
レオリオ、それは誰のためのティーカップなんだ?
レオリオが体を寄せてきた。されるがままに抱き寄せられる。広いレオリオの胸。
レオリオ、どうしてあんな顔をするのだ?
唇を重ねられる。クラピカは抵抗しなかった。
私のためのカップじゃないからか…?
レオリオのコロンの香り、愛しい香り、そして部屋に満ちるオレンジの花の香り…
唇を離したレオリオをぼんやりと見上げる。レオリオが苦笑いした。
「そんな顔するなよ。真っ昼間から不謹慎なことしたくなるだろーが。」
頭をこつりと合わせ、肩を抱く。そしてレオリオは自分のティーカップを手に取った。
不謹慎なこと、好きなくせに…もう私とはそんなことしたくないか…?
暗い淵に沈むような考えの堂々回り、やめよう、クラピカは唇をかんだ。なんの根拠もないのに、私はさっきから変なことばかり考えている。やめよう、レオリオはこうして私の肩をだいているじゃないか。何故私はこの男を疑う。この優しい目をした男を…クラピカは気を取り直そうとティーカップに手を伸ばした。
優しいから言い出せないのだ。他に好きな人ができたと…ポンズが好き…
がちゃんとカップが滑った。テーブルの上に紅茶の流れができる。クラピカは体を硬くしたまま床に滴り落ちる茶色い流れを見つめた。
「おわっ。」
レオリオが手近なタオルを掴み、紅茶を拭く。やっと、自分が紅茶をこぼしたのだときづいたクラピカがうろたえ気味に膝をついた。
「す…すまない、レオリオ。」
手伝うつもりか、床を拭いているところに手を伸ばすのをレオリオが笑ってとどめた。
「おいおい、なんだか今日はえらく殊勝じゃねーか。手、濡れてるぞ、火傷しなかったか?」
そして、拭き終わったから気にするな、と立ち上がるので、また小さくすまない、と呟いた。いつもなら、私とて自分に非があれば謝罪するぞ、とかなんとか噛み付くのだが、今のクラピカにはそれすらできなかった。レオリオが怪訝な顔をする。
「クラピカ、お前、具合でも悪いか?」
「…手…洗ってくる…」
力なくそう言うとクラピカはバスルームに入った。閉じたドアにもたれ、天井を仰ぐ。
恐ろしい考え…
他に好きな人ができたのか…?浮気ではなく、本当に好きな人が…そして、それはもしかしてポンズなのか…
いつもと変わらぬように見えて、さっきから感じる妙な違和感はそのせいなのか。ドアを開けた時、一瞬見えた戸惑った表情、ポンズがいると都合が悪いとでもいうような焦りよう、気まずい視線、カーテンをかえるのだって、はっきりそう言えばいいではないか、なのに変に言葉を濁して、あのお揃いの食器類だって…
クラピカは水道の栓をひねった。勢いよく水が流れる。両手を冷たい水にひたした。
ばかばかしい、他に好きな人ができたなら、何故あんなふうにキスするのだ。
レオリオは優しい男だから…
不安を打ち消すようにクラピカはざぶざぶを顔を洗った。タオルがかかっていないので、洗面台の上の棚をあけた。次の瞬間、クラピカはその場に凍り付いた。雷にうたれた状態とはこういうことをいうのだろうか。全身が痺れて息が詰まった。
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BABANBA・BANBYのばんび先輩に「脅されて」捧げたものです。オフ本収録済。レオリオ浮気疑惑物語りってか。クラピカさん、棚の中になに見つけたんでしょーねー、浮気発覚の定番ものだったりして。正解者にはもれなくわしらのあつ〜い抱擁を(いらんっ)ばんび先輩はとっにかく素晴らしいイラストを描かれる方で、そのサイトにはいろいろ美味しい企画もあったりします。リンク部屋にありますので、ソッコーGOなのだ。ともあれ、ばんび先輩、「脅して」くれてありがとう…恐くて必死で書き上げたのも今ではいい思い出です(遠い目)