桜旅情


はらはらと薄紅色が舞う。夕凪の空、朱に染まった花びらが舞い散っている。

 穏やかな春の夕暮れ、ダークスーツの男が山路をたどっていた。道を登り切った先には、小さな温泉宿がある。彼はそこへ向かっていた。逸る心を落ち着かせるようにゆったりと歩む。道ばたに咲く満開の桜が彼の上に花びらを散らしていた。


「レオリオ。」


名前を呼ばれて黒髪の男は顔をあげた。目線の先には、一際大きな桜の木が満開の花をつけている。その下に佇む青い服。夕陽を浴びて金髪が輝いている。

「クラピカ。」

2ヶ月ぶりに会う恋人は、蒼い伶俐な瞳を柔らかく細めた。




*****




「いっや〜、いい部屋じゃねぇか。」

部屋に入ったレオリオは感歎の声をあげた。

数寄屋造りのこの宿で、二人のとおされた部屋は露天風呂付きの離れだった。杉板の濡れ縁から庭に降り、飛び石を伝っていくと岩の露天風呂がある。庭石のまわりの草木がしっとりとした風情をかもしだしていた。

白壁の塀の脇に植えられた桜が今を盛りに咲き誇っている。薄紅色の見事な枝垂れ桜で、ちらちらと花びらが縁の先まで散る様が美しい。宿の外に植わっている染井吉野が風にのって漂ってきたのだろう、薄紅色の花びらの中にピンクがかった白い花びらが混じっていた。

「おい、大丈夫なのか?こんな宿とって。」

濡れ縁から振り返った黒髪の恋人に、クラピカは微笑んだ。

「たまにはな。それに…」

手に持った緑茶の茶わんを置き、クラピカも庭を眺める。春の夕闇が降りてきた庭のあちらこちらに明かりが灯った。

「桜の下で露天風呂にはいってみたい、と言っていただろう?」

レオリオは眼を見開いた。

以前、二人で旅行雑誌かなにかを見ていた時、東の国の温泉と風物が特集してあった。いいなぁ、行ってみてぇなぁ、とレオリオが呟いていたのを覚えていてくれたらしい。

「この国での仕事の依頼があったから、丁度いいかと思ったのだ。まぁ、休みは三日しかとれなかったが。」
「ク…クラピカ…」

感極まったように立ち尽くすレオリオに、クラピカはにっこり笑った。

「桜の花に間に合って良かった。」
「クラピカ。」

レオリオは大股で部屋へ入ると、クラピカを抱きしめた。

「クラピカ…」

ぽんぽんとクラピカがあやすようにレオリオの背中を叩く。

「クラピカ、オレは…」

レオリオは胸が一杯で何もいえなかった。感動と、そして後ろめたさで。


桜の下の露天風呂に入りたかった本当の理由だけは告げちゃならねぇ…


レオリオは本能の鳴らす警鐘に従った。久しぶりの逢瀬をより良きものにするためにも、己の身の安全のためにも。



*****



レオリオは、随分前からこの東の国でかかれた小説に凝っていた。小説といえば聞こえがいいが、いわゆる18禁のシリーズものだ。彼がその小説にはまったのには切実な理由があった。

男の生理現象の処理。

彼の生涯を誓った恋人は凄腕のハンターで世界中をとびまわっている。そのうち共に世界を駆けるつもりとはいえ、いまだしがない学生の身の上では、仕事の合間に恋人が帰って来るのを待つしかない。

すると、夜の生活は良くて1ヶ月、ヘタをすると数カ月おきになってしまう。レオリオとて健康な若い男子、いくら逢瀬の時に激しく燃えたとしても、おあずけの期間が長ければ溜るものをなんとかしなければならない。ところが、ここに困った問題がおこった。

抜けねぇ…

その手の雑誌やビデオを見てもいっこうに興奮してこない。巨乳の女がアンアンよがる姿にしらけてくる。

自他共に認めるタラシのおれ様としたことがっ。

そのグラマー好きがクラピカに転んだ時点ですでに女タラシとしてのレオリオは終わっているのだが、本人に自覚がなかったらしい。物理的な刺激だけでは味気なく、ほとほとまいったところに偶然目にしたのが、東の国のこの本だった。


文字は便利だ…


それ以来、レオリオは登場人物を自分とクラピカに置き換えてこっそり読んでいた。

様々なシチュエーションに妄想は膨らみ、ついポロリと洩れた言葉が「桜の下の露天風呂」。エッチ、までもらさなかった自分を誉めてやりたいところだ。
そして今、その妄想、いや、ドリームがまさに現実になろうとしている。

ああ、寂しい独り寝に耐えたおれへの、神様の御褒美なんだ。

大人のメルヘンゲットぉっ、心の中で拳を握るレオリオの傍らではクラピカが邪気のない顔でにこにこ笑っている。

「お前がこういう風情を好むとは意外だったが、喜んでもらえてなによりだ。」

にやけた口元を隠すように、レオリオは庭に顔を向けた。桜が畳に薄紅色を散らしていた。




*****




一緒に風呂へ行かないのか?と無邪気にきいてくる恋人に、レオリオは苦笑とともにこう言った。

「久しぶりだろ。お前と一緒に何もしないで風呂ってのは拷問だぜ。」

耳まで真っ赤になって、すぐ上がってくるから、と走り去ったところをみると、クラピカもその気満々らしい。レオリオは内心ほくそ笑んだ。

夕食が終わるまではあくまでダンディで紳士に、その方がエッチにもつれ込んだ後がやりやすい。これは例の本からの受け売りだ。なにせ露天風呂でその気にさせなければならない。クラピカが戻るまでにレオリオはさっと部屋のシャワーを使った。2泊3日、大浴場でのいちゃいちゃは明日にまわせばいい。


写真でしか見たことのない『浴衣』に着替えて、二人は夕食の席についた。クラピカは豪勢な食事を前に上機嫌だ。

「これが『和食』だ。綺麗だろう?だが、食べ物なんだぞ。私もこっちで仕事をしてはじめて食べたが、味といい盛り付けといいすばらしいな。一度ゆっくり味わいたかったんだ。レオリオ、見ろ、桜の葉っぱにのっている、魚と何を和えてあるのかな。こっちは炭火で焼いた鴨だそうだ。たれがまた独特だぞ。」

あっちの皿、こっちの皿、と目を輝かせてクラピカは箸を動かした。着なれない浴衣の合わせ目からちらり、ちらりと素肌がのぞく。日本酒をちびりちびりとやりながら、レオリオはそれをじっくり鑑賞した。


お前の方がよっぽど食べごろの御馳走だぜ。


あの浴衣の襟元から手を差し入れ、帯をしたまま愛したら…考えただけでぞくぞくする。


いや、我慢我慢。


レオリオは己を戒めた。二兎を追うものはなんとやらって奴だ。クラピカはノってくると意外に大胆なくせ、そこに持ち込むまでなかなかしぶといのだ。初志貫徹、まずは露天風呂Hを実現させなければ意味がない。レオリオは本の内容を頭の中で再確認する。

桜の舞い散るお湯の中で激しく愛しあう恋人達、そして次の逢瀬を誓いつつ離れて暮らさなければならない男のもとへある日電話があるのだ。受話器の向こうは愛しい恋人。


お風呂に入っていたら、あの時のこと、思い出してしまって…


くはーーーっ。


レオリオは慌てて妄想を打ち払った。このままでは食事をしながら鼻血を噴く。

「どうした?それ食べないのか?だったら私が食べてやるぞ。」

先付けを食べ終わったクラピカはレオリオの返事を待たずに皿へ手を伸ばしている。無邪気に皿を空にしていくクラピカに、自分の皿を渡しながら、レオリオは緩む口元を必死でひきしめていた。




*****




「露天風呂っていやぁ、これだろう。」

レオリオは小さな黒い塗盆の上に桜の花模様を白く抜いた淡い紅色の徳利とお猪口をおいて湯に浮かべた。はじめから色めいた雰囲気を出してはクラピカは引く。そのあたりのツボは心得ていた。

「クラピカ、来いよ。気持ちいいぜぇ。」

レオリオはゆったりと湯につかった。純粋に露天風呂を楽しむ、としか思っていないクラピカは躊躇いなく近付いて来る。するりと浴衣を脱ぎ、露天風呂の脇の大きな庭石にかけた。

しなやかな白い肢体が、庭のあちこちに置かれた灯りに浮かび上がる。薄紅色の枝垂れ桜の前に立つ姿はすさまじく妖艶だった。

ヤベ…

暴走しそうになる息子をレオリオは必死でなだめた。

我慢だ、我慢。あとでいい思いさせてやるからなっ。

しかし、あまり持ちそうにない。気をそらそうとレオリオは猪口をあおった。ちゃぷ、と水音がして、クラピカが湯に入る。

「夜なのに暖かいな。これなら湯冷めの心配はあるまい。」

確かに、晩春のような暖かさだ。頬をなでる風がなまめかしい。はらはらと薄紅色の花びらが湯の上にも散ってきた。

「クラピカ。」

レオリオは猪口に酒をついでクラピカに差し出す。クラピカがレオリオの傍らによった。猪口の淡い紅色がクラピカの白い肌に映える。

クラピカが口をつけようとした時、はらり、と花ビラが一枚、酒の上に散った。嬉しそうにクラピカが微笑む。

「レオリオ、綺麗だな。」

レオリオは堪らず、桜色の唇を奪っていた。

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桜模様の徳利と猪口セットはわしのお気に入りです。ええ、どーせあたしゃ酒のみよ。
なにやら、しっとり風情とは無縁になりそうな予感をはらみながら、らぶらぶしーんにれっつごうっ!