ちゃぷり、と湯がさざめいた。衝立の隙間から平仄の明かりが漏れてくる。庭の奥から犬の声、静かな新月の夜だ。国光は普段と変わりなく、板張りの廊下に腰を下ろして顔を庭に向けている。

ちゃぷり…

盥の中で不二が身じろぎする度に、湯が小さく音をたてる。不二は両手で湯をすくって顔にかけた。

僕はとんでもない選択したんだ…

頭が冷えてくるにつれ、不二は事の大きさに改めて愕然とした。国光の側にいたい。その気持ちには変わりない。だが、不二は現代に帰るチャンスを失ったのだ。もしかしたら永遠に。

二度と現代に帰れない…

国光に向かって手を伸ばしたときからそれはわかっていたつもりだった。だが、あの時は国光を置いていけない、その一念だけだったような気もする。こうして気が落ち着いてくると、ひしひしと実感が押し寄せてきた。

ちゃぷん…

湯が揺れる。

もう帰れない。

あの時空の穴は中途半端に現代へ戻ったときの現象とは明らかに違う。おそらく不二の体が時空を越える最後のチャンスだったのだろう。

もう二度と…

父や母、由美子や裕太や青学の仲間達にもう二度と会えない。二度とテニスが出来ない。二度と手塚にも…

ちゃぶり、ともう一度、湯を顔にかけた。

それでも僕は国光の側にいたいと思ったんだ…

ただ、まだ気持ちが乱れて整理がつかない。ざぶりと不二は湯から上がった。濡れた肌に夜風がひやりと冷たい。体を拭いて絹の夜着に着替え、衝立の外へでる。国光が立ち上がってこちらを見ていた。黒い瞳が不安そうに揺れている。

いとおしい…

国光の不安げな姿をみて、不二はそう思った。

国光がいとおしい。

不二の中で一番大切な思いだ。不二はゆっくりとした足取りで国光の前に立った。何か言いたげに国光は唇を動かしたが、声にならなかった。不二は微かに笑いかける。国光の手が不二の体に伸びた。そのまま不二は抱き寄せられる。

「不二…おれは…」
「…国光…」

不二は国光の胸に顔をうめ、小さく名前を呼んだ。国光の匂いが胸を満たす。幸福だが、辛くて涙が出そうだ。

「…今夜は一人にしてくれる…?」

びくり、と国光の体が強ばった。不二は抱き寄せられた体を離した。

「頼むから今夜だけ…」

不安げな国光の顔を不二は見つめる。何かを問うように国光もじっと不二を見つめ返した。

「僕はどこにもいかない。君の側にいる…だけど…」

国光の黒い目が不二を映して揺れている。

「だけど、今夜だけは一人で…」

不二はそっと国光の目元を指で撫でた。

「僕の世界にさよならを言いたいんだ…一人で…」

頼むよ…と不二は囁くように言う。国光は目を閉じると、ぎゅっと不二を抱きしめた。それからゆっくりと不二を離す。

「ゆるりと…休むがいい…」

国光は目を伏せ、しかし優しく微笑むと踵を返した。

「国光。」

立ち去る背中に思わず不二は呼び止める。国光が背中越しに振り返った。案ずるな、という風にまた微笑む。

またそんな顔して…

置いてきぼりの子供の顔をしているなど、国光は気づいていないのだろう。不二の胸が切なく痛む。

もう、そんな顔しなくていいのに…

「好きだよ、榎本国光。」

国光の目が驚きに見開かれた。不二はもう一度はっきりと繰り返す。

「榎本国光。誰よりも君が好き。」

呆然と突っ立っている国光に、不二はおやすみ、と笑いかけると部屋へ入った。湯浴み用の衝立の奥には、すでに床がしつらえてある。不二は真綿入りの夜着に潜り込んだ。しばらくしん、と静かだったが、ようやく国光の歩み去る足音が聞こえる。と思ったら、がつっ、と派手な音がした。柱か何かにぶつかったらしい。小さくうめき声も聞こえた。不二は夜着にくるまったままくすっと笑いを漏らした。

動揺しちゃって…

国光の立ち去る音と入れ替わるように、秀次と郎党達が盥や衝立を片づけに来た。不二がもう休んでいると思ったのだろう、静かに作業を終え、足音を顰めて退出していった。再び部屋がしん、となる。時折、犬の吠え声と馬のしわぶきが遠くに響いた。不二はごろりと寝返りをうち、仰向けになった。天井に平仄の影がゆらゆらと映っている。

たった一月…

不二は思い返す。随分と長い時間、ここに留まっているような気がするが、まだ一ヶ月たらずなのだ。それなのに、どうしてここまであの男に心を奪われたのだろう。不二はこの世界に来たばかりの頃を思い起こす。部屋に一人寝かされ、暗闇が恐ろしかった。あまりの静けさに恐怖した。降るような星の瞬きに絶望した。

大丈夫だ、不二…

不安に押しつぶされそうになっているとき、国光はそう言って笑ってくれた。大きな手で髪を梳いてくれた。いつも包んでくれる温もりをもう手放せなくなっている。吊り橋の恋なのかもしれない。寄る辺ないこの時代で、ただ国光に縋っているだけなのかもしれない。

だけど…

不二は庭で泣いていた国光の顔を思い浮かべる。不二が惹かれたのは、あの、国光の寂しい部分だったのではないか。榎本の当主として毅然と振る舞いながら、時折見せる、年相応の若者の顔に不二は惹かれたのではなかったか。ずっと国光の側にいたい。この気持ちは変わらない。

僕は手塚が好きだったのにな…

あれほど何年も片思いをしてきたというのに、今、不二の心を占めるのは、榎本国光ただ一人だ。自分でもそれが不思議でしかたがない。

さよなら…なんだね…

桜並木に立つ手塚の姿を今ははっきりと思い描ける。黒い学生服に身を包み、メガネをかけた手塚国光。その黒い瞳はいつも強い光を宿していた。

さよなら…僕の好きだった手塚…

涙が溢れてきた。

僕は本当に君が好きだったんだよ。

仰向いた不二の目尻から耳へ涙が伝った。絹の夜着を濡らしていく。

さよなら、父さん、母さん…

家族の笑顔が、友人達の顔が、後から後から浮かんでくる。

裕太、由美子姉さん、エージ、タカさん…

天井を見上げたまま、不二は涙を零した。様々な風景が脳裏を駆けめぐる。自分の家のリビングで笑う家族達、青学のテニスコート、生意気だけど可愛い後輩達、友人達のと馬鹿騒ぎ…次から次へ、なつかしい顔が、思い出が浮かんでは消えた。

もう母さんの作ったご飯、食べられないね。姉さん、合宿前に占って貰えばよかったのかな。裕太、ごめんよ、もうテニスの相手、してあげられないよ…

もう二度と会えない。不二は、皆が生まれる遙か過去に生きて死んでいくのだ。

「僕のサボテン、面倒みてよ…」

嗚咽とともに不二は呟く。

「僕のこと、忘れないで…」

そしていつか、僕を見つけて。八百年昔の記録でもなんでもいい。

不二は夜着の中で体を丸め、しゃくりあげた。

過去の中に僕を見つけて。

体を震わせ、不二は泣く。夜風が海鳴りの音を運んできた。静かな夜、時折響くのは馬のしわぶきと風の音。

さよなら、もう二度と会えない、僕の大事な人達…

月のない静かな夜に、不二は元の世界に別れを告げた。

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………や、うちは塚不二サイトですから、ざんね〜ん(昨日、エンタの神様を見たのがもろわかりのコメントだってばよ)