甘かった…




不二は寺の一室で茶のもてなしを受けていた。といっても、国光以外の者にとって不二は「神の使い」であるから、扱いは「神仏」である。特別に設えられた座に不二は一人鎮座ましましていた。


僕が甘かった…


不二は目の前の抹茶をぐびっと飲んだ。舌に広がる苦味も乾汁と思えば旨いものだ。はぁ〜っと不二はため息をついた。風呂といわれて舞い上がっただけに落胆は大きかった。風呂がまさかサウナとは。しかも狭い、暗い、息苦しいと三拍子揃っていた。


鎌倉時代、あなどりがたし。


もとの時代に帰ったらちゃんと日本史の勉強をしよう、いや、その前に「教育委員会監修 郷土の歴史と文化」を熟読しなければ、

決意も新たに不二は抹茶を飲み干し、目を外に向ける。暗がりを嫌がる不二のために部屋の中には多めにひょうそくが置いてあり、庭には松明がたいてあった。辺りはシンとしていた。今、国光以下、榎本の郎党家人にいたるまで、風呂を使っているはずだ。それなのにこの静けさはどうだろう。人の話声どころか、足音すら聞こえない。ただ、松を渡る風の音と、松明のはぜる音ばかりが耳につく。

お風呂って、特別なのかなぁ…

不二は寺へ向かう行列の雰囲気を思い出していた。そう言えば、館を出る時から誰もしゃべらず、妙に重々しい空気が漂っていたような気がする。国光ですら声を顰めて慇懃だった。

ふと、真っ暗なサウナから飛び出して国光にしがみついた時の事を思い出し、不二は顔を赤らめた。むっとこもる熱気のせいでいつもよりきつい国光の匂いに、不二はどぎまぎしてしまった。

他の人間のものならば、汗臭いとか体臭がきついとか、そう思うはずなのに、国光の匂いだけは嫌じゃない。この匂いに包まれるとき、手塚と同じ顔で同じ声をしていても、国光はやはり違う人間なのだと強く思い知る。そして不二が不安や恐怖を感じた時にはいつもこの匂いがそれらを払ってくれるのだ。

同時に耳元に囁かれる言葉、「大丈夫だ、不二」と低く囁かれる言葉…

不二はぶんぶんと頭を振った。

これじゃまるで国光のことを好きになっているみたいだ。

違う、と不二は己に言い聞かせた。

国光は手塚じゃない。同じ顔をしていても手塚じゃない。こんな時代に飛ばされて気弱になっているから、手塚にそっくりな国光に心がざわめくのだ。手塚そっくりの顔で優しくするから、力強く抱きしめてくるから、あんな目で見つめてくるから…


「なにを百面相しておる。」
「うわっ。」


目の前に国光が立っていた。

「なっ何、君、いつの間にっ。」
「呼べどいらえなきゆえ心配したではないか。のぼせたのかと思ったぞ。」

ずかずかと部屋へ入ってきた国光は、碗を差し出した。

「水だ。茶では足りぬと思ってな。」

他の者達が来る前に飲んでしまえ、と国光は笑った。確かに、忠興あたりがいたら、茶か酒にしろとうるさそうだ。不二は碗を受け取ると一気に飲んだ。存外、喉が乾いていたらしい。不二はほっと息をつく。

「ねぇ、皆は?」
「順に風呂を使っておる。じきに忠興叔父と秀次が参ろう。」
「ふーん…」

相変わらず辺りは静まりかえっている。松明がばちっとはぜて火の粉を飛ばした。しんとした闇、ゆらゆらとひょうそくの灯りが揺れると闇も揺れる。かさっと直垂の擦れる音がして、国光が身じろいだ。ゆっくりと国光の手が伸びてくる。不二の髪に触れた。じっと不二を見つめてくる。

国光の瞳、黒く燃えるような瞳…

国光の大きな手が髪を梳く。ぼんやりとしたまま見つめ返していた不二は、うっとりと目を細めた。

国光の手は温かい…

「不二。」

国光が低く不二の名を呼ぶ。安心できる国光の声。

「不二…」

国光の手が頬を撫でる。そのまますっと唇に触れた。灯りの炎が国光の瞳に写っている。黒い炎が宿っている。国光は指で不二の唇をなぞった。

「くにみ…つ…?」

炎に引き込まれそうな目眩を感じて、不二は怯えた。国光は名を呼ぶ唇を指でたどる。

「くにみ…」
「殿ーっ、殿ーっ。」
「いずれへおわしますやーっ。」

響いてくる声に不二はハッと我に帰った。国光がさっと身を引く。

「殿っ。」

だみ声は忠興だった。続いて秀次が姿を現す。

「また殿のこれへあるやっ。御渡り様への邪魔がすぎましょうぞっ。」
「いつもながらお主ら、まっこと不粋よ。」

国光は不二の手前に座ったままむすっとしている。

「なにが不粋じゃ、殿っ。風呂は御仏に仕うる大事の行ぞ。皆が風呂の行をおこのうておるに、長がおらんでどうする。」
「お探し申せば案の定、御渡り様の側におるっ。ここは寺じゃ。館におる時のようなされては困るとあれほど申し上げましたにっ。」
「殿っ、聞いておるのかッ。」
「ああ、聞いておる聞いておる。お主らの声は格別耳によく通る。」

しれっと答える国光に二人が切れかけた時、衣擦れの音がして小僧をともない住職が廊下を渡ってきた。

「おお、殿にはこちらにおわしましたか。」

部屋の前で住職は平伏した。国光を咎めようと躍起になっていた忠興と秀次もハタときづいて不二に平伏する。住職が恭しく言上した。

「館の方々の風呂はまだ時がかかりますゆえ、ささやかながら膳を用意させてござります。御渡り様には何とぞ御寛ぎくだされますよう。」

あ、ご飯か。

もともと不二はカンがいい。三日目ともなるとまわりくどい敬語を使われても何を言わんとするのかわかるようになってきていた。

「ねぇ、皆で食べない?僕ひとりじゃつまらないし、忠興や秀次…住職さんも一緒に食べようよ。」

一人だけ食べるのをじっと見られるのはどうにも慣れない。恐縮する住職達を押しきり、不二は膳を運ばせた。もぐもぐと精進料理を口に運びながら不二は風呂のことを聞いた。どうやらこの時代の風呂とは、修行の一環らしい。風呂でおしゃべりするなど、もってのほかなのだ。

ど〜りで、皆、雰囲気重いはずだよ〜

箸をもったまま、は〜っと不二は脱力していた。

「僕らの時代のお風呂ってね、たっぷりのお湯に入って、ボディソープとかシャンプーで洗ってね、だから…その、修行じゃないんだ。」

ぼでぃそおぷ?と目をぱちくりさせる忠興達に不二は苦笑する。と、国光が突然聞いてきた。

「不二は…」

えほん、と秀次と忠興が咳払いする。顔を顰め、国光は言い換えた。

「御渡り様には、お湯の中にはいる風呂を所望でござりましたか。」
「え〜、そうだけど、いいよ、ないんだし。」
「湯ならばいくらでも沸かせますぞ。」

なぁ、御坊、と国光が問いかけると、住職が箸を置いて平伏した。

「風呂に使う石を焼いておりますれば、湯を沸かすのは造作もないことかと。」

不二はきょとんとした。

石を焼く?

国光がさりげなく言った。

「我らは火で石を焼き、風呂の下にすえて水をかけ、湯屋を蒸しまする。なれば御渡り様お一人が入る湯を沸かすのも容易いことかと存じ上げます。」

不二の目が輝いた。

「ほんと?ホント国光。お湯に入れる?」

期待してはいけない、今まで嫌というほど学んだにも関わらず、胸が踊るのをどうしようもなかった。実際、湯屋で蒸された汗がベタついて気持ち悪かったのだ。

「しかしながら殿…」

おそるおそる、といった体で住職が割って入った。

「御渡り様がお入りになれるほどの大きな桶がありませぬ。」
「あ、いいよ。お湯で体、拭けるんだったらそれでいいから。」

本当にそれだけでいい、不二はそう思った。この際、期待もしないし贅沢もいわない。その時、国光がぽんと膝を打った。

「あるではないか、御坊、人ひとり、充分入る桶が。」

皆が怪訝な顔で国光を見る。国光は至極真面目に頷いた。

「せんだって三の辻の婆様が葬式の途中で息を吹き返したであろう?その時の棺桶が使わぬまま寺に置いてあるではないか。あれならば御渡り様が充分入れる大きさ…」
「「「とっのーーーーーーーっ。」」」

三人分の飯粒が景気よく飛び散った。




☆☆☆☆☆☆




結局、部屋に湯を張った盥を持ってきてもらい、腰まで入ることができた。もちろん全員外へ追い出した。誰か供のものを、と住職や忠興が主張したが、珍しく国光が強く却下した。

誰もいないので当然裸で不二は腰湯を使う。温かい湯に入り一息つくと、どっと疲れが押し寄せた。

疲れた…

不二はこの三日間を思い返した。本当にとんでもなかった。とんでもない目にあってばかりだ。もし国光に拾われていなかったらどうなっていただろう。

ふと、人の気配がした。戸口は開け放したままで、布を垂らした衝立を置いている。気配はその衝立の前で止まった。腰をおろしたようだ。

「国光…」
「うむ?」

やはり国光だ。部屋を出ていけといわれて、律儀に廊下に控えているのが可笑しかった。

いつもはオレ様のくせに。

不二がくすくす笑っていると、憮然とした声が返ってきた。

「なんだ、何を笑っている。」
「ううん、ただね、ただ…」

ありがとね。

小さく不二は言った。国光の気配が和らぐ。

「いきなりどうした。」
「うん、ちょっとお礼言ってみたかっただけ。」
「なんだ、またふんどしを締めてほしいのかと思ったぞ。」
「ばっばっかじゃないのっ。」

目の前にいたら、お湯を引っ掛ける所だ。人がちょっと殊勝になってみたらすぐ調子づく。暗がりとはいえ、湯屋でふんどしの締めかたを教わりつつ国光にやってもらったのは顔から火が出るほど恥ずかしかった。くっくっと国光の笑い声が聞こえた。

「案ずるな。湯屋は暗かったであろう。不二の裸は見ておらぬ。」
「…嘘ばっか。」

見えてたくせ、とふて腐れると、国光がいっそう笑った。
不二は思う。こうやって茶化してくるのも案外国光の思いやりかもしれない。
遠くに人のざわめきが聞こえてきた。皆、風呂をすませたのだ。不二はちゃぷりと水音をさせて盥から出た。

「もうよいのか?」

不二が布で体を拭いていると、国光が声をかけてきた。

「うん、さっぱりした。ありがと、国光。」
「…うむ。」

どこか照れた響きに不二は胸が温かくなる。

「あのね、国光…」
「うむ?」
「…あのね、拾ってくれてありがと。」

一瞬、国光が息をのんだようだった。それから小さいため息が聞こえる。

「不二…」
「なに?」

不二がきょとんと答えると、国光はぽつっと小さく呟いた。

「不二はおれに拾われていろ。」

ずっとだ、と無愛想な声が続く。

「何それ、変なの。」

不二はくすくす笑った。がやがやと人のざわめきが近付いてくる。辺りが急に賑やかになってきた。馬の嘶き、犬の吠え声、足音に混じって忠興のだみ声が響いている。不二は急いでジャージを身につけ、衝立の外へ出た。国光がいる。

「帰ろうよ、国光。」

不二はにこっと笑って手を伸ばす。握り返された国光の手は温かかった。


☆☆☆☆☆☆☆☆
国光、忍耐だ。揺れる不二君、ど〜すんでしょ〜ね〜。一応、鎌倉パニックが一段落して、次からはすこ〜しずつ進展させなくちゃなぁ…