「あ…」

一年の教室を出て、園芸用の道具倉庫に行こうと 特別棟の裏手にまわった不二周助は足を止めた。
春まだ浅い冷たい大気に芳香が漂っている。こんもりとした沈丁花の植え込みが白い小さな花を咲かせていた。

もう一年たっちゃったんだ…

そっと指で花に触れる。

「僕のラッキーフラワー。」

小さく呟くとくすっと笑いをもらした。


☆☆☆☆☆☆


「あんな強い子、初めてだよ、裕太。」

都内のテニスクラブ親善試合の日だった。
不二周助は、くせのある黒髪の、仏頂面の少年に完敗した。同じ小学生のなかでは抜きん出た実力を誇り、たとえ負けてもそれなりに力量をみせつけてきた周助が、今日にかぎって為す術なしだったのだ。

「本当にすごいよ。全く歯が立たなかったんだからね。」

わくわくするのを押さえられない、そんな声をしている。裕太は憮然とした。
「ねぇ、アニキ、悔しくねぇの?」
「そりゃあ悔しいさ。もう、どうしようもないくらい悔しいよ。」
にこにこ笑って周助は傍らを歩く弟を見た。
「ほんっとーに悔しいったらないよ。」
そーはみえねぇんだってば、裕太は心の中で独りごちた。まったくこの兄はわからない。悔しがっているのは嘘じゃないのだ。柔和な見かけに反して負けん気は人一倍強い。それは弟の裕太が一番よく知っている。
だが、周助が心底楽しんでいるのも事実なのだ。
強い相手は恐いと思う。渾身の力をぶつけられる相手を望む気持ちは裕太にもわかるが、やはり強大な敵は恐ろしい。周助にはその恐怖の感覚が抜け落ちているんじゃないだろうか。 要するに…

兄は鈍いのだ。

裕太はむっつりとその笑顔を見やった。周助は相変わらずにこにこ笑いながら、悔しいだのいつかやっつけるだのとしゃべっている。
「ますます練習がんばらなきゃね、裕太。」
「あのなぁ、アニキ、へらへら笑いながらじゃがんばるように見えねぇんだってば。」
「え、僕、笑ってなんかないよ。」

笑顔の兄がきょとんと答えた。裕太は頭を抱えたくなった。
ああ、こんなだから、変に勘違いされんだよ、こいつは…
どこかしら線の細い周助は、派手で目立つプレーヤーではなかった。勝ち続けているわけでもない。
ただ、妙な存在感があった。強い相手に負けていても、いつの間にかその相手をこえてしまう。にこ
にこと温和な笑みをうかべながら、気がつくと遥か高みへ駆け昇っているようなところがある。笑顔の裏に感情を隠してスキがない、そう信じ込んでいる輩もいるほどで、人をして周助を天才と呼ばしめるのは、そんな得体のしれなさゆえだった。だが、裕太にはわかっている。

こいつ、天然なんだってば…

そう、不二周助はこんな顔なのだ。鈍いのだ。しかも、自分はその兄にまったく勝つことができないでいる。裕太はつくづく、やっかいな兄を持ったと運命を呪った。ついでに、ちょっと意地悪を言ってみたくなった。
「結局さ、由美子姉さんの占い、あたんなかったな。アニキ、ぼろ負けしちまって、全然いいことなかったじゃん。ラッキーフラワーなんて、嘘っぱちでやんの。」

朝、出がけに姉の由美子が沈丁花の花を一枝、周助のテニスウェアのポケットに入れた。甘い香りがポケットから立ち上る。プンプン匂いさせて女みてぇ、裕太が馬鹿にしたように言うと、今日の周助のラッキーフラワーよ、とってもいいことがあるみたい、そう姉は笑ったのだった。

「あたったよ、姉さんの占い。」

へ?と怪訝な顔をする弟に周助はくすりと笑いかけた。
「ほんとにラッキーフラワーだったよ。」
何だよ、それ、教えろよ、と騒ぐ裕太に、ひ・み・つ・とまた嬉しそうな顔をする。裕太は周助から沈丁花の花の香りがしないのに気がついた。ポケットに花がない。なんだか胸がもやもやした。
「アニキ、あの花、どーしたんだよ。落っことしたわけじゃないんだろ。」
「だから、秘密だってば。」
くすくすと周助は楽しそうに笑う。秘密と言われて、ますますもやもやがつのる。天然とわかっていても、この人を食ったような笑顔にはブチ切れる。不二裕太の本当の不幸とは、このつかみどころのない兄を実は大好きなのだということかもしれなかった。


☆☆☆☆☆☆


「変な奴だ。」

手塚国光は手の中の花をしげしげと眺めた。もうしおれているのに、星の形をした小さな花からはまだ甘い香りがする。

「変な奴…」

もう一度小さく呟く。その花をくれたのは今日の試合の相手だった。
正直、驚いた。強い…優しげな印象とずいぶん違うその強さに、思わず必死になった。パワーがあるわけではなく、かといって派手で華麗なわけでもない。何といおうか、とらえどころのない相手だった。試合をおえて握手を交わしたとき、その少年はにっこり笑ってこう言った。
「君、強いねぇ。でもいつか絶対やっつけるから。」

自分よりひとまわり小さいその少年の目に、手塚はとまどった。これまで自分に向けられてきたものと全く違う目をしていた。強さに対する畏怖の念か激しい敵愾心、それ以外のものを手塚はみたことがない。それなのに、目の前の少年にはそのどちらの色も浮かんでいないのだ。ネットをはさんで一緒にコートを出ながら、手塚国光はもう一度まじまじと少年を見つめた。ふと、覚えのある香りが鼻
腔をくすぐる。試合前に握手をしたときにもふわりと漂った香り、そして、それは自宅の庭先にあるたしか…

「沈丁花か?」

うっかり声にだしてしまった。少年が琥珀色の瞳を嬉しそうにきらきらさせて見上げてきた。
「あれ、珍しいね、花の名前知ってるんだ。」
「…いや、今朝母に、庭の沈丁花を切ってこいと言われて、だから…」
ぼそぼそと言い淀む。
「そーなんだ、僕はね、姉さんがポケットにいれてくれたんだ。今日のラッキーフラワーだからって。」
「ラ…ラッキーフラワー?」
相づちをうってから、手塚国光はしまったと慌てた。コートの横で何を話しているんだ、おれは…だが、少年はまったく気にせず、屈託のない笑みを向けてきた。
「うん、ラッキーフラワー。姉さんの占いだよ。今日はいいことあるって。」
それからポケットの花を取り出す。
「占い、あたっちゃったみたい。はい、これ、あげるね、君に。」
ぽかんとする手塚の手に少年は花を渡した。ふいに少年は、あ、と声をあげた。誰かに呼ばれたのだろう。
「僕、もう行かなきゃ。じゃ、またね。」
茶色い髪をさらりと揺らして、少年は駆け去った。君、名前は…今度は声にならなかった。ただ手塚は少年の後ろ姿を見送った。

名前、聞けばよかったな…

控えの席にもどった手塚は対戦表を手にとった。不二周助、自分の相手の枠にはそう書かれていた。

不二っていうのか。

手塚はテニスバックにラケットをしまう。そして、少しためらってから手の中の花を一緒に入れた。
手塚には自分がどうしてそんなことをしたのか、さっぱりわからなかった。
そんな手塚を 少し離れた場所で同じテニスクラブのメンバーがこわごわ伺いみていた。
今日の手塚さん、いつもにまして表情ないよな、そうひそひそ囁きあいながら。